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7月18日(聖霊降臨後第8主日)の説教

更新日:2021年7月25日

主のみ名を讃美いたします。


梅雨が明けました。

夙川の遊歩道ではセミが数日前から大合唱を始めました。

不思議なもので梅雨明けのタイミングに合わせたかのようにセミたちは現れます。

今週からまん延防止等防止措置も解除されましたので、礼拝における式文を通常のものに戻してまいります。一年以上に亘って短縮式文での礼拝でした。

コロナ前のように元に戻ることは決してありません。しかしながら、こうして通常式文に戻ることもコロナという世界的に蔓延する病がどういうものか分かってきた証しでもあるかと思います。

もちろん、未だにデルタ株による感染拡大が心配されている状況ですから、十分すぎるほどに注意が必要です。ワクチン接種が進んできたとはいえ、油断をしてはなりません。

隣人を傷つけるのではなく、敬い、愛し、祈りあうことには変わりありません。

どうぞ来会の際には、手洗いうがい、手指の消毒、マスク着用などにご協力をお願いいたします。


今週から通常式文に戻りますので、説教のみを掲載することにいたします。


ユーチューブから礼拝の模様を配信しています。

10時20分から始まります。 以下の「日本福音ルーテル西宮教会 - YouTube」という文字を10時20分頃にクリック(選択)していただければご覧になれます。

それぞれ置かれた所で神様の御ことばの恵みに与かってまいりましょう。

新しい一週間が守られますようにお祈りしています。 在主


牧師



「主は憐れまれ、教えた」


主日の祈り

力と憐れみの神様。あなたは羊飼いとして私たちを養い守ってくださいます。御子の正義と平和をもたらすために、私たち一人一人を癒し、一つの民としてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン


聖書日課

讃 美 唱 詩編23編

23:1【賛歌。ダビデの詩。】

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。

2主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い

3魂を生き返らせてくださる。


主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。

4死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。


5わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。


6命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。


第一日課 エレミヤ書 23章1節‐6節 (旧)1218頁 

ユダの回復

23:1「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる。2それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。

「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」と主は言われる。

3「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。4彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。


5見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え/この国に正義と恵みの業を行う。

6彼の代にユダは救われ/イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。


第二日課 エフェソの信徒への手紙 2章11節‐22節 (新)354頁

キリストにおいて一つとなる

2:11だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。12また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。13しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。

14実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、15規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、16十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。17キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。18それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。19従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、20使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、21キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。22キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。


福 音 書 マルコによる福音書 6章30節‐34節,53節‐56節 (新)72頁

五千人に食べ物を与える

6:30さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。31イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。32そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。33ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。34イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。


ゲネサレトで病人をいやす

53こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。54一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、55その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。56村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。


【説教】

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


先日、孤独に関するアンケートが2000人に行われ、その結果50%以上の方が孤独を感じているとのことです。コロナによって私たちの社会は様々なところで分断が生じていると感じます。この病が蔓延し始めたころ、まだこの病についてよく分かっていない頃には、医療従事者やその家族への差別がありました。現在は、お酒を供するお店が取り沙汰され、大変苦しい窮状が報じられています。オリンピックにしても様々な意見があり、私たちの間に分断が生じています。


私たちは、そのような中で安心を求めています。隣の人を疑うような世界の中でどうしたら自分が安心を覚えながら生きていけるのか。それを探し求める旅をずっと歩んでいる。そういう気持ちになっている人が本当に多いと思うのです。孤独のことに関しても、先ほど2000人の内50%以上の人がその思いを抱えながら生きているというのは健全とは決して言えません。孤独感を感じることが悪い事とは言いませんが、しかしながら、そのような思いを抱えている人の中にどれほどの人がその思いを分かち合ったり、吐露できる人がいるのかと想像すると胸が苦しくなる思いがするのです。


そのような思いを抱える人間の姿をまさに今日の福音は伝えています。

「多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。」という群衆の描写がそれを伝えています。

この時、方々で評判が広がり、有名になっていたイエスに何とか出会おうと「先に着く」ほどに熱心になって縋っている姿が映し出されています。人々の心の内に痛みがあり、悲しみがあり、孤独を抱え、助け手の居ない状態であったということが想像できます。


そのような人々を見つめてイエスは「34イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」のです。

深い憐れみをもってイエスは私たちの孤独、痛み、悲しみ、傷に眼差しを向けておられるのです。ただ可哀想だということでなく、民衆一人ひとりの抱える思いを自分のものとして受け取り、深い共感と痛みをもって受け取ってくださっているイエスが私たちの眼前に居られるのです。


なぜそのような思いを人間が抱えているのでしょうか。それは、本日のエレミヤ書、またこの主日の備えとして与えられていた木曜日からの日課に見るならばエレミヤ書10章、12章に示されているように、私たちが神ではなく偶像を拝み、「わたしはあなたと争い」(12:1)とあるように、何よりも神と分断が生じているからなのです。神との交わりの内に生きる者であるならば、間違いなく永遠の満たし、平安が与えられています。しかし、私たちは神ならざるものを神として置き、拝んでしまう。神の御心が示されているにもかかわらず、自分の思いを優先して神と争っているのです。


私たち人間同士の内に起こる分断、そしてそれによってもたらされる孤独、痛み、悲しみの根本にあるのは、私たちが神から離れていることにあるということに気が付かされるのです。それゆえに、本日の日課に示されているエレミヤ書にあるように「わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たち」によって心をむしばまれ、命を滅ぼされていったのです。そして、この「滅ぼし散らす牧者たち」とは神ならざるものであり、何よりも私たち自身なのです。


私は、私では隣人を本当に養い、導き、安心させ、憩わせることはできません。そして、この世の何かもそれをすることはできません。私、お金、地位、権力、学歴など様々にこの世の力の秤になるものは、私たちにとって本当は何の役にも立たないものだということに気が付かなければならないのです。

もし、私が救いをもたらし、救いへと至らせる何かを持っているなどと考えるならば思い上がりもいいことです。善いことをしたから天国に行けるなどと考えてはならないのです。なぜならば、人間は悪しかできないからです。それほどまでに私という存在も含めこの世のものは神から遠く離れ分裂し、分断を生じさせているのです。


私自身の悪、罪の故に人間は「飼い主のいない羊」となっているのです。真の平安を自ら捨てているのは私である。この思いをまず見つめる、そして、深い悔い改めをもって神に告白し、神の御ことばに聴いていくことが私たちにとっての唯一の平安、安心の道なのです。この世の何かではなく、神を神とし、キリストの十字架こそが救いであり、まことの平安をもたらすしるしであると信じる信仰が私を孤独、痛み、悲しみから解放するのです。


真に傷つき、悲しみを覚え、救いようのない存在である自分を神に投げ打って一心に縋った人々はどうなったでしょうか。「せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。」のです。

病人は、罪のためにその病に罹ったと言われ、肉体的痛みだけでなく、社会的な排除に遭い、御国から最も遠い存在として信仰的にも深い傷を負っていた人々です。そのようにされていた人々の姿に倣うべきだと気づかされます。


いま申し上げたように、彼らは自分が救いに与かることなどできないことは重々承知の上で、自分が罪人であるという深い痛みと悔い改めをもってキリストに臨み、その服のすそにでも触れさせていただければという信仰をもってキリストに臨んだのです。ここに示される「触れる」という言葉は、ただ単に触れるという意味合いではなく、「すがりつく」という意味として使われる言葉です。この方こそが私をまことに生かす方であるという信仰が示される言葉なのです。


そうして癒され、孤独、痛み、悲しみから解放された者の思いが詩編23編の冒頭の言葉「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」という確信に至らせるのです。この世の何かを牧者としているのであれば、いつまでも欠けがある。満たされない思いを抱えて生きなければならない。しかし、信仰によってイエスを何とか掴もうと手を伸ばすとき、神との和解が起こり、「何も欠けることがない」という力強い讃美をもって、喜びと希望に満ちた命の営みに変えられるのです。


神ご自身の深い憐みの眼差しが私たち一人ひとりに注がれ、私たちの真の牧者である方がキリストであることを私たちは覚えていきたいと思うのです。私たちはすぐにこの世の何かを牧者として縋りつき、神から離れてしまいます。しかし、今日御ことばを通して教えられたように、真の牧者はキリストであり、その方を信じ、その方の教えに耳と心を向けて、従って生きるとき、命の炎が灯り、喜びの躍動をもって生きることができることを示されました。


罪人である自分をしっかりと見つめながら、その自分をそのままに投げ打って、信仰をもって神に手を伸ばし、掴みながら歩んでいきましょう。この手を放してしまえばたちまちに悪が入り込み、罪へと誘い、再び孤独、悲しみ、痛みの内に苛まされます。しかし、これらのものを本当に癒してくださる方が居られます。この方を待ち望んでいる人々、求めている人々がまだ世には沢山おられます。

ですから、今日の福音の恵みを与えられた私たちは、あなたを本当に癒し、平安に導き、希望に溢れされる方が居られることを宣べ伝えていきましょう。この方こそが真の牧者、命の源、満たしを与える方であるということを信仰によって覚えてまいりましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

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