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ltnishinomiya

10月11日(聖霊降臨後第19主日)の礼拝と説教

西宮教会の皆さま


主の御名を賛美いたします。


夜遅くなってしまい申し訳ございません。


すっかりと秋めいてまいりました。

先日、フェイスブックにも掲載しましたが、台風の影響による雨の日に夙川遊歩道で帰宅中の小学生がコウモリ傘で遊んでいました。傘に溜まる雨粒を集めて「重い」「こぼしたらあかん」と雨の日をびしょ濡れになりながら楽しんでいました。

保護者さん泣かせの所業ですが、雨の日は何かと鬱屈した気分になります。私は低気圧にあてられると強烈な眠気と頭痛に見舞われるので余計に雨の日は苦手です。

それでも子どもたちの姿から神様の想像の御業を歓声を上げて喜び、楽しむことの大切さを小さな子どもたちの元気な声に気が付かされました。


さて、明日も10時30分から短縮式文を用いて礼拝を執り行います。ご一緒に神様の恵みに与かってまいりましょう。

出席適わない方は、いつも通りフェイスブックで配信を致します。どうぞご覧ください。

https://www.facebook.com/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%AB%E8%A5%BF%E5%AE%AE%E6%95%99%E4%BC%9A-284764385794229   また、礼拝後は教会のYouTube(ユーチューブ)に掲載しておきますので、そちらからでもいつでもご覧になれます。以下のリンクを選択してください。 https://www.youtube.com/channel/UCzbeaT4xiANne1wCKYqhUzg?view_as=subscriber 竹田


礼拝式文 聖霊降臨後第19主日


1.    前奏 (神様への思いを向ける準備をいたしましょう) 2.    祝福の挨拶 司式)父と子と聖霊のみ名によって  会衆)アーメン 3.    キリエ  司式)主よ、憐れんでください。      会衆)主よ、憐れんでください。 司式)キリストよ、憐れんでください。  会衆)キリストよ、憐れんでください。 司式)主よ、憐れんでください。      会衆)主よ、憐れんでください。 4.    讃美唱 詩編23編 23:1【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 2主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い 3魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。 4死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。 5わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。 6命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。 司式)父、み子、聖霊の神にみ栄えあれ、 会衆)初めも今ものちも、世々に絶えず。アーメン 5.    主日の祈り 全員)喜びの宴を司る主、あなたは全ての民を祝いの食卓に招き、あなたの命を惜しみなく注いでくださいました。今一度私たちを招き、気高いこと※・正しいこと・清いことによって、私たちを強め、義と平和の一つの民へと造り変えてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン 6.    聖書朗読 第一日課 イザヤ書 25章1節‐9節 (旧)1097頁 神の驚くべき御業 25:1主よ、あなたはわたしの神/わたしはあなたをあがめ/御名に感謝をささげます。あなたは驚くべき計画を成就された/遠い昔からの揺るぎない真実をもって。 2あなたは都を石塚とし/城壁のある町を瓦礫の山とし/異邦人の館を都から取り去られた。永久に都が建て直されることはないであろう。 3それゆえ、強い民もあなたを敬い/暴虐な国々の都でも人々はあなたを恐れる。 4まことに、あなたは弱い者の砦/苦難に遭う貧しい者の砦/豪雨を逃れる避け所/暑さを避ける陰となられる。暴虐な者の勢いは壁をたたく豪雨 5乾ききった地の暑さのようだ。あなたは雲の陰が暑さを和らげるように/異邦人の騒ぎを鎮め/暴虐な者たちの歌声を低くされる。 6万軍の主はこの山で祝宴を開き/すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。 7主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし 8死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。 9その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。 第二日課 フィリピの信徒への手紙 4章1節‐9節 (新)365頁 4:1だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。 勧めの言葉 2わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。3なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。4主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。5あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。6どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。7そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。 8終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。 9わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。 福 音 書 マタイによる福音書 22章1節‐14節 (新)42頁 「婚宴」のたとえ 22:1イエスは、また、たとえを用いて語られた。2「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。3王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。4そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』5しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、6また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。7そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。8そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。9だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』10そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。11王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。12王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、13王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』14招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」 7.    讃美歌 231番



8.    説教 「招きに応える備え」 竹田 大地牧師  私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 王子のために催された婚宴は「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」と語られているように、すべての準備が整っている状態です。この譬え話は「天の国」について語られているわけですから、このことから神の救いは、神によってすべてが整えられている、完成をしているということを示します。 ですから、救いとは神が私たちのために用意してくださっているということであり、その恵みに私たちは与る者でしかないということを示します。しかしながら、キリストがこのような譬え話を語られたということは、キリストの目の前にある現実は、この神の御心に対する思い違いであったからだと言えます。 というのは、当時祭司、ファリサイ派などの諸派、律法学者、また市井のユダヤ教徒ですら、神の御国に入る者とそうでない者には明確に線引きがあると考えていました。ユダヤ教徒の立場からするならば、自分たちは神から選ばれた民であり、特別な存在で、自分たちこそが多民族よりも優れており、神の国に相応しい人間だと考えていたのです。 また、そのユダヤ教徒の中でも、祭司などのエリートと市井の人、病人や障がい者、やもめというように段階のようなものが生じて、いわゆるエリートと思われている祭司や律法学者、ファリサイ派の人々が相応しく、ユダヤ教徒であっても病人、障がい者などは律法に従えない罪人なのだから、この神の恵みに与かれないと考えていたのです。 キリストは、天の国について語る時、「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」と語っているように、天の国の獲得、救いの獲得については人間の側にではなく、王の側、つまり神の御手によるものであると明らかにされています。 その招きに対してもともと招待されていた者は何かと理由をつけたり、あろうことか遣わされた僕を殺してしまいました。まさに旧約の預言者の預言を聞き入れなかったイスラエル、預言者を殺そうとしたイスラエルの歴史と重なります。また、それはキリストの御ことばを受け入れない当時の宗教指導者や宗教的エリートたちにも言えることです。 彼らは、キリストを敵対視し、十字架にかけて殺してしまいました。まさに王の招きに対する仕打ちをした招待者と同様です。しかしながら、この十字架の死こそが「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」という言葉の内実だったのです。 そして、このキリストの十字架の死によってまさに「善人も悪人も」すべての人が神の救いに与っているということをお示しになったのです。誰か選ばれた人にではなく、すべての人に神の招きがあって、私たちは天の国で喜びの祝宴に与る者とされている真実を示します。 そのような喜びに与るために人々が続々と婚宴会場に集い、ご馳走をいただいていますが、その中の一人に譬え話は目を向けます。それは「婚礼の礼服を着ていない者」でした。王は「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか」と問います。その問いに対して招かれた人は黙っていると、王は家来に「この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。」と命じて彼を外へと放り出してしまいました。 すべての人が神の救いに与る者とされているにもかかわらずなぜこの人は外へと放り出されてしまったのでしょうか。それは、たとえ神の御心がすべての人を救うことであったとしても、その招きに対して私たちもまたその招きに応えるために成すべきこと、覚えていかなければならないことがあるということを語られているのです。 たしかに私たちはキリストの十字架によって罪を赦され、善人であろうと悪人であろうと神の御許に招かれ、神に囚われています。パウロは「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」(エフェソ4:1‐3)と証しています。 神の招きを受けた者として「高ぶることなく」とあるように、自分は救われているという安心に慢心と高慢な態度をもって、救われているのだから何をしてもいい、どんな格好でも良いというのではないのです。むしろ、キリストがそうされたように、謙り、キリストが出会う人々に柔和と寛容を示したように、私たちもまた隣人に対してそのように愛をもって接していくことが、救いに与った者の相応しい態度であり、備えなのです。 また「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)とあるように、天の国の恵みに与かってなお、私たちは弱く乏しいものでしかないのですから、その中で神の助け、神の救いをいつも願い求めながら、神を神とする信仰によって生きるのです。 神の選ばれるふさわしい人とは、そういう人です。神の御国への招きはたしかにすべての人に向けられています。しかしその中で、その恵みに対して私たちは、「神を神とする心」「神への感謝」「神への讃美」「神の御ことばを聞く」ことをもって、自分がそれでも罪人であり、弱く乏しいものでしかない、けれどもどうにかして神の御心に応えていく、そういう信仰者としての生を歩むことも大切なことだとキリストは語られているのです。 ともすれば、私たちは既に救われている、神によって罪を赦されて、救われているのだからもう何もしなくても良いとも考えてしまいます。しかしそうではないのです。確かに神の救いに与っているという真理は、私たちの命を覆い、死の縄目、罪の縄目から解放しています。しかしその招きに対して、キリストは何を語られたか、神は何を語られているかということに心を向け、耳を傾け具体的に働いていくことは大切なことです。 ここ最近の主日におけるもう一つのテーマは終末、終わりにおける完成ですが、もし私たちが神の招きを受け、その恵みに与かりながら何もしないのであれば、その時に「お前たちは、わたしが飢えているときに食べさせず、のどが渇いたとき飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかった」(マタイ25:42‐43)と言われてしまい「永遠の火の中」に落とされてしまうでしょう。 キリストの御招きはある。しかし、その招きにふさわしく応えて生きていくことを教えられています。今一度、皆さんはこの御ことばを聞いて、果たして自分は今どうであるか。招きに応えていないもともとの招待者か、招きに応えながらも相応しく振舞えなかった者なのか、深く自分自身を沈思黙考する機会を与えられています。 いずれにしても私たちの願いは、招きに対して相応しく応えていくことです。祝宴の席に与るためにそれに相応しい服を用意し、救いの恵みに与かっていることの感謝の気持ちを示すこと、預かった者として招いてくださった方の思いを聞き、その思いに従って生きること、この事を改めて胸に刻みながら、今、置かれている場で、遣わされた場で神の御心に聴き従い、神の御心を行っていく、そういう信仰の歩みを歩んでいきたいと思うのです。 信仰によって救われているというのは真実です。しかし、そこから私たちは自ずと善を行わずにはいられなくなるはずです。そういう運動がないのであれば、その信仰は本物、本当にキリストが私の内で生きて働いているとは言えません。 ともすればルター派の信仰において行いは忌避されますが、ルターは行いは否定しません。今述べたように、信仰によって生きる時、真の救いの恵みを受け取った者として善を行わずにいられなくなるはずだとルターは語っています。 神の救いは既に整えられ、その恵みに招かれ、喜びに満たされています。その喜びの源である神の恩寵を隣人へと伝えること、行なうことへと突き動かされている。そういう生きた信仰によって私たちは今立たされているのです。信仰の恵みに与かり、いま皆さん一人ひとりを突き動かす神の御心から聴いた業とは何でしょうか。その受け取った思いを喜んでこれからも行ってまいりましょう。 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

9.    信仰告白 司式)使徒信条によって、信仰の告白を共にしましょう。 全員)天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。 そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。 聖霊を私は信じます。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。(アーメン) 10. 献金 11. 教会の祈り 12. 主の祈り 司式)祈りましょう 全員)天の父よ。 み名があがめられますように。 み国が来ますように。 み心が天で行なわれるように、地上でも行なわれますように。 私たちに今日もこの日の糧をお与えください。 私たちに罪を犯した者を赦しましたから、 私たちの犯した罪をお赦しください。 私たちを誘惑から導き出して、悪からお救いください。 (み国も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです。) (アーメン) 13. 祝福 司式)主があなたを祝福し、あなたを守られます。 主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたに恵みを与えられます。 主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わります。 父と子と聖霊のみ名によって。 会衆) アーメン、アーメン、アーメン。

14. 後奏

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