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ltnishinomiya

12月26日(降誕節第1主日)の説教




主日の祈り

神様、すべての行いが御心にかない、いつも御子の光の中を歩みことができますように。私たちの心を御言葉へと開き、あなたの知恵の光で照らしてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン


讃美唱 詩編 148編 (旧)988頁

148:1ハレルヤ。天において主を賛美せよ。高い天で主を賛美せよ。

2御使いらよ、こぞって主を賛美せよ。主の万軍よ、こぞって主を賛美せよ。

3日よ、月よ主を賛美せよ。輝く星よ主を賛美せよ。

4天の天よ/天の上にある水よ主を賛美せよ。


5主の御名を賛美せよ。主は命じられ、すべてのものは創造された。

6主はそれらを世々限りなく立て/越ええない掟を与えられた。


7地において主を賛美せよ。海に住む竜よ、深淵よ

8火よ、雹よ、雪よ、霧よ/御言葉を成し遂げる嵐よ

9山々よ、すべての丘よ/実を結ぶ木よ、杉の林よ

10野の獣よ、すべての家畜よ/地を這うものよ、翼ある鳥よ

11地上の王よ、諸国の民よ/君主よ、地上の支配者よ

12若者よ、おとめよ/老人よ、幼子よ。


13主の御名を賛美せよ。主の御名はひとり高く/威光は天地に満ちている。

14主は御自分の民の角を高く上げてくださる。それは主の慈しみに生きるすべての人の栄誉。主に近くある民、イスラエルの子らよ。ハレルヤ。


聖書日課

第一日課 サムエル記上 2章18節‐20節、26節 (旧)431頁 

2:18サムエルは、亜麻布のエフォドを着て、下働きとして主の御前に仕えていた。19母は彼のために小さな上着を縫い、毎年、夫と一緒に年ごとのいけにえをささげに上って来るとき、それを届けた。20エリはエルカナとその妻を祝福し、「主に願って得たこの子の代わりに、主があなたにこの妻による子供を授けてくださいますように」と言った。こうして彼らは家に帰った。


26一方、少年サムエルはすくすくと育ち、主にも人々にも喜ばれる者となった。


第二日課 コロサイの信徒への手紙 3章12節‐17節 (新)371頁

3:12あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。13互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。14これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。15また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。16キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。17そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。


福 音 書 ルカによる福音書 2章41節‐52節 (新)104頁

神殿での少年イエス

2:41さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。42イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。43祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。44イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、45見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。46三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。47聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。48両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」49すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」50しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。51それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。52イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。


「神と人とに愛された子」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


過越祭は、ユダヤ人にとても重要な祝祭の一つでした。モーセがエジプトを脱出する際に、子羊の血を鴨居に塗り、そのしるしのある家だけが長子の子供が打たれなかったという出来事に由来しています。神の救いの御業を覚える重要な祭だったのです。そして、そのためにエルサレムに住むユダヤ人だけでなく、あらゆるところからその季節になるとエルサレムに上って行ったのです。いわゆる巡礼の旅と言われているものです。


その祝祭が終わり、イエスの両親は帰途につきます。しかし不思議なことにイエスが共に居ないことに気が付かずに一日の道のりを行ってしまったというのです。我が子を見失う大事件です。しかしながら、これは単純に親が子どもとはぐれてしまったということではありません。


なぜならば、イエスは、神の御子だからです。すなわち、この出来事が示すことは、私たち自身がイエスから離れていってしまうという真実を伝えるのです。しかもイエスから離れ去る私たちは、そのことに気が付くことができないのです。言い換えるならば、私たちは罪を犯すとき、気が付かずに罪を犯し、気が付いた時にはオロオロとするしかない、しかもイエスを、神を見出そうとしても自分自身では見出すことができない現実を示すのです。


私たちは、できることならば罪を犯して、神の御前において正しくあれないという事態を避けていきたいと思う者です。しかしながら、聖書が伝えている現実はそうではないのです。私たちはイエスから離れ去ってしまう。それは、今日の福音の場面だけでなく、金持ちの青年が離れ去ってしまったように、、また十字架の場面でもそうでした。ペトロは三度イエスを知らないと言ってしまう。弟子たちも十字架のイエスから離れ去ってしまう。誰もがイエスから離れ去ってしまう現実を聖書は様々な場面で伝えています。


そのような人間の罪深さ、罪を犯さずを居られない現実を聖書は示しながら、イエスのみが人間として生きながら神の御心に徹底的に従った姿を既に12歳の子どもの時から示しています。それは「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」という御ことばに示されています。

普通であれば12歳であっても三日も父母と離れ離れになったら不安になってもおかしくありません。しかしながら、イエスは不安を覚えるどころか、父母に向かって私は父の家にいると言い切るのです。


すなわちそれは、イエスが既に神に属しており、父なる神から決して離れることなく、神の御心を成し遂げる方であるということを示すのです。イエスは常に神のもとにあって、神の御心に従って生きていることを示しながら、この時に示される人間の現実がさらに露わにされます。それは父母がどこを探したかということです。聖書には「親類や知人の間を捜し回ったが、45見つからなかった」とあります。

すなわち、私たちは神に立ち帰るのではなく、人間の現実の中で生きてしまうということです。それは言い換えるならば私たちは神の御心に自分自身では立ち帰ることができずに、人間の現実の中で生きてしまい、見当違いな道のりを歩んでしまうということです。


一見するならば「親類や知人の間を捜し回」ることは常識的なことです。しかしながら、神の現実は、私たちの常識を超えるのです。人間の間には神を本来的には見出すことができない。そこで示されるのは、人間は見当違いに歩んでしまい、神を見出すことができない現実です。神を見出すのは、神殿、すなわち神の在るところ、神が示されるところであり、それを通して私たちは神を知り、神を見出すのです。


ですから、今日の福音を通して示されている神の御心は、神の御ことばに留まることである、神に立ち帰ることであるということです。そして何よりもイエスのみがその生涯にわたって神に留まり、神の愛を実践し、神の愛のしるしである救いの御業、十字架の死と復活を成し遂げる方であるということです。私たちは迷い出て、見当違いなところに神を見出そうとしてしまいましたが、イエスだけは「自分の父の家」に留まり続けたのです。


その極みが十字架の死と復活です。今日の福音に「三日の後に」とあるように、イエスの父母は三日間、イエスと出会うことができず迷いました。しかしながら、復活の朝、イエスに従った女性たち、弟子たちが復活の主に出会い、救いの御業の恵みと栄光に与かったように、父母も父の家に置かれ、御子イエスを見出し、安心と平安を与えられました。


神の御心、イエスのお働きが既にこの場面で示されているのです。この時、両親はその意味が分からなかったとあります。まだその時ではありませんでした。しかしながら、十字架の死と復活を通してこの出来事を見つめる時、この出来事が正にこの神の救いの御業、十字架の死と復活を示すことに気が付かされるのです。


私たちが神から離れ去り、神を見出そうとしても見当違いなところに歩んで行ってしまう、そういう罪人の現実を示しながら、神の御心は、このイエスを通して神の救いが示されるのだという真理を示しています。

だからこそ、私たちは迷い出る罪人であることを深く自覚しながら、そのような私たちのために唯一神の御心に徹底的に従い、留まり、その御心、すなわち神の救いをイエスが成し遂げてくださったことを信じ、この方にすべてを委ねていく平安を覚えていきたいと思います。


この罪人の私たち一人ひとりのために、神の御心、御ことばに留まり続けたイエスのみが私たちの救いを成し遂げてくださり、その恵みに豊かに与かっています。その極みが十字架の死と復活ですが、既にこの時、隠されながら示されています。この御心を聴く心と耳を神に願い求めながら歩んでいきましょう。「ご自分の父の家」に連れ戻してくださるイエスの御業、神の御心がこの取るに足らない罪人に豊かに働いてくださっている喜びを覚えながら、これからイースターに向けて歩んでいくイエスのご生涯を追う日々の中で御ことばに親しみ、御ことばに立ち帰りながら過ごしてまいりましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

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