10月25日(宗教改革主日)の礼拝と説教
- ltnishinomiya
- 2020年10月24日
- 読了時間: 13分
更新日:2020年10月25日
主の御名を賛美いたします。
明日の礼拝は宗教改革主日です。
1517年10月31日にヴィッテンベルクの城教会の扉に張り出されたと言われている95カ条の提題に端を発して起こった宗教改革は、神の義の再発見という新しくも古いルターの自己の罪性との格闘、そしてそこからの聖書への探求によって発見によって起こりました。
この発見によって私たちは「信仰によってのみ救われる」という恵みを信じる信仰によって生かされていることを礼拝の恵みを通して覚えます。
どうぞお覚えくださり、ご一緒に神様の恵みに与かってまいりましょう。
明日も10時30分から短縮式文で礼拝を執り行ってまいります。ご一緒に神様の恵みに与かってまいりましょう。 出席適わない方は、いつも通りフェイスブックで配信を致します。どうぞそれぞれのところで神様の恵みに与かりましょう。 https://www.facebook.com/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%AB%E8%A5%BF%E5%AE%AE%E6%95%99%E4%BC%9A-284764385794229 また、礼拝後は教会のYouTube(ユーチューブ)に掲載しておきますので、そちらからでもいつでもご覧になれます。以下のリンクを選択してください。 先週は、映像を保存できていなくてアップロードできませんでした。申し訳ございませんでした。 https://www.youtube.com/channel/UCzbeaT4xiANne1wCKYqhUzg?view_as=subscriber
宗教改革主日礼拝
1. 前奏 (神様への思いを向ける準備をいたしましょう)
2. 祝福の挨拶
司式)父と子と聖霊のみ名によって 会衆)アーメン
3. キリエ
司式)主よ、憐れんでください。 会衆)主よ、憐れんでください。
司式)キリストよ、憐れんでください。 会衆)キリストよ、憐れんでください。
司式)主よ、憐れんでください。 会衆)主よ、憐れんでください。
4. 讃美唱 詩編46編
46:1【指揮者に合わせて。コラの子の詩。アラモト調。歌。】
2神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
3わたしたちは決して恐れない/地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移るとも
4海の水が騒ぎ、沸き返り/その高ぶるさまに山々が震えるとも。
5大河とその流れは、神の都に喜びを与える/いと高き神のいます聖所に。
6神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。
7すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る。
8万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。
9主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。
10地の果てまで、戦いを断ち/弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。
11「力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」
12万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。
司式)父、み子、聖霊の神にみ栄えあれ、
会衆)初めも今ものちも、世々に絶えず。アーメン
5. 主日の祈り
全員)恵み深い天の父なる神様、御子イエス・キリストによって、聖なる公同の教会を真理と平和で満たしてください。御子により、腐敗をきよめ、過ちを改め、正しいところを強め、必要を満たし、分かたれたふたつをひとつに戻してください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
6. 聖書朗読
第一日課 エレミヤ書 31章31節‐34節 (旧)1237頁
31:31見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。32この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。33しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。34そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
第二日課 ローマの信徒への手紙 3章19節‐28節 (新)276頁
3:19さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。20なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
信仰による義
21ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。22すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。23人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、24ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。25神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。26このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
27では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。28なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
福 音 書 ヨハネによる福音書 8章31節‐36節 (新)182頁
真理はあなたたちを自由にする
8:31イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。32あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」33すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」34イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。35奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。36だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。
7. 讃美歌 281番

8. 説教 「自由だ!」 竹田 大地牧師
今日は来る10月31日に先立って「宗教改革」を覚える礼拝としてご一緒に恵みに与かる時を過ごしています。プロテスタント教会、特に私たちルター派に属する者として大変重要な主日として私たちは過ごしています。今日、宗教改革において重要なことは、プロテスタント教会としてのアイデンティティの確認ではなく、もっと本質的なこと、すなわち「信仰による恵み」「信仰による義」について御ことばから聴き、その恵みを味わう時として過ごしていきたいと思うのです。
そのような主日に与えられた御ことばはヨハネ福音書からです。「真理はあなたたちを自由にする」というこの力強い御ことばを聴いているわけでありますが、この一連のキリストとキリストを信じたユダヤ人たちとの交わりの中に示されているみ心を味わい、ルターが発見した「信仰による義」を味わっていきたいと思うのです。
キリストは、「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」と語られています。この御ことばはキリストを信じたユダヤ人たちが「アブラハムの子孫」で「だれかの奴隷に成ったこと」が無いという誇りがあったからです。このユダヤ人の真意は、自分たちは神から選ばれた民であり、神の祝福と導きの内にいつもある存在だという誇りがあったからです。
たとえこの世的な抑圧、また彼ら自身バビロン捕囚を経験してきましたが、神から選ばれ救いに与る者であるという誇りがあったのです。この誇りは、神から与えられた恵みでありましたが、当時キリストの周辺に居たイスラエルの人々は、それを神によるのではなく、自分たちだけに与えられている特権であり、神から与えられているということを忘れ、極めて人間的な次元に落とし込んでしまい、この恵みを台無しにしていたのです。
このキリストを信じたユダヤ人たちもまたそのような誇りが在りましたから「だれかの奴隷になったことはありません。」と答えたのです。しかもこのユダヤ人たちの言葉について原典のギリシャ語聖書に戻ってみてみますと「決してだれかの奴隷になったことはありません」という強い否定の言葉が用いられているのです。
しかしながら、人間の本質とは実のところ、私たちが式文の「罪の告白」で告白しているように生まれながらに罪深い者でしかない、すなわち罪人であるという本性は変えることのできない真理です。そうであるならば、私たちはどんなに善いと思われることをしても、どんなに律法を守った生活を送ったとしても義ではありえない、救いの確信を得ることはできないのです。
ユダヤ人たちは、その点で大きな間違いを犯していたのです。それは、神から与えられている律法を守ることにより、自分たちは義である。救いに与るべき存在であると自分の善い行いにおて救われるのだと考えていたのです。この思考は、キリストの時代から時代を経て中世に至るまで人々の信仰生活の根幹を成していました。自身の善行によって神に近づき、神の国に至るのだという考えです。
それは、ある意味でこの世的な考え方です。善いことをした人が善人で、悪いことをした人が悪人であると誰しもが考えます。そして、善人は天国か、極楽か死んだ後に約束されていると考えるのです。殺人を犯した死刑囚が天国に入るなどとは誰も考えません。
しかしながら、ルターの発見は、そのような考えを真っ向から否定する発見でした。というのは、先ほど申し上げたように、私たちは罪人でしかない。そのような者の行いを神は義としません。悪い人が行う業は、いかにこの世的な評価において善行であっても、悪であり、その行きつくところは地獄でしかない。神の罰が下るのだということです。この「神の義」をルターは恐れていました。
ルターの人間理解、神理解はそれほどまでに厳しいものでした。それはパウロが「正しい者はいない。ひとりもいない」(ローマ3:10)とある通りです。人間は自分の力では決して正しくあれない。神の眼には罪人でしかない。故に自分は「神の義」のために罰せられ、滅びるしかない。そういう絶望の中でルターは生きていたのです。
しかし、このルターの人間理解、神理解こそが真実です。私たちは本来であれば救うに値しない者でしかありません。しかし神は、人間を捕らえ、憐みを向けてくださったのです。死に向かう者でしかない人間を神は憐みをもって臨んでくださり、救いの確信を得るために神を求めていたのに、本当は神が罪人である人間を求め、私たちが死の力によって滅びることを望まず、共に生きることを望んでくださっているのです。
「もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」という御ことばは、まさにこの神の御心の現れです。そして、そのしるしが十字架です。「子があなたたちを自由にする」という出来事は、十字架によって与えられている。罪の力、死の力に囚われ、奴隷となっていた私、何をしても自分の罪を償うこともできない私のために、神は世に来られ、この私のためにご自身の命を献げ、贖いの献げ物となってくださった。
この神の犠牲、神の憐みの業を信じることによって私たちは救われるのです。だからこそ「神の義」は恵みとして受け取る喜びを与えられるのです。
罪人にとって「神の義」は、神の義しさゆえに、自分は死に追いやる者でしかないという絶望を味わっていたルターでした。何をしても救いへと至らないことに深い悩みを持っていました。
しかしキリストの十字架を信じることによって、義となることではなく、義とされる恵みの確信を得たのです。「子があなたたちを自由にする」とは、まさにこの恵みの付与を示します。もはや私たちは、義となる、救われるために、義しくあるように自らあくせくし、格闘し、行いに没頭するのではなく、ただただ神の憐みにより罪の奴隷から自由とされ、神の恵みの内に生きる者、御国に生きる者とされている信仰によってのみ、「神の義」の確信を与えられ、希望にあふれさせるのです。
ルターはこの神から与えられることによって、すなわち受け取ることによってのみ与えられる「神の義」「神の救い」「自由」の確信について「今や私はまったく新しく生まれたように感じた。戸は私に開かれた。私は天国そのものに入った。全聖書も私に対して別の姿を示した。」「今まで私が「神の義」という語をはげしく憎んでいただけに、今やこの語を最もすばらしいことばとして誇る愛も大きかった。」と記しています。
私たちは、罪人です。罪の奴隷です。この本質は変わりありません。私たち自身もこの絶望を味わう者です。今週の朝ドラのエールで主人公の裕一は、戦争の痛みから自分が曲を書くことの絶望を味わいました。その中で長崎の医師であり作家の永田と出会い、永田に「どん底まで落ちろ」と言われます。そして、その言葉の真意について悩む中、焦土と化した長崎で奇跡的に無傷で残った鐘の音を聴きます。そして、裕一は人を生かすのは希望であると気が付き、自分の歌を通して人々に希望を届けるために作曲を手がけました。
まさに、それはルターの罪人でしかないという深い絶望から、どん底から十字架こそが神の義の豊かな恵みであり、希望そのものであることに気が付きます。罪人であり、死へと向かう私を神は憐み、キリストを遣わし十字架による救いを成し遂げてくださった神が居る。
救いのために働いてくださるのは神である。私が正しくあることに依るのではない。キリストへの信仰が与えられ、この信仰のみが私たちを救いの確信へと至らせ、希望に溢れさせるのだと。ルターにとっての「神の義」は滅ぼす力としての強さではなく、救いの力として力強く輝くようになったのです。
私たちは、改めてこの恵みを無償で与えられている喜びを覚え、私は罪人でしかないという深い自覚、絶望を味わい、どん底に立ちながら、この私を求め、憐み、信仰を与え、神の義を与えたもう神からはかり知ることのできない恵みの命とされている希望を喜んでまいりましょう。キリストによって自由とされ、今、私たちは「天国そのものに入った」という信仰に生きる喜びの命を歩んでまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
9. 信仰告白
司式)使徒信条によって、信仰の告白を共にしましょう。
全員)天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。
そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。
聖霊を私は信じます。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。(アーメン)
10. 聖餐式
聖餐の歌 204番

主の祈り
司式)祈りましょう
全員)天の父よ。
み名があがめられますように。
み国が来ますように。
み心が天で行なわれるように、地上でも行なわれますように。
私たちに今日もこの日の糧をお与えください。
私たちに罪を犯した者を赦しましたから、
私たちの犯した罪をお赦しください。
私たちを誘惑から導き出して、悪からお救いください。
(み国も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです。)
(アーメン)
11. 献金
12. 教会の祈り
13. 祝福
司式)主があなたを祝福し、あなたを守られます。
主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたに恵みを与えられます。
主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わります。
父と子と聖霊のみ名によって。
会衆)アーメン、アーメン、アーメン。
14.後奏
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