1月19日の説教
- ltnishinomiya
- 2020年1月21日
- 読了時間: 10分
「イエスの救いは働き方改革」
主日の祈り
私たちを贖う方、私たちの力である聖なる神様、聖霊によって私たちを永遠に捉えてください。あなたを礼拝し忠実に仕える恵みを与え、あなたに従う喜びを見出すことができますように。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
詩編唱 詩編40編2‐12節
主にのみわたしは望みをおいていた。
主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。
滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ、わたしの足を岩の上に立たせ、しっかりと歩ませ、
わたしの口に新しい歌を、わたしたちの神への讃美を授けてくださった。
人はこぞって主を仰ぎ見、
主を畏れ敬い、主に依り頼む。
いかに幸いなことか、主に信頼をおく人。
偽りの神を信じる者にくみせず、欺きの教えに従わない人。
わたしの神、主よ、あなたは多くの不思議な業を成し遂げられます。あなたに並ぶものはありません。
わたしたちに対する数知れない御計らいをわたしは語り伝えて行きます。
あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず、焼き尽くす供え物も罪の代償の供え物も求めず、
ただ、わたしの耳を開いてくださいました。
恵みのみ業を心に秘めておくことなく、
大いなる集会であなたの真実と救いを語りました。
主よ、あなたの憐れみの心を閉ざすことなく
慈しみとまことによって、いつもわたしをお守りください。
本日の聖書日課
第1日課:イザヤ書 49章1‐7節(旧)1142頁
49:1島々よ、わたしに聞け/遠い国々よ、耳を傾けよ。主は母の胎にあるわたしを呼び/母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。
2わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き/わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して
3わたしに言われた/あなたはわたしの僕、イスラエル/あなたによってわたしの輝きは現れる、と。
4わたしは思った/わたしはいたずらに骨折り/うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり/働きに報いてくださるのもわたしの神である。
5主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力。今や、主は言われる。ヤコブを御もとに立ち帰らせ/イスラエルを集めるために/母の胎にあったわたしを/御自分の僕として形づくられた主は
6こう言われる。わたしはあなたを僕として/ヤコブの諸部族を立ち上がらせ/イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして/わたしはあなたを国々の光とし/わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。
7イスラエルを贖う聖なる神、主は/人に侮られ、国々に忌むべき者とされ/支配者らの僕とされた者に向かって、言われる。王たちは見て立ち上がり、君侯はひれ伏す。真実にいますイスラエルの聖なる神、主が/あなたを選ばれたのを見て。
第2日課:コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章1‐9節(新)299頁
1:1神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、2コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。3わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
4わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。5あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。6こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、7その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。8主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。9神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。
福音書:ヨハネによる福音書 1章29‐42節(新)164頁
1:29その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。30『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。31わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」32そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。33わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。34わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
35その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。36そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。37二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。38イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、39イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。40ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。41彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。42そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。
【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
教会暦は、待降節、降誕節を終えて、先週から顕現節に入っています。この顕現節から、主イエスの公生涯の様々な活動、出来事を通して神の御心に聴いていくときが与えられています。神の御心が顕かにされた、隠されていたことがらが啓示されたことを覚えて過ごしています。
啓示された事がらとは、神の救いの成就です。この約束を果たすために、実現するために主イエスが私たちのもとに遣わされているのだということを、福音の様々な出来事を通して聴き、この方こそメシアであるということを信仰によって告白していく時でもあるのです。
さて、ヨハネは彼のもとへとやって来るイエスを御覧になって「知れ、世の罪を贖う神による羊である」と弟子たちに告げています。この言葉で用いられている「神」と「羊」という語句をギリシャ語原典聖書にあたってみますと、定冠詞が付されています。英語でいえば「The God」「The Lamb」となります。これが合わさって英語で訳すならば「The Lamb of God」となります。
この事がらから示されていることに福音の真理が顕されています。なぜならば、定冠詞付の「神の羊」であるイエスというお方は、その他大勢の羊ではなく、このために来た唯一無二の方であるということを顕しているからです。「このため」というのは「世の罪を贖う」ことのために私たちのために来られた方であるということです。このヨハネの証言を通して神が私たちを救うためにどのように働いてくださったのか示されています。
そして、罪を贖うと言われていますが、これは驚くべきことなのです。なぜならば、本来であれば私たちが自分自身で犯した罪については、自分自身で償う必要があるからです。法治国家であれば、その犯した罪の科料によって「懲役〇年」「禁固〇年」という判決が下り、刑務所に入りその罪を償う必要があります。ユダヤ教においても、その犯した罪によって様々な規定が存在しています。
レビ記に贖罪の献げ物について「自分の犯した罪のために、贖罪の献げ物として無傷の若い雄牛を主にささげる。」(レビ4:3)「羊を贖罪の献げ物とする場合は、無傷の雌羊を引いて行く。」(レビ4:32)とあり、これらの献げ物をどのように神に献げれば良いか細かな祭儀が規定されています。そして、それらの祭儀の一切を行ったのであれば、「罪は赦される」(レビ4:35)のです。
いずれにしても罪の赦しのためには、私たち自身がその罪の代価として、献げるべき物を献げなければならなかったのです。それは正しくなる為に、正しくあるために必要な事として人間の側の行いでした。この「人間の側の行い」が段々と強調され、字義通りにしか理解しなくなってしまうのが人間の愚かさなのです。これさえ守っていれば、これさえやっていれば正しくあれるならばそれをすればいいと安易に考えてしまい、いつの間にか律法が神から与えられた意味を問わなくなってしまうのです。
そうして、行為義認に走っていったのが、イエスの時代のファリサイ派の人々でした。しかしながら、先週の説教の中でもお話をいたしましたが、律法の働きとは、これをしたら、しなければ正しい人間であるお墨付きを頂く規定でも、救いに与る資格を得るための尺度でもないのです。むしろその逆です。律法とは私たちは罪を犯さずに生きることは適わないという人間の本性を浮き彫りにするために与えられているのです。
すなわち、私たちは罪人である。しかも神の御前においてどんなに、何回罪の贖いの献げ物を献げても足りないほどの罪を犯し続けているのです。それは気づいている罪もありますし、また気が付いていない罪もあります。気が付いていることについては百歩譲って贖いの献げ物を献げることによって赦されたとしても、気づいていない罪についてはどうすればいいのでしょうか。
気が付いていないのですから、私たちは贖いの献げ物を献げることがありません。しかしそれでは、私は罪人のままです。神は一つの罪も見逃しません。このことからしても私たち人間は、誰も神のみ前に正しくあれないし、救いに与る資格などないのです。そのような罪深い私たちのもとに主イエスは来られたのです。
しかもそれは、「世の罪を贖う神による羊」として来られました。ユダヤ教の伝統に立ちながら、私たちを救いへと導くために、イエスという方は「世の罪」すなわちすべての人間の罪を贖うために、神に献げる「神による羊」として来たのです。本来であれば、私たち自身が準備しなければならない羊を神ご自身が備え、私たちのもとへと送ってくださったのです。
これこそが、新しいことであり、救いについての新しい発見が与えられるのです。それは、神の救いとは、神ご自身によって成るということです。私たちがどうあるかではなくて、神が私たちを罪の内から救い出すためにイエスを「贖いの神による羊」として遣わしてくださったということなのです。救いの確信、喜び、恵みといった賜物は、この神のお働きを「知れ」という呼びかけによって始まるのです。
自分が神のために働いたから、律法を守り品行方正である、神の目に自分がどうあるかではなく、神が私たちのために働いて下さったことを知ることこそが救いの始まりなのです。だからこそ、ヨハネは「知れ」「見よ」と述べるのです。
そして、神の存在に気づかされる時、イエスがペテロを召し出したときのように、イエスが、神が私を見つめている眼差しに気がつかされるのです。そのイエスが私という存在を召し出すのです。罪人に過ぎない私をです。本来であれば、神の召しに与るにも価しない私を神は神ご自身が赦し、神の御業をこの世に顕す者としてくださるのです。
この神を見つめながら歩んでいきましょう。この神が働いて下さる事によって私たちは強くされ、喜びに溢れ、平安の内に導かれる幸いを覚えていきたいと思います。
この唯一無二の方が、私が働くことによって救われるのではなく、神が働いてくださることによって救いへと導いてくださっているという驚くべき出来事に与っているのです。この神の働きを通して「キリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされて」いるのです。
罪人である私は貧しく、乏しかったのに、神の豊かさに満たされている喜びを見つめる日々を共に歩んでまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
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