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  • ltnishinomiya

1月26日の説教

「光に従う」

主日の祈り

主なる神様、あなたの慈しみはいつも私たちと共にあり、進む道を先立って導き、後ろを守ってくださいます。御光の中へと招き、御子の十字架によって与えられる善き道の歩みを導いてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン


詩編唱 詩編27:1&4-9

主はわたしの光、わたしの救い。わたしは誰を恐れよう。

  主はわたしの命の砦。わたしは誰を恐れよう。

ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。

  命ある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で、朝を迎えることを。

災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ、幕屋の奥深くに隠してくださる。

  岩の上に立たせ、群がる敵の上に頭を高く上げさせてくださる。

わたしは主の幕屋でいけにえをささげ、

  歓声をあげ、主に向かって讃美の歌をうたう。

主よ、叫び求めるわたしの声を聞き、

  憐れんで、わたしに答えてください。

心よ、主はお前に言われる。「わたしの顔を尋ね求めよ。」

  主よ、わたしはみ顔を尋ね求めます。

主よ、み顔を隠すことなく、怒ることなく、あなたの僕を退けないでください。

  あなたはわたしの助け。

救いの神よ、わたしを離れないでください。

  わたしを見捨てないでください。


本日の聖書日課

第1日課:イザヤ書 8章23‐9章3節(旧)1073頁

8:23今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない。

ダビデの位

先に/ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが/後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた/異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。9:1闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。2あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように/戦利品を分け合って楽しむように。3彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を/あなたはミディアンの日のように/折ってくださった。


第2日課:コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章10‐18節(新)299頁

1:10神て、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。11わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。12あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。13キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。14クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています。15だから、わたしの名によって洗礼を受けたなどと、だれも言えないはずです。16もっとも、ステファナの家の人たちにも洗礼を授けましたが、それ以外はだれにも授けた覚えはありません。17なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。18十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。


福音書:マタイによる福音書 4章12‐23節(新)5頁

4:12イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。13そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。14それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。15「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、16暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」17そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。18イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。19イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。20二人はすぐに網を捨てて従った。21そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。22この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。23イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。


【説教】

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


 イエスは、ヨハネが捕らえられた後に何故かガリラヤに退かれました。そこはイエスが生まれたナザレも属するイスラエル北部の地域です。ヨハネは、ヨルダン川で活動をしていましたから、おそらくエルサレムからもそれほど離れてはいない地域で活動していただろうと言われています。


 当時の人々からしてみれば、エルサレムは信仰においても、民族意識的にも重要な地であり、エルサレムを中心にして全ての営みが紡がれていました。大切なお祭りの時には各地からエルサレムに上り、礼拝をしていたことからもそのことが窺い知ることができます。


 逆にガリラヤは、エルサレムからも遠く、かつてイスラエルが南北に分断したときは異教の地となり、イエスの時代は南ユダの人々が入植してユダヤ教の町になっていたとは言えども、「異教の地」「異邦人のガリラヤ」と揶揄され、人々からは蔑まされていたような地域だったのです。誰も目を留めないような地域であり、ガリラヤ出身だと言えば、人々からは何となく馬鹿にされるような地域と言ってもよいかもしれません。


 そのようなところへと退かれたのは何故かというならば「預言者イザヤを通して言われていたことが実現するため」でした。マタイでは10回も預言が実現されたという文言を使っています。そして、イエスご自身も「このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」(26:56)と語っています。その預言が今日の第一日課と福音の中で引用されたイザヤの預言でした。


 その中心的なメッセージは「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」という御ことばです。ガリラヤはまさに同胞の地であるにもかかわらず「異教の地」「異邦人のガリラヤ」と言われ、そのようなところに神の恩寵が注がれ、祝福される者が現れるはずもないと考えられていました。きっとそれが通念となり、そこに暮らす人々もユダヤ教信仰に生き、救い主を待ち望んではいても、自分たちのところからそのような偉大な者が現れるなどとは考えても居なかったことでしょう。ある意味で他者も、自分たちもここは日の当たらないところだと考えていたのです。


 一方でエルサレムは、かつて王都であり、偉大な指導者ダビデの治めた地です。神殿が築かれ、信仰的な中心地であり、いつも脚光を浴びていました。人々は、光の方に引かれます。そして、そのうちに意味内容を問うことよりも、見た目や、通念を前面に出して、盲目になっていくのです。本当に大切なことは、世の暗闇、そして、その最も顕れている罪の只中に輝く光としてキリストは顕現されたのです。

 

 そして、それこそが神の御ことばの真理だと聖書は伝えているのです。光の中に光として神は顕れるのではなく、闇の中に輝く光として顕れる方こそが真の救い主だということを伝えています。なぜならば、私たちは光の中を歩むことができないからです。私たちはイザヤが語っているように「闇の中を歩む民」であり、「死の陰の地に住む者」でしかありません。


 私たちは誰も死の棘を回避することはできません。誰しもが100%死を迎えます。それは肉体的にもそうですが、信仰的にもそう言えるのです。なぜならば、私たちは罪人だからです。神の御心に決して100%沿って生きることができないからです。隣人を愛せと命じられるイエスの御ことばを知りながら、できない自分を思います。十戒についても、私たちはその10の戒めさえも完全に守る事が出来ません。ですから、私たちは神の御ことば、御心に照らしたとき、罪人の一人でしかないことを深く痛感するほかないのです。

 

 まさに闇の中を歩む民、死の陰の地に住む者であると言ったのは、このことがあるからです。そうであるならば、私たちは神の救いに与る事など決してできません。ましてや、自分が光の中に歩んでいるとも言えません。私たちの命の実態、実存、真実とは暗い闇の中にしか生きられないのです。


 そうであるならば、救い主が光の中に光として顕れたのなら、それは私という存在と神とは全く無関係です。救い主イエスが与えられた、この世にお生まれになり、福音を語ったことも何の喜びにもなりません。しかし、これらの出来事が喜びであり、恵みであり、平安なのはなぜなのか。それは、私たちの救い主が闇の中に輝いているからです。闇の只中に生きる者と救い主とが、救い主ご自身がこの只中に来てくださる事によって結ばれたのです。私とあなたは関係している。結ばれていると神は伝えているのです。


 だからこそイエスの宣教の第一声は、「悔い改めよ、天の国は近づいた」なのです。何かとてつもなく大きな何かが近づいてきているということではありません。天の国とは救いに与る出来事を表します。そして、この事がらを大胆に言うならば、神の国とはイエスご自身のことです。闇の只中に、すなわちそれは罪の只中にキリストが来られたという救いの到来を告げているのです。


 この光から与えられる恵み、喜び、慰め、励まし、癒しに与っていきたいと願う者に決断を迫る時、神は「悔い改めよ」と言うのです。あなたの罪を、闇を、痛みを、悲しみを、傷を、病を、罪の象徴と言われているこれらの事がら、実存、実態を神に向けなさいとイエスは求めているのです。


 そして、この決断が神に従うということです。しかし一つだけ最後にお伝えしなければならないことは、信じたから決断し、従うということではありません。私たちはどうしても疑いを持つ者です。復活の主を信じられなかった弟子たちと同じです。しかし疑いながらも決断し、従うのです。後先の話ではなく、神への服従と信仰は一体なのです。そして、疑いながらも従う者を神は受け入れ、一人ひとりに大切な召しを与えてくださるのです。


 今日はこの後に総会を控えています。西宮教会の宣教について話し合う大切な時です。それは同時に私たちがキリストの弟子としてどのように生きていくかということを問われているとも言えます。色々な昨今の社会的、教会的事情によって疑いを持つ者です。しかしながら、私たちはまず何よりも罪人の只中に来られ、光で照らし出し、救い出してくださった方に従い、この方が導いて下さる道を歩む決断をしていきたいと思うのです。


 それは、イエスにとっては十字架の死という道でした。苦難に満ちた道です。実は私たちの道はその道です。苦難が伴います。痛みを伴います。苦労します。しかしながら、それらの事がらと共にキリストがおられる。同じ道をキリストも歩まれ、全ての人を闇の内から、死の陰の地から救い出してくださったように、私たちもまたキリスト者として闇の内から、死の陰の地から救い出された者として、そのただ中に生きねばならない人々のために、主の召しに応えていきたいと思います。


 これらのことがこの世的には、徒労となり、無駄に思えること、失敗と見えることもあるかもしれません。しかし、徒労に終わることはありません。神が私たちに必ず実りを与えてくださいます。キリストに従う、光に従うことの幸いを覚えながら、この教会の宣教がいつでも主に従う道を歩んでいくことができるように祈り求めてまいりましょう。


 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 

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