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1月5日の説教

  • ltnishinomiya
  • 2020年1月21日
  • 読了時間: 9分

「全ての人のために輝く小さな光」

主日の祈り

神様、この日、あなたは星の導きによって御子を世界中の人々に顕されました。私たちが生活のただなかで、あなたに気づき、ついにはあなたの栄光を仰ぎみることができるよう、信仰によって導いてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン


詩編唱 詩編72:1-7&10-14

神よ、あなたによる裁きを、王に、

  あなたによる恵みのみ業を、王の子にお授けください。

王が正しくあなたの民の訴えを取り上げ、

  あなたの貧しい人々を裁きますように。

山々が民に平和をもたらし、

  丘が恵みをもたらしますように。

王が民を、この貧しい人々を治め、

乏しい人々の子らを救い、虐げる者を打ち砕きますように。

王が太陽と共に永らえ、

  月のある限り、代々に永らえますように。

タルシシュや島々の王が捧げ物を、

  シェバやセバの王が貢ぎ物を納めますように。

すべての王が彼の前にひれ伏し、

すべての国が彼に仕えるように。

王が助けを求めて叫ぶ乏しい人を救い、

助ける者のない貧しい人を救いますように。

王が弱い人、乏しい人を憐れみ、

乏しい人の命を救いますように。

王が、不法に虐げる者から彼らの命を贖い、

  王の目に彼らの血が貴いものとされますように。


本日の聖書日課

第1日課:イザヤ書 60章1‐6節(旧)1159頁

60:1起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。

2見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。

3国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。

4目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから/娘たちは抱かれて、進んで来る。

5そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き/おののきつつも心は晴れやかになる。海からの宝があなたに送られ/国々の富はあなたのもとに集まる。

6らくだの大群/ミディアンとエファの若いらくだが/あなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。


第2日課:エフェソの信徒への手紙 3章1‐12節(新)354頁

3:1こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは……。2あなたがたのために神がわたしに恵みをお与えになった次第について、あなたがたは聞いたにちがいありません。3初めに手短に書いたように、秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。4あなたがたは、それを読めば、キリストによって実現されるこの計画を、わたしがどのように理解しているかが分かると思います。5この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や“霊”によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。6すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。7神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました。8この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました。わたしは、この恵みにより、キリストの計り知れない富について、異邦人に福音を告げ知らせており、9すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるのかを、すべての人々に説き明かしています。10こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、11これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。12わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。


福音書:マタイによる福音書 2章1‐12節(新)2頁

2:1イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」3これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。4王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。5彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。6『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」7そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。8そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。9彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。10学者たちはその星を見て喜びにあふれた。11家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。12ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。


【説教】

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


 今日は、顕現主日として礼拝を共に守っています。この日は、キリストの救いが全ての人に顕されたということを覚える日として守られてきました。御子イエスがユダヤ人の救い主という限定的な救い主ではなく、ユダヤ人にも、異邦人にとっても救い主であることを神が知らせてくださっているということを御ことばは告げています。そして、その真理をいつもマタイ福音書の博士たちと幼子イエスとの出会いから聴いています。与えられているこの御ことばを通して語り掛ける神の御声に共に聴いてまいりましょう。


 さて聖書には「そして、夢の中で神のヘロデの元に戻ることはないという応答があったので、彼らは他の道へと退いて、彼らの場所へ入った。」と記されています。

 彼らは、イエスのもとから来た道とは違う道へと退いて行きました。新共同訳聖書では「通って」と訳されていますが、本来であればこの言葉は「退く」という意味があります。この事がらが示すことは、彼らは救い主キリストとの出会いを与えられて、その所から別の道へと退いていったのです。


 考えてみれば、長い旅を経てせっかくキリストとの出会いが与えられたのですから、その所に長く留まっていたいと願うでしょう。しかしながら、彼らは携えていた宝をキリストに捧げたのち直ちにその場を離れていきました。そして、その立ち去って行った先は自分たちの場所でした。これまで生きてきた場所です。しかしながら、それは今までの場所とは決定的な違いがあります。


 なぜならば、そこはキリストへの信仰と恵みに溢れている場所だからです。キリストと出会う以前は、生活する場所であり、ただ生きる場所でした。この世の権威や、この世の理、この世の道に沿って生きていた場所です。しかしながら、彼らは違う道へと退いて行ったと記されているように、それはもはや物理的、空間的に同じ場所であっても、信仰的には全く異なる場所です。


 何故そのようなことが言えるのかというならば、彼らははじめヘロデの元へ行ったからです。王と云われる人は、王宮、首都で誕生するというこの世の理の中で生きていたことを表しています。しかしながら、キリストとの出会いによって、彼らはこの世の理に沿って、この世の権威におもねるのではなく、神の御ことばに従って行きました。神の御ことばに従ったということは、キリストと出会った者の転換が起こっているということです。救い主との出会いは、生き方も、生きる場所の意味もすべて変えられるのです。


 この方の導きにすべてを委ね、歩んでいくことの確かさに彼らは気づいたのです。そういう観点で振り返れば、彼らは実のところ星に導かれて歩んでいるときから神にすべてを委ねていたのです。メシアが来られるということを、星が導くなどとはあり得ない出来事に身を委ね、遠くからわざわざやって来ました。「ついに幼子のいる場所の上に止まった。」とありますが、星の下とは、その人の視点によって変わります。しかしそこが幼子の上であると彼らは信じたからこそキリストとの出会いが与えられたのです。


 そうであるならば、ヘロデでさえこの神の導きに従っていたならば、キリストの救いによって、彼が与えられた場所での生き方も意味も変わったと言っても過言ではありません。重ねて申し上げますが、キリストとの出会いは、私たちを変えるのです。そして、神はこの神の救いと関りのなかったものに手を差し伸べ、導きを与え続けてくださっているのです。


 それは、博士たちが星に導かれたように、古くは旧約においてイスラエルの民が雲の柱、火の柱に導かれたように、いつも神の導きは私たち一人ひとりに与えられています。

 パウロが「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。」と証ししているように、私たちは救い主の御許に大胆に近づくことができるように、救い主との出会いはいつも開かれた出来事して存在しているのです。


 そして、その出会いを与えられた者は、そこに留まる必要はないのです。もはや、生きる意味も、生き方も変えられているのですから、与えられたそれぞれの場でいつも神との出会い、導き、福音が在ることに気が付かされているのです。「あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。」(コロサイ2:10)と証しされている通りです。キリストとの出会いが、どこであってもキリストとの出会いの場所となることを福音は悟らせるのです。


 キリストとの出会いとは、キリストとの出来事です。それは先に申しましたように星の下がどこかはその人の見る位置や心の向きで変わるように、キリストとの出会いが与えられた者にとって、どこにおいてもキリストを信じ、仰ぎ見る者に与えられる出来事としていつも開かれていくのです。だから、彼らは、退くことができたのです。その物理的な場所に固執する必要が無いということに目が開かれていったのです。


 ですから、救い主との出会いは、ここに集う一人ひとり、世界中に生きる一人ひとりのその場所で起こるのです。教会で、礼拝堂でという限定的で物理的な限定された場所ではなく、一人ひとりの命の中で起こる出来事なのだと福音は伝えているのです。だからこそ、救いは全ての人に顕されていると言えるのです。


 今、置かれている場所で、生きる場所であなたのためにキリストとの出会いが与えられていることを私たちは全ての人に知らせたいと思います。それが宣教です。大阪教会は103年目の宣教の歩みに進んでいきます。私たちはこの福音を携えてそれぞれの場所で神の救いの力が満たされていることを、神の光が導いて下さっていることを証ししてまいりましょう。私たちを導く方があるのですから迷うことはありません。出会いの出来事を全ての人に与えてくださっている主の御許に全ての人が集わせてくださるように祈り求めていきましょう。そして、私たち自身も自分たちに与えられた場で救い主との出会いの喜びのうちに生きていきましょう。


 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

 
 
 

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