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10月24日(聖霊降臨後第22主日)の式文と説教

ltnishinomiya

主のみ名を讃美いたします。

この季節の夕暮れは奇麗で見惚れてしまいます。

空気が段々と澄んできて六甲の稜線もクッキリと薄闇に浮き上がっています。

先日は、神戸のポートアイランドにあるIKEAという大型家具店に行ってきました。

その帰りに神戸港を見渡せるスポットに行きましたが、六甲山山上だけでなく、対岸から見る夜の神戸の光もしっかりと百万ドルの夜景の風格がありました。


礼拝式文 聖霊降臨後第22主日




1. 前奏 (神様への思いを向ける準備をいたしましょう)


2. 祝福の挨拶

司式)父と子と聖霊のみ名によって

 会衆)アーメン


3. キリエ

司式)主よ、憐れんでください。

 会衆)主よ、憐れんでください。

司式)キリストよ、憐れんでください。

 会衆)キリストよ、憐れんでください。

司式)主よ、憐れんでください。

 会衆)主よ、憐れんでください。


4. 主日の祈り

全員)永遠の光よ。私たちの心を照らしてください。永遠の知恵よ。私たちの無知の闇を追い払ってください。永遠の憐れみよ。私たちを憐れんでください。御顔を求めてあなたの道を映しだしてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン


5. 聖書朗読

第一日課 エレミヤ書 31章7節‐9節 (旧)1234頁

31:7主はこう言われる。ヤコブのために喜び歌い、喜び祝え。諸国民の頭のために叫びをあげよ。声を響かせ、賛美せよ。そして言え。「主よ、あなたの民をお救いください/イスラエルの残りの者を。」

8見よ、わたしは彼らを北の国から連れ戻し/地の果てから呼び集める。その中には目の見えない人も、歩けない人も/身ごもっている女も、臨月の女も共にいる。彼らは大いなる会衆となって帰って来る。

9彼らは泣きながら帰って来る。わたしは彼らを慰めながら導き/流れに沿って行かせる。彼らはまっすぐな道を行き、つまずくことはない。わたしはイスラエルの父となり/エフライムはわたしの長子となる。


第二日課 ヘブライ人への手紙 7章23節‐28節 (新)409頁

7:23また、レビの系統の祭司たちの場合には、死というものがあるので、務めをいつまでも続けることができず、多くの人たちが祭司に任命されました。24しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。25それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。

26このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。27この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。28律法は弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、律法の後になされた誓いの御言葉は、永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司としたのです。


福 音 書 マルコによる福音書 10章46節‐52節 (新)83頁

盲人バルティマイをいやす

10:46一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。47ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。48多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。49イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」50盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。51イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。52そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。


6. 讃美歌



7. 説教

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」という叫びは私たちの普遍の神への叫びだと思うのです。誰もが神の憐みなくして生きることはできません。

この言葉は原典では「憐み」という意味ともう一つ「恵み」という意味がある言葉が用いられています。このことから現わされることは、この時、盲人バルティマイは、「恵み」に飢えている状態であったということです。


それは彼が盲人であったということに起因します。なぜならば、何かしらの病や障がいを抱えて生きるということは、神の恵み、神の救いから遠い存在であり、罪人であると考えられていたからです。ユダヤ教の社会において生きるか死ぬかとは、信仰的に正しいか正しくないかということでした。

そういう概念の中で生きている彼にとって、今置かれている自分の状況、状態は神の御前に罪を犯しているから目が見えない病を抱えて生きている。神の恵み、救いから遠く離れた存在であるという悲しみを抱えていたのです。


だからこそ、彼は形振り構わず周囲の者に叱られようとも「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び続けたのです。多くの人々が𠮟りつけたということからも彼の置かれている状況がいかに悲惨かを物語っています。つまり、彼はモノを言って訴えることも許されない存在であったということです。お前のような奴が声を挙げて訴えるなど以ての外だと思われていたような存在であったということです。それくらいに彼の存在は小さくされ、弱くされていたことを物語っています。


しかしながら、この盲人バルティマイの姿、在り様は、私たちの姿でもあるのです。私たちは、神の御前に罪深い罪人でしかありませんし、神の御心から遠く離れた存在であり、今も罪を犯し続けています。本来であれば神の恵み、救いに与かる資格など有していないのです。そのことに周囲の人々も全く気付かず、退けようとする姿は、これまた私たちにも起こり得る事態でもあります。私たち自身も例えばクリスチャンとノンクリスチャンを分けようとします。しかし、それは愚かなことです。なぜならば、どちらも罪人であるということに変わりないからです。


神の福音は誰にでも届く普遍のメッセージであるにもかかわらず、そこに私たちクリスチャンは線引きをしてしまうことはよくあることです。すべての人に福音を届けるという言葉が括弧付きで(クリスチャン以外の)すべての人となってしまっている現実があります。そうして、私たちは私たち自身の間にも隔ての壁を作ってしまっているのです。バルティマイを叱る人々の中にわたしたち自身の姿を映し出しています。


そういう意味でこの福音に登場する人々は皆が罪人なのです。一人は病によって、多くの人は隣人愛の実践において罪を犯しています。そのような罪の渦中で盲人バルティマイは、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫ぶのです。それは、神への叫びです。本当は人前に出てモノを言うことも憚れる存在ということを自他ともに認めながら、哀れな自分、弱い自分、罪深い自分を包み隠さず主の御前に投げ打って、ただ憐みを求めたのです。


そして、この叫びはただ単に素晴らしい力を働かせるイエスの噂を聞いたということではなく、信仰の出来事です。なぜならばそれはイエスの「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」という御ことばに顕されています。彼が信仰によって神に自分の身を委ねたしるしとしての癒しなのです。信仰が自身が抱える困難を打ち破ったのです。


この出来事がエリコで起こったということも象徴的です。なぜならば、この地はかつてヨシュアがエリコを攻略するときに神の箱を伴って、高い城壁を最初の六日間は一周、七日目に七週したところで壁は崩れ、エリコを征服した所だからです。この攻略においても、彼らは神に従い、神を信じ、神の御ことばの通りに行動した時、彼らを拒み、障害となっていた壁を打ち破ったのです。


信仰が高い壁を打ち破り、エリコを制圧したのです。武力的に優れていたのではなく、イスラエルの民が主を信じ従ったことによる信仰の出来事です。まさにこの古の出来事と盲人バルティマイの癒しの出来事は通じるのです。信仰が、私たち罪人の困難、苦難を打ち破り、救いの喜び、神の御力の栄光を見る者としてくださるのです。


バルティマイは、その後イエスに従っていきました。神の御救い、御力に触れて、信仰をなお強くされ、主に従う道こそが自分の行くべき道であることを悟った姿を示します。主は「行きなさい」と仰られましたが、どこへとは言いませんでした。しかしバルティマイは、この御ことばをいただき、その行くべき道が信仰によって神に従う歩みであることを知るのです。この方に従う道こそが自分の行くべき道であり、最良の道であることを。


翻って私たちもバルティマイがそうであったように神によって罪を赦され、神の憐みの内に置かれています。神との喜びの出会いを与えられ、罪を赦されているという最良の喜びをいただいています。それは、私たちの知識によって悟ったのではありません。神からの信仰によってこの深い恵みと、私たちに注がれている神の憐みの視線に気が付かされたのです。


信仰をもって主に従い、歩むことの恵みをこの福音から示されています。そして、この罪人である私たちを唯一赦し、贖いだし、救いへと導く方がイエスご自身であることを教えられています。神の憐みを主イエスが執り成し、私たちを罪からすくい上げ、神の御力、恵み、祝福を受ける者へと造り変えています。

この喜ばしき出来事に私たちは今日バルティマイと共に与かっているのです。今、私たちはまさに大きな苦難の中にあります。罪人ですから、神にその悩みを、悲しみを申し立てることに恐れや後ろめたさを抱きます。しかし、バルティマイがその罪人の模範として示した姿は、神に信仰をもって叫ぶ者として歩む姿です。


この叫びを聞き届けてくださる神が居られます。私たちの思い通りにはならないかもしれません。しかし間違いないことは、神は聞いてくださっている。そして、私たちを憐み、私たちの思いを穿ち、救いへと導いてくださっている真実です。神への信仰が与えられている恵み、神に従うことの喜び、キリスト者として生きることの豊かさを心にとめながら新しい一週間を歩んでいきましょう。

そして、神の憐み、神の救いはすべての罪人である私たち一人ひとりに注がれ、大いなる喜びへと導きたもう主が居られることを力強く宣べ伝えてまいりましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。


8. 信仰告白 (起立)

司式)使徒信条によって、信仰の告白を共にしましょう。

全員)天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。

そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊 によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。

聖霊を私は信じます。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。(アーメン)


9. 献金


10. 教会の祈り


11. 主の祈り (起立)

司式)祈りましょう

全員)天の父よ。

み名があがめられますように。

み国が来ますように。

み心が天で行なわれるように、地上でも行なわれますように。

私たちに今日もこの日の糧をお与えください。

私たちに罪を犯した者を赦しましたから、

私たちの犯した罪をお赦しください。

私たちを誘惑から導き出して、悪からお救いください。

(み国も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです。)

(アーメン)


12. 祝福 (起立)

司式)主があなたを祝福し、あなたを守られます。

主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたに恵みを与えられます。

主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わります。

父と子と聖霊のみ名によって。


会衆)アー メン  アーメン  アーメン

13. 後奏


 
 
 

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