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1月31日(顕現後第4主日)の式文と説教

  • ltnishinomiya
  • 2021年1月31日
  • 読了時間: 9分

主の御名を讃美いたします。

寒波が到来し、寒暖差の激しい季節となっています。

皆さんはいかがお過ごしでしょうか。

新型コロナウイルスによる緊急事態宣言もなかなか出口が見えず、見通しが立ちません。

エッセンシャルワーカーの方々が、飲食関係の方々、それに伴うお仕事の方々にとって不安の募る状況が続いています。

ワクチンについても当初の予定よりも遅れ気味になってしまっています。

どうぞ皆さんで祈りを合わせて一日も早い収束を祈ってまいりましょう。


明日の礼拝も引き続き自粛期間中となりますので礼拝堂に集うことは適いませんが、オンラインでの中継を行っています。

以下の「日本福音ルーテル西宮教会 - YouTube」という文字を10時20分頃にクリックしていただければご覧になれます。

それぞれ置かれた所で神様の御ことばの恵みに与かってまいりましょう。



礼拝後には、録画を掲載いたします。

赤丸の部分をクリック(選択)していただくとリストが出てご覧になりたい画像を選択するとご覧になれます。


皆さんの上に神様の恵みが豊かにありますように。

牧師

礼拝式文 顕現後第4主日

1. 前奏 (神様への思いを向ける準備をいたしましょう) 2. 祝福の挨拶 司式)父と子と聖霊のみ名によって  会衆)アーメン 3. キリエ  司式)主よ、憐れんでください。      会衆)主よ、憐れんでください。 司式)キリストよ、憐れんでください。  会衆)キリストよ、憐れんでください。 司式)主よ、憐れんでください。      会衆)主よ、憐れんでください。 4. 主日の祈り 全員)慈しみの神様。あなたは宇宙のすべてを御光で包み、御子を救い主として顕してくださいました。壊れたものを一つに戻し、迷いの中にいる私たちに真理を語ってください。創られたすべてが、御子を見て救い主を知ることができますように。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン 5. 聖書朗読 福音書 マルコによる福音書 1章21節‐28節 (新)62頁 汚れた霊に取りつかれた男をいやす 1:21一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。22人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。23そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。24「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」25イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、26汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。27人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」28イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。 6. 讃美歌 514番


7. 説教 「神の名によって」 竹田 大地牧師 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 今日の福音における民衆の前でのイエスは人々に驚きをもって迎えられました。何故ならばイエスの教えが「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったから」でした。律法学者とは、律法の解釈について教える教師的な立場です。律法学者は、民衆たちからするならばたしかに知識は優れていますが、自分たちと同じ神に従い、仕える者として、神が与えられた律法を解釈する信仰者の一人です。 しかしこの時のキリストは「権威ある者」として教えられたとあるように、それは律法学者やファリサイ派の様ではなく、直接に神から御ことばを聴いているかのような感覚に陥っていたということを表します。もちろん、私たちキリスト者にとって、イエスはキリストであり、神の子であり、神であるということを知っています。しかし、イエスの活動した時、イエスは一介の新規な者でしかありませんでしたから、それは非常に驚くべきことであったのです。 そこで注目したいことは「驚き」という言葉です。この言葉を原点に戻って見てみますと「エクプレッソー」という言葉が用いられています。この言葉は二つの言葉からなっています。一つは「エク」という言葉で意味は「外から」という意味があり、「プレッソー」は「打つ」という意味があります。この二つの言葉が合わされて「驚き」と訳されているわけですが、その言葉の内実はこの出来事においてはイエスの言葉に人々が打たれている。全く外からの刺激によって心が打たれているということが導き出されるのです。 これは新しい事柄の発見に対して胸が躍るというような意味合いでも私たちも経験することでしょう。キリストとの出会いを与えられたときに、御ことばに心を打たれたという経験を誰でもしたことがあるかと思います。今までの生きてきた常識や、生きてきた意味が変えられるような素晴らしい出来事に心を打たれるということはあります。 つまり、この時点での民衆は、イエスに対してある意味で新鮮な驚き、いい意味での驚きをもってイエスの御ことばを聴いていた姿が浮かぶのです。しかしながら、後半の27節における「驚き」はその意味合いが少し変わってきます。この言葉は「サンベオー」という言葉が使われています。この言葉は、驚きと言っても恐怖にも似た感覚による驚きの意味合いで使われる言葉です。 その原因は、イエスが汚れた霊に対してお命じになると、霊がその人から出て行ったという出来事に起因しています。それは誰も見たことがない光景でした。祭司たちですら汚れた霊を取り除くことはできませんでした。汚れた霊が出て行ったことを認めて清めをすることはできても直接に霊に命じて、出て行かせることはできないのです。 だから民衆は「これはいったいどういうことなのだ」という戸惑いをもって論じ合ったのです。しかしながら、この戸惑いを起こさせるのは、イエスの内に神の権威があるということを示します。そのようなことができるのは、神以外にないという思いがあるからこそ、畏れを抱き、戸惑うのです。 つまり私たちは、この福音を通してイエスが神の御力を持っている方であるということを啓示されるのです。律法とは何かを解釈をする人、律法を守る人ではなく、イエス御自身が神であり、その権威をもって私たち一人ひとりに臨み、語り掛け、触れあってくださる方であることを示されているのです。 人間の誰もが太刀打ちできない「汚れた霊」という存在、それに取りつかれれば誰もが罪を犯さずにはいられない状態に陥れる力に対してイエスは勝利される方であることが証されています。そして、この出来事から十字架を見上げる時、その十字架は、イエスが罪のゆえに死んだ刑事罰としての出来事ではなく、私たちが罪の力に打ち克つことができないからこそ、罪に勝利される方が私たちに代わってその罪を負い死んでくださったことを教えられます。 これもまた新しい教えです。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。」(ローマ5:8)とパウロが証しているように何か私たちが贖いのために必要を満たすことによってではなく、神の御子であるイエスが、私たちに代わって死ぬことによって神が私たち一人ひとりを愛しておられるということを示してくださったからです。 人々にとって裁き主であった神でした。自分がいかに義しく生きるかによって御国に至ると考えられていました。だからこそファリサイ派や律法学者たちは尊敬の念をもって迎えられていました。しかし、律法をどうしても満たすことのできないという自覚がある者にとっては暗黒でしかありません。自分が神の救いに与るのではなく、神に裁かれ死ぬほかない、滅びるしかないという絶望の中で生きるほかありませんでした。 しかし、イエスはそのような人々の思いをご存知であり、誰一人滅びることも死ぬことも良しとしません。だからこそ、ご自身権威ある者であるにもかかわらず、自分の命を罪の赦しの贖いの小羊として神に献げたのです。それが十字架です。ですからもはや十字架は、苦しみ、裁きの道具ではなく、神の愛を示すしるしとなるのです。 イエスによって私たちは新しい教えをことごとく示されています。今までの生き方も、世の通念も打ち破り、「エクプレッソー」を起こさせ、同時に神への「サンベオー」を抱かせます。この神によって私たちの命があり、私たちは生きる者とされているのです。ですから改めて私たちは、日々語り掛けられ、御手を伸ばしてくださるこの神を信じ、従っていくことの幸いを覚えていきたいと思うのです。様々に迷う時があります。苦しみを伴う時があります。悩むときがあります。そのような時に神の権威が働き、私たちの思いを打ち破ってくださる方が共にあります。 この平安を携えて生きているのです。そして同時にこの平安を探し求めている人々が世には、まだまだ沢山おられます。この方にこそ平安があるということを私たちが伝えていくために力を与えられ、遣わされていることを覚えてまいりましょう。一人でも多くの方が神の愛によって平安を得るように共に働いてまいりましょう。 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 8. 信仰告白 (起立) 司式)使徒信条によって、信仰の告白を共にしましょう。 全員)天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。 そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。 聖霊を私は信じます。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。(アーメン) 9. 献金 10. 教会の祈り 11. 主の祈り (起立) 司式)祈りましょう 全員)天の父よ。 み名があがめられますように。 み国が来ますように。 み心が天で行なわれるように、地上でも行なわれますように。 私たちに今日もこの日の糧をお与えください。 私たちに罪を犯した者を赦しましたから、 私たちの犯した罪をお赦しください。 私たちを誘惑から導き出して、悪からお救いください。 (み国も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです。) (アーメン) 12. 祝福 (起立) 司式)主があなたを祝福し、あなたを守られます。 主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたに恵みを与えられます。 主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わります。 父と子と聖霊のみ名によって。 会衆)アーメン。アーメン。アーメン。

13. 後奏

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