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  • ltnishinomiya

10月17日(聖霊降臨後第21主日)の式文と説教

主の御名を讃美いたします。


おはようございます。

急に寒い朝を迎えました。これまでの暑さが嘘のような日です。

お知らせが遅くなって申し訳ありません。

本日の礼拝のお知らせです。


先週は愛する姉妹を天に送る出来事を私たちは覚えました。

寂しさ、悲しさを覚えますが、これからも天にあって神様と共に礼拝に与かっていることを覚えてまいりたいと思います。

本日も10時30分から礼拝がございます。

どうぞみなさん十分に感染対策をしてお越しください。

礼拝はしばらくの間は短縮式文で執り行います。

ユーチューブからも礼拝の模様を配信しています。 出席叶わない方、健康にご不安をお覚えの方はお用いください。 配信は10時20分から始まります。 以下の「日本福音ルーテル西宮教会 - YouTube」という文字を10時20分頃にクリック(選択)していただければご覧になれます。 式文につきましては、申し訳ございませんが、流れのみを概要欄に掲載しています。聖書などはご自身のお用いいただくか、朗読をお聞きください。どうぞご了承ください。 日本福音ルーテル西宮教会 - YouTube 新しい一週間皆さんの生活と健康が守られますようにお祈りしています。

寒暖差で体調を崩してしまうかもしれません。どうぞお気をつけてお過ごしください。

牧師


聖霊降臨後第21主日礼拝

1. 前奏 (神様への思いを向ける準備をいたしましょう)


2. 祝福の挨拶

司式)父と子と聖霊のみ名によって

 会衆)アーメン


3. キリエ

司式)主よ、憐れんでください。

 会衆)主よ、憐れんでください。

司式)キリストよ、憐れんでください。

 会衆)キリストよ、憐れんでください。

司式)主よ、憐れんでください。

 会衆)主よ、憐れんでください。


4. 主日の祈り

全員)王である神様。あなたは、すべての民の救いのために御顔を向けてくださいます。御国に喜び仕えるしもべとして、絶えず御心だけを望むことができますように。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン


5. 聖書朗読

第一日課 イザヤ書 53章4節‐12節 (旧)1149頁

53:4彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。

5彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

6わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。

7苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を刈る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。

8捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。

9彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。

10病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。


11彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。

12それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。


第二日課 ヘブライ人への手紙 5章1節‐10節 (新)405頁

5:1大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。2大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。3また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げねばなりません。4また、この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されて受けるのです。

5同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、/

「あなたはわたしの子、/わたしは今日、あなたを産んだ」

と言われた方が、それをお与えになったのです。6また、神は他の個所で、/

「あなたこそ永遠に、/メルキゼデクと同じような祭司である」

と言われています。7キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。8キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。9そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、10神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。


福音書 マルコによる福音書 10章35節‐45節 (新)82頁

ヤコブとヨハネの願い

10:35ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」36イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、37二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」38イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」39彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。40しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」41ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。42そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。43しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、44いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。45人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」


6.讃美歌


7. 説教

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


出世欲というのは、向上心を上げて、その人自身の成長に繋がるときには効果的なのかもしれませんが、往々にして私たちが目の当たり事態は、この欲求によって他者が傷つけられている現実です。

さて、ヤコブとヨハネの兄弟は、キリストに「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と願い出ます。この言葉の背後にあるのは、彼ら兄弟がキリストを王とする世界の中で偉いポジションに就かせてほしいという願いです。


しかしながら、彼らが語っている「栄光」とキリストが語られる「栄光」には乖離があります。なぜならば、キリストがお示しになった栄光とは十字架の死に隠されながらも示されているからです。人間の誰もそこに栄光があるとは思えない所に神は栄光をお示しになったのです。ですから、この兄弟が願った栄光と、キリストが御ことばを通して示している栄光とは大きな違いがあるのです。


キリストは、この二人の願いに対して「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」と語ります。ここで示されている「分かっていない」という言葉は原語のギリシャ語では「見る」という言葉が変化してできた言葉が使われています。このことから、このキリストの「分かっていない」ということの内奥には「見ていない」という現実が在るのです。


何を見ていないのか。それは神の真理です。神の真理を見ずに、この世的な栄光を追い求めている姿が露呈しています。それは自分自身の権威を高め、強め、獲得していくことだけでなく、ユダヤ人たちを解放し、ローマの圧政から救い出す王として見出したキリストにもそのような姿を追い求めているのです。それは力強く、権威があり、輝かしい光に溢れている、かつてイスラエルを最も反映させ、領土を広げたダビデのような王を求めているのです。それは言い換えるならばローマの王に代わる王を求めているに過ぎないのです。


私たち人間はこの世の栄光を求めます。それらをかき集めたところで神の栄光に比べれば何の価値もないことを教えられながらも、私たちはそれらのものについ心を奪われ、神を見ること、知ることを止めてしまうのです。そうして神から離れ、神の御心を悟らずに生きてしまうのです。この世の栄光を求めて、上へ上へと登ろうとする。そうして私たちはますます神から離れ罪を犯し続ける。そういう現実が私たちにはあるのです。


「栄光」をはき違えるとき、私たちは罪を犯します。ヤコブとヨハネの兄弟も他の弟子たちよりも偉くなること、高くなることを求めました。しかしながら、今日のイザヤ書の苦難の僕の預言に示されているように、神の栄光をお示しになるためにキリストは、ひたすらに己を低くされました。

十字架の場面、キリストは槍でわき腹を刺し貫かれ、その死によって命は打ち砕かれ、鞭打たれ懲らしめられました。そして、徹底的に傷つけられました。


「5彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。」とあるように、それはキリストが背き、咎を数えられたのではなく、私たちのものでした。そして「彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」とあるように、キリストの受けられた懲らしめと傷によって平和と癒しが与えられ、私たちは救いへと至ったのです。


キリストはこの世の地位や財産を上に上り詰めることによってではなく、徹底的に神に仕え、人に仕えることによって救いを成し遂げられたのです。「仕える」ということは、すなわち神を見つめながら生きるということです。神を見つめて生きるとき、最上で最高の道が神の御心に従うことであることを悟ります。そして、人に仕えることが神の御心の現実であることをも悟るのです。


このように完全に神からの知恵によって為すべきことを悟り、神の御心に徹底的に仕えてくださった方が、私たち一人ひとりにも仕えてくださっているのです。なぜそのようにしてくださるのか、それは私たちが罪に囚われ、罪を犯し、罪に死ぬことを良しとしないからです。キリストは、私たちを救い出すためにヘブライ人への手紙でも示されているように、大祭司として来られ、贖いの献げ物を献げるために来られたのです。そして、その献げるものとは、ご自身の命でした。この唯一のものを献げて、神と私たちを執り成し、罪の赦しと、私たちの傷を癒し、打ち砕かれるべき命を永遠の命の恵みに溢れさせ、神が私たち一人ひとりのために仕え、死に、復活してくださったという平和、平安を与えてくださったのです。


私たちは完全に神に仕えることができません。隣人に仕えることもできません。しかし、唯一キリストのみが完全に神に仕え、人に仕え、神の深い愛のゆえに人間たちに覚える痛みを負い、同時に私たちが罪のゆえに負っている痛みを負って、小さく低くなり、神の愛と私たちの罪の赦しを成し遂げられたのです。


この方を信じる信仰が私たちを本当の栄光を見るものへと導くのです。この世の栄光、力にではなく、十字架の死という暗い影、死の影の背後に隠されている神の愛、神の栄光を見る者へと造り変えられているから、その栄光を見出すことができるのです。

だから私たちは神に仕え、隣人に仕えることができるのです。私のみであれば、私の欲に塗れてたちまちに神に仕えることも、隣人に仕えることもできなくなるでしょう。


神によって私たちは仕える者とされています。「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。」(ペトロ一5:6)とあるように、その時になれば高めていただく神の御手が在るのですから、私たちはたとえこの世的に低くあっても恐れません。不安はありません。キリストが十字架の時に私たちに徹底的に仕えてくださった姿を通して、高くされることを信仰によって確信しているからです。


罪深く、神から遠くあり、最も卑しい私たちです。その卑しい私たちよりも低くされ、陰府にまで下ってくださった方の十字架の栄光を仰ぎ見てまいりましょう。「知らない」「見ない」者ではなく、神を「知り」「見る」者とされていることを心から感謝しつつ、真の栄光、すなわち十字架を通して示される信仰の恵みを受けながら歩んでまいりましょう。

私のためにお働きくださり、仕えてくださる神が共に在る。この確かさの中で歩む平和、平安を覚えて歩み、同時に私たちも信仰によって神の御手の下で自分を低くし、神と隣人に仕えてまいりましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。


8. 信仰告白 (起立) 司式)使徒信条によって、信仰の告白を共にしましょう。  全員)天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。 そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊 によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。 聖霊を私は信じます。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。(アーメン)

9. 献金

10. 教会の祈り 11. 主の祈り (起立) 司式)祈りましょう  全員)天の父よ。  み名があがめられますように。  み国が来ますように。  み心が天で行なわれるように、地上でも行なわれますように。  私たちに今日もこの日の糧をお与えください。  私たちに罪を犯した者を赦しましたから、  私たちの犯した罪をお赦しください。  私たちを誘惑から導き出して、悪からお救いください。  (み国も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです。)  (アーメン) 12. 祝福 (起立) 司式)主があなたを祝福し、あなたを守られます。  主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたに恵みを与えられます。  主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わります。  父と子と聖霊のみ名によって。 会衆)

   アー    メン    アー     メン    ア   ー   ー  ー  メン 13. 後奏



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