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1月12日の説教

  • ltnishinomiya
  • 2020年1月21日
  • 読了時間: 8分

「主の呼ぶ声」

主日の祈り

父なる神様、主イエスが洗礼を受けられたとき、あなたは「わたしの愛する子」と告げ、聖霊によって油を注がれました。キリストと一つになる洗礼を受けるすべてのあなたの子どもが、その召しに忠実であるよう、あなたの霊を与えてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン


詩編唱 詩編29編

神の子らよ、主に帰せよ。栄光と力を主に帰せよ。

み名の栄光を主に帰せよ。聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。

主のみ声は水の上に響く。栄光の神の雷鳴はとどろく。

  主は大水の上にいます。

主のみ声は力をもって響き、

  主のみ声は輝きをもって響く。

主のみ声は杉の木を砕き、主はレバノンの杉の木を砕き、

  レバノンを子牛のように、シルヨンを野牛の子のように躍らせる。

主のみ声は炎を裂いて走らせる。

  主のみ声は荒れ野を震わせ、主はカデシュの荒れ野を震わせる。

主のみ声は雌鹿をおののかせ、月満ちぬうちに子を産ませる。

  神殿のものみなは唱える。「栄光あれ」

主は洪水の上にみ座をおく。

  とこしえの王として、主はみ座をおく。

どうか主が民に力をお与えになるように。

  主が民を祝福して平和をお与えになるように。


本日の聖書日課

第1日課:イザヤ書 42章1‐9節(旧)1128頁

42:1見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。

2彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。

3傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。

4暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。

5主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ/地とそこに生ずるものを繰り広げ/その上に住む人々に息を与え/そこを歩く者に霊を与えられる。

6主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び/あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として/あなたを形づくり、あなたを立てた。

7見ることのできない目を開き/捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出すために。

8わたしは主、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さず/わたしの栄誉を偶像に与えることはしない。

9見よ、初めのことは成就した。新しいことをわたしは告げよう。それが芽生えてくる前に/わたしはあなたたちにそれを聞かせよう。


第2日課:使徒言行録 10章34‐43節(新)233頁

10:34そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。35どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。36神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、37あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。38つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。39わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、40神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。41しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。42そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。43また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」


福音書:マタイによる福音書 3章13‐17節(新)4頁

3:13そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。14ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」15しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。16イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。17そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。


【説教】

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


 本日は、主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受ける場面から聴いています。主である方が洗礼を受けるということはどういうことなのでしょうか。洗礼とは罪の赦しのしるしです。罪の無い方が洗礼を受けるということの不思議を思います。イエスの洗礼に示された意味を味わい、キリスト者に与えられているこの洗礼というしるしの意味を深く味わう御ことばが与えられています。この出来事を通して神が何を私たちに語りかけているのかご一緒に聴いてまいりたいと思います。


 「今は放っておきなさい。私たちのために相応しい。このように義を満たすことは。」と主は言われます。主である方が人から洗礼を受けることは「義を満たすこと」であると主は言われています。

 結論から述べるならば、「義を満たす」こと、それはイエスの十字架の死と復活によって成就します。にもかかわらず、この洗礼の出来事がそれを示すと主は語られるのです。


 なぜでしょうか。洗礼とは、罪人が神にその罪を悔い改め、赦しのしるしとして与えられる出来事です。先にも申し上げましたように、イエスは罪の無い方であり、生ける小羊です。だからこそ、イエスの十字架の死が律法で示されている贖いの時に献げる無傷の小羊とされ、それを主なる神が受け取ることによって罪の贖いと救いは成就したのです。ですから、イエスが洗礼を受ける必要はないはずなのです。


 ですから洗礼者ヨハネは、イエスがキリストであることを悟っていましたから、思いとどまらせようとします。主イエスはヨハネに対して「今は放っておきなさい」と命じられます。なぜならば、そこには救いに至る道の転換が起こるからです。

 それまでは、罪人が、その罪を贖ったり、清めたりするのに、律法に則って献げ物、儀式を執り行う必要がありました。いわば神に近づくために、救いに与るためにそれが必要でした。汚れたままでは、罪を犯したままでは、救いに与る事が出来ないからです。


 しかしながら、神の御心は、そうではありませんでした。律法が示すことは、これをすれば正しくあれる。救いに与る事が出来るということではないのです。律法の私たち人間はすべからく人種、信条、思想、老若男女、財産の有無、この世の地位や権威、健康であろうと、病気であろうとなかろうと罪人であるという真実を映し出すために与えられたのです。


 私たちは、誰しもが罪人以外の何ものでもありません。だからこそ、罪の悔い改めと、赦しが必要不可欠なのです。しかしながら、贖いのために小羊などの生け贄や献げ物が必要なように、私たちは自分自身では義しくも清くもなれません。自分自身を献げたとしても、罪の汚れの中にある者を神は喜ばれるはずが無いのです。その限界を私たちは悟らなければなりません。私は、私に於いて義しくあれない。この現実を受け止めざるを得ないのです。


 では、救いはないのかというならば、そうではありません。そのことを顕している出来事が今日の主の洗礼です。なぜならば、主は、この時ご自身はまったく清く、義であるにもかかわらず、罪人のところにまで降りてこられたことを顕してくださったからです。私たちを罪人の状態から義を満たすために主イエスは、洗礼を受けられた。自ら罪人である私たちのもとに来てくださったのです。そして、それこそが義とされる上で「相応しいこと」なのです。


 罪人の状態から神に近づくために上げられていく、高い所を目指すこと、高きところから人を救う、義とすることが相応しいのではなく、罪人のもとに下って行くこと、最も低い所に立つことが相応しいことであると主は語っているのです。そして、この罪人の私の傍らに立たれたということは、神がこの罪人と共に在るという証明です。その神の御姿を主イエスのこの出来事が伝えているのです。


 その主イエスを神は「わたしの愛する子、私の善きもの」と祝福するのです。罪人の中に生きられた主イエスを愛し、善きものと言ってくださっているのです。それはすなわち、罪人の一人となられた主イエスの祝福は、私たちへの祝福の言葉であり、罪人の私たちを愛しているという祝福の声なのです。

 罪人であることを深く自覚し、神のみ前に従順に生きる時、私たちは何も神に献げるものもないのに、この低き所にしか居られない私を愛してくださっているという真実を洗礼から教えられるのです。


 ですから、洗礼の真理とは、神が罪人の私を愛してくださっているということです。

「そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。」(ローマ5章18節)とパウロが証ししているように、主イエスの「相応しこと」によって私たちは罪人でありながら、救いへと至っている確信を与えられているのです。


 義を満たしたもう主イエスが私たちのもとに来られました。この義こそが真に私たちの命を死から解放し、命を得させるという喜びの福音を心に留めながら、罪人でありながら神の愛の内に今あることを覚えて歩んでまいりましょう。


 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

 
 
 

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