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ltnishinomiya

10月10日(聖霊降臨後第20主日)の式文と説教

更新日:2021年10月17日

主のみ名を讃美いたします。


10月だというのに気温が30度を超える日もあり、本当に10月なのかと思わされます。

先日、喜望の家のオリエンテーションで大阪南港に釣りに出かけました。

ワクチン接種二回目から二日後でしたが、幸いにして副反応も軽度で済んで、利用者さんたちと4時間ほどの釣りを楽しみました。

本当に久しぶりに釣りをすることができて少しだけ気分転換できました。

趣味に現を抜かしすぎるのもよくありませんが、適度に気分転換をすることは大切ですね。


さて明日も10時30分から礼拝がございます。

どうぞみなさん十分に感染対策をしてお越しください。

暫くの間は短縮式文で礼拝をいたします。

ユーチューブから礼拝の模様を配信しています。 出席叶わない方、健康にご不安をお覚えの方はお用いください。 配信は10時20分から始まります。 以下の「日本福音ルーテル西宮教会 - YouTube」という文字を10時20分頃にクリック(選択)していただければご覧になれます。 式文につきましては、申し訳ございませんが、流れのみを概要欄に掲載しています。聖書などはご自身のお用いいただくか、朗読をお聞きください。どうぞご了承ください。 日本福音ルーテル西宮教会 - YouTube 新しい一週間皆さんの生活と健康が守られますようにお祈りしています。 在主


牧師


聖霊降臨後第20主日礼拝




1. 前奏 (神様への思いを向ける準備をいたしましょう)


2. 祝福の挨拶

司式)父と子と聖霊のみ名によって

 会衆)アーメン


3. キリエ

司式)主よ、憐れんでください。

 会衆)主よ、憐れんでください。

司式)キリストよ、憐れんでください。

 会衆)キリストよ、憐れんでください。

司式)主よ、憐れんでください。

 会衆)主よ、憐れんでください。


4. 主日の祈り

全員)全能・永遠の神様。後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、終わりの日に永遠の喜びの冠を授かるために、私たちの信仰の賜物を増し加えてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン


5. 聖書朗読

第一日課 アモス書 5章6節‐7節,10節‐15節 (旧)1434頁

5:6主を求めよ、そして生きよ。さもないと主は火のように/ヨセフの家に襲いかかり/火が燃え盛っても/ベテルのためにその火を消す者はない。


7裁きを苦よもぎに変え/正しいことを地に投げ捨てる者よ。


10彼らは町の門で訴えを公平に扱う者を憎み/真実を語る者を嫌う。

11お前たちは弱い者を踏みつけ/彼らから穀物の貢納を取り立てるゆえ/切り石の家を建てても/そこに住むことはできない。見事なぶどう畑を作っても/その酒を飲むことはできない。

12お前たちの咎がどれほど多いか/その罪がどれほど重いか、わたしは知っている。お前たちは正しい者に敵対し、賄賂を取り/町の門で貧しい者の訴えを退けている。


13それゆえ、知恵ある者はこの時代に沈黙する。まことに、これは悪い時代だ。


14善を求めよ、悪を求めるな/お前たちが生きることができるために。そうすれば、お前たちが言うように/万軍の神なる主は/お前たちと共にいてくださるだろう。

15悪を憎み、善を愛せよ/また、町の門で正義を貫け。あるいは、万軍の神なる主が/ヨセフの残りの者を/憐れんでくださることもあろう。


第二日課 ヘブライ人への手紙 4章12節‐16節 (新)405頁

4:12というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。13更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。


偉大な大祭司イエス

14さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。15この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。16だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。


福 音 書 マルコによる福音書 10章17節‐31節 (新)81頁

金持ちの男

10:17イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」18イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。19『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」

20すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。21イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」22その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

23イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」24弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。25金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」26弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。27イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」28ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。29イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、30今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。31しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」


6. 讃美歌



7. 説教

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


私たちはキリストが十字架の死と復活によって罪の赦しと永遠の命の恵みを頂いていることを心から喜ぶ者です。なぜならば、神が罪深く、愚かな私たちにも関わらず、私たち一人ひとりを憐み、愛しぬいてくださっているしるしの出来事だからです。私の命をとらえてくださり、必ず守り、導いてくださっているという確信を信仰によって与えられています。


しかしながら、時としてキリストの御ことばが心に深く刺さることがあります。今日の福音の出来事は正にそのような象徴的な出来事と言えるでしょう。

ある人が居ました。この人はお金持ちでした。と、同時に非常に信仰深くまじめにイエスと出会うまで生きてきたようです。それは「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」20すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。」というやり取りにも表れています。


彼は小さい頃からモーセに与えられた律法を守り、神を神として歩んできたようです。しかしながら、このキリストがお示しくださった十戒の掟は言うなれば後半部分であり、この世における隣人や家族との在り方を神がお示しになった律法です。十戒には前段の部分があり、そこに神との関係について示されています。

ルターの小教理問答では、各戒めの解説の最初に「私たちはすべてのものにまさって神を畏れ、愛する」という文言が付されています。


すなわち、キリストが真に問うていたことは、「私たちはすべてのものにまさって神を畏れ、愛する」心だったのです。だからこそ、この人にキリストは、「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」という非常にこの人にとって困難な


「欠けているもの」とは「すべてものにまさって神を畏れ、愛する」ことである。これはこの金持ちの人に限らず私たち一人ひとりにも迫ってくる言葉です。この金持ちにとっては財産でありました。また弟子たちにしても自分が生業を投げ打ってキリストに従っているという自負がありましたが、さらにキリストは「わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、30今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。」とさらに厳しく迫るのです。


良くも悪くも血縁は捨てることはできません。財産も惜しくなります。キリストに従うことの難しさを痛感せざるを得ません。「金持ち」とありますが、ユダヤ教では富は神の祝福であると考えられていました。故に、富を多く持つということは、神に祝福された存在であると考えられていました。

この人が小さい頃から律法を守ってきたということと富を多く有しているということは当然のことだと考えられていました。この人は自他ともに認める正しく、神に祝福されている救いに値する人と考えられていたのです。


しかし問題は、この人が祝福された存在であるということではないのです。問題は、この人が財産に固執してしまっている心なのです。どれほどの財産が彼にあったかは分かりません。とにかく多くを持っていたのでしょう。掟も幼いころから守っていました。しかし、本当にそうなのでしょうか。私たちは本当に完全に掟を守ることができる存在でしょうか。こんなにも堂々と「守ってきました」と神に言えるような存在でしょうか。


私たちの礼拝式文が罪の告白から始まる意味は、私たちは礼拝から遣わされた一週間、神の御ことばを宣べ伝える使徒として遣わされていると同時に、その召しに完全に応えることができずに罪を犯してしまう罪人であることを先ず悔い改めていくことが必要だからです。私たちはもちろん神の福音を宣べ伝えることが神によって力づけられ、それを成していますが、それ以上に多くの罪を犯し続ける存在なのです。


「すべてのものにまさって神を畏れ、愛する」ことができずに、この福音においては財産に固執してしまう。誰もが多くの財産を持っているわけではありませんが、学歴、自分がしてきたこと、才能、家族といったものに私たちは固執し、神を畏れ、愛することをしなくなってしまうのです。財産、才能など様々にそれぞれに与えられているものがあります。しかしそれは、自分で獲得したものではなく、神から与えられたものです。それを忘れてしまうとき私たちは信仰を失ってしまうのです。


それらを財産、家族、畑を一切捨ててキリストに従えという言葉が私たちに重くのしかかります。なぜ重いのでしょうか。それは少しでもそういったものに固執している心があるからです。例えば、礼拝に出席をし、献金の時に100円玉一枚だけ財布に入っていたとします。もし、これに固執する心があると、この後の生活のことや色々を考えて躊躇をしてしまいます。100円玉一枚すら惜しい心が芽生えてきてしまいます。


神からの賜物であることを忘れ、自分中心、人間的な心に支配され、縛られて私たちは不自由になってしまうのです。しかしながら、それが神からの賜物であるということを覚えるならば、全く自由なのです。これを献げることもできるし、たとえ献げることができなくとも、神から与えられたものを大切に用いることはできます。献金をする、しない、その額面が多い、少ないが問題なのではないのです。


この福音の意味はそこに「すべてのものにまさって神を畏れ、愛する」心をもっているか否かです。そういう意味で、この福音のお金持の人へのキリストの御ことばは、私たち一人ひとりに向けられている言葉なのです。財産を持っていること、捨てられるか否かではないのです。この福音においてキリストが伝えていることは、神の愛を受け入れ、神の愛の内に生きることへの決断なのです。


与えられていること一つ一つに神の愛が宿っている。神の養いがある、神から最上のものが与えられている。そうであるならば、私たちがその与えられているものを何によって用いていくか。そのことが問われているのです。捨てたから正解なのではありません。「すべてのものにまさって神を畏れ、愛する」時、「家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。」のです。


捨てる、捨てない。多くを献げる、献げられないなどの二元論でキリストへの信仰が問われているのではなく、神の愛が何であり、与えられているもの、事がらの本質に神が宿っているかどうか、御心は何か、そのことを私たちは注意深くあらねばならないのです。神の愛を大切にしていくとき、それらのものはさらに百倍受け、永遠の命を受けるという恵みをキリストは伝えてくださっているのです。


そして、その模範としてキリストは自分の命すらも捨てました。そして、まさに永遠の命をお示しくださいました。「すべてのものにまさって神を畏れ、愛する」ことの模範がキリストであることに気が付かされます。耳障りの良い言葉ばかりを求めてしまう弱い私たちです。自分の心を刺し貫くような言葉を遠ざけてしまう私たちです。しかしながら、私たち人間にとってどのように聴こえようとも同じ福音です。そうであるならば、そこには神の愛があるのです。


今日の福音においてもこれは神の愛の出来事を啓示する御ことばとして与えられています。神の愛の光に照らされて私たちが神以外のものに固執している現実、罪を暴き、同時に神の愛に生き、永遠の命を受ける生へと招きたもう神の導きが在るのです。「すべてのものにまさって神を畏れ、愛する」心をもって歩んでいけるように自分自身を悔い改め、祈り求めてまいりましょう。そして、いただいている一つひとつの賜物に感謝し、神の愛を豊かに表すために用いていくことができるように歩んでまいりましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。


8. 信仰告白 (起立)

司式)使徒信条によって、信仰の告白を共にしましょう。

 全員)天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。

そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊 によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。

聖霊を私は信じます。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。(アーメン)


9. 献金


10. 教会の祈り


11. 主の祈り (起立)

司式)祈りましょう

 全員)天の父よ。

 み名があがめられますように。

 み国が来ますように。

 み心が天で行なわれるように、地上でも行なわれますように。

 私たちに今日もこの日の糧をお与えください。

 私たちに罪を犯した者を赦しましたから、

 私たちの犯した罪をお赦しください。

 私たちを誘惑から導き出して、悪からお救いください。

 (み国も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです。)

 (アーメン)


12. 祝福 (起立)

司式)主があなたを祝福し、あなたを守られます。

 主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたに恵みを与えられます。

 主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わります。

 父と子と聖霊のみ名によって。


会衆)

   アー    メン    アー     メン    ア   ー   ー  ー  メン

13. 後奏

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