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11月14日(聖霊降臨後第25主日)の説教

主の御名を讃美いたします。


朝、布団から出るのが辛くなってきました。

皆さんはいかがでしょうか。今週は全国教師会の退修会がzoomを用いた形で持たれました。久しぶりに顔を見る先生も居られました。よい交わりの時を与えられたと感じています。

中々対面で会うことは適いませんが、zoomなどのツールを有効に用いていく時代になっているのかもしれません。私個人としてはやはり対面の方が好きですが。


遅くなりましたが、本日の礼拝のご案内です。

10時30分から礼拝堂に集って共に神様の恵みに与かってまいりましょう。

今日は礼拝後に信徒会がございます。竹田が神戸東教会の礼拝奉仕なので、式文は短縮式文とさせていただきます。


出席叶わない方、健康にご不安をお覚えの方はお用いください。 配信は10時20分から始まります。 以下の「日本福音ルーテル西宮教会 - YouTube」という文字を10時20分頃にクリック(選択)していただければご覧になれます。 式文につきましては、通常式文に戻しています。すみませんが、式文の送付はございません。

どうぞ皆さんの新しい週が神様の導きと恵みに溢れますように。 牧師




聖霊降臨後第25主日

聖書日課

第一日課 ダニエル書 12章1節‐3節 (旧)1401頁

12:1その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く/国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう/お前の民、あの書に記された人々は。

2多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。

3目覚めた人々は大空の光のように輝き/多くの者の救いとなった人々は/とこしえに星と輝く。


第二日課 ヘブライ人への手紙 10章11節‐14節,19節‐25節 (新)413頁

10:11すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。12しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、13その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。14なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。


奨励と勧告

19それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。20イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。21更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、22心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。23約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。24互いに愛と善行に励むように心がけ、25ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。


福 音 書 マルコによる福音書 13章1節‐8節 (新)88頁

神殿の崩壊を予告する

13:1イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」2イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」


終末の徴

3イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。4「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」5イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。6わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。7戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。8民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。



【説教】栄枯盛衰、では変わらぬものは?

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


教会暦もあと今日の主日と来週で終わりを迎えます。その時にあって与えられている御ことばは「終わりの時」についてです。キリスト教において「終わり」とは、始まりの時でもあります。先週の日課に新しい天地についてヨハネの黙示録から聴いたように、この世の終わりが訪れる時、神の支配による新しい始まりとなるのです。その終わりの時に向かって私たちは歩んでいます。但し、この終わりがいつ訪れるのは私たちにはわかりません。ですから、御ことばから聴きながら、その備えを私たちはしていくのです。


キリストの視線は、オリーブ山から西側に建つ神殿を見つめていました。キリストは「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」と語られます。

弟子たちは、その壮麗な建物が崩壊することなど考えもしていなかった様子が伝えられています。事実、当時のエルサレム神殿はその敷地は広大であり、当時のエルサレムを治めていたヘロデ王によって神殿が改宗され華麗な神殿が建てられていたそうです。


「建てられていた」と言いましたのは、事実キリストが語られた通り、その後ローマへの反乱として起こったユダヤ戦争によってローマによって70年に破壊され、今は「嘆きの壁」で有名な南側にその一部が遺るのみです。キリストの言は事実として起こったこととなったのです


翻って私たちもまたこれが無くなる、壊れるなどと思いもよらないことがあると思います。しかしながら、この世のものはいずれ失われていきます。その最たる事柄が命だと言えるでしょう。

私たちを着飾っているように見えるものはたくさんあります。衣服はもちろん、地位や名誉、何をしてきたか、どのような性格か、人脈など立派だと思えることを着飾って生きています。


また、新型コロナウイルスによって私たちは誰もが命の危機を覚えました。自分の命に終わりがあることを薄々とは感じて生きていた、しかしながら、それに蓋をしてそれが無いような態度を取っていましたが、新型コロナウイルスが私たちの命は終わりがあるということをまざまざと見せつけてきました。老いも若いも関係なく、この小さなウイルスが命をどんどん奪っていくという恐れに憑りつかれました。


「命の在り方」というものを私たちは問われている、そういう時代に生きています。そのような中で本当に様々な声が存在しています。私たちを惑わす様々な事柄、言葉が存在しています。そして、多くの人々が自分を安心させてもらえるそのようなものを求めています。

そのような中でキリストは今日の御ことばを通して「惑わされないように」と警告されています。様々な声が聞こえる、意見がある、考えがある。しかしそれが真に神の御心か吟味することをキリストは警告しているのです。


「惑わされる」とは直訳気味にギリシャ語の言葉から訳しますと「正道を外れる」という意味があります。何が「正道」なのかと言うならば、神の御心に聴いて生きるといいうことです。しかしながら、残念なことに私たちは完全に神の御心に聴き従い生きることはできません。惑わされる者です。生きる中で様々な声に惑わされてしまいます。


そういう意味では、私たちの命は変化し、堅固ではありません。いつか壊れるものです。石の上から崩れ落ちるものでしかありません。しかしながら、キリストの命は永遠に残ります。ここで語られている神殿が私たちの命を指しているのであれば、キリストの命は、たしかに十字架の上で死なれ、壊されました。しかしながら、聖書に記されているように三日目に死人の内から復活されました。


なぜならば、キリストは唯一人間の中で堅固な石の上に立ち続けたからです。それは神の御ことばに徹頭徹尾従い、神の御心を成し遂げられたからとも言えます。そして、その御心とは、私たちが正道を外れ、神の御前に罪を犯し、罪人となっている状態から救い出すことです。このためにキリストは来られ、十字架に架かり、死んで、復活されたのです。


そして、弟子たちの目の前で生きたまま天に上げられ、またその姿でやってくるという約束を残されました。それが終わりの時だと聖書は語ります。永遠に変わらない命、救い主としてキリストは生きているのです。私たちの命は本来罪によって永遠ではありません。変わりゆきます。惑わされます。


イスラエルのように荘厳な神殿を建てて、はじめはバビロン捕囚によって神殿は破壊され、その後再建をしてもユダヤ戦争によって破壊されました。どんなに栄華を誇り、壮麗な建物を建ててもそれは崩れ落ちるものでしかありません。命もいつか崩れ落ちる、惑わされ石の上に建つことができなくなってしまう。


平家物語の冒頭「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」とあるように私たちの歴史は栄枯盛衰の繰り返しです。きっと新型コロナウイルスも喉元過ぎればとなることがあり、あんなことがあった、大変だったと思い出話になるかもしれません。そして、教会もまたあの頃はよかったなどとノスタルジーに浸ってしまう時もあります。人間のなすことですからそういう詰まらないものに囚われてしまい、かつての隆盛を思い出すこともあるでしょう。


しかし、過去のことであれ、現在のことであれ、将来のことであれ、私たちにキリストは惑わされてはならないと語り掛けます。いつも神の御ことばに聴き、どのような御心が示されているのか、栄枯盛衰するものではなく、変わらない神の支配、永遠の命の約束の内に生きるようにと、いつ終わりが来てもいいように神の御ことばに立って生きていく道を示してくださっています。


変わり行くものに目を奪われるのではなく、変わらずに語り掛ける神の御声に耳を澄ましてまいりましょう。様々な苦難がありますし、困難さを覚えますが、永遠のものによって導かれている幸いとこの永遠に変わらないものによって生かされている喜びをしっかりと心に据えて歩んでまいりましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

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