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10月31日(宗教改革主日)の説教

更新日:2021年11月21日

主のみ名を讃美いたします。


金木犀の香りが香ってきました。

秋も段々と深まって、いつの間にか11月を迎えようとしています。

最近は夜中に近くの南芦屋浜に釣りに時々出かけています。

アジ、サバ、アラカブ、メバルを釣っています。

他にもメジロ(ブリのこども)、サワラなどが上がっていますが、僕の仕掛けでは釣ることはできません。

そろそろそっちの釣りの仕掛けも車に積んでいかなければなりませんね。

魚釣りは季節も感じられていいですね。凍えながら朝釣り、夜釣りを楽しでいます。


さて、宗教改革主日です。ルーテル教会に集う者にとって大切な主日です。

どうぞ覚えてご一緒に礼拝の恵みに与かってまいりましょう。

来会される方はどうぞお気をつけてお越しください。

10時30分から礼拝がございます。

出席叶わない方、健康にご不安をお覚えの方はお用いください。 配信は10時20分から始まります。 以下の「日本福音ルーテル西宮教会 - YouTube」という文字を10時20分頃にクリック(選択)していただければご覧になれます。 式文につきましては、明日から通常式文に戻してまいります。 すみませんが、式文の掲載はございません。

日本福音ルーテル西宮教会 - YouTube どうぞ皆さんの新しい週が神様の導きと恵みに溢れますように。

牧師




宗教改革主日


聖書日課

第一日課 エレミヤ書 31章31節‐34節 (旧)1237頁

31:31見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。32この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。33しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。34そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。


第二日課 ローマの信徒への手紙 3章19節‐28節 (新)277頁

3:19さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。20なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。


信仰による義

21ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。22すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。23人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、24ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。25神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。26このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。

27では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。28なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。


福 音 書 ヨハネによる福音書 8章31節‐36節 (新)182頁

真理はあなたたちを自由にする

8:31イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。32あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」33すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」

34イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。35奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。36だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。



【説教】 宗教改革の心


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


今日は10月31日、丁度504年前ルターがヴィッテンベルクの城教会の扉に95か条の提題を張り付けたことに端を発して起こった宗教改革が起こったとされる日です。そして、それはルーテル教会に集う者として心に深く刻み、ルターの発見した「神の義」「十字架の神学」といった信仰において重要な事柄を改めて覚える日として守っています。そのような日に必ず読まれるのが、今日のヨハネ福音書の御ことばです。この与えられている福音を通して、神が私たちにしめされている御心は何かご一緒に聴いていきたいと思います。


さて「真理はあなたたちを自由にする」とキリストは語られています。ここに語られている「自由」の意味は奴隷状態などから解放されるという意味において使われる言葉です。つまりキリストがこのように語られるということは、私たちが何かの奴隷であるということを顕しているのです。

この「何か」をルターは罪だと言うのです。私たち人間は、誰もが罪に囚われており、神の御前に正しくあれず、あろうことかその生涯にわたって罪を犯し続けている存在だと主張したのです。


ルターの生きた中世末期、キリスト者たちはいわゆる功績を積むことによって自分たちは救いに至ると考えていました。さまざまな事柄を通して神の掟を守り、神の示される完全な愛を成就する者となるのだ。愛の実践こそが救いへの最良の道であると考えられていたのです。しかしながら、ルターはどんなに「愛の実践」をしても自分が救いに至る確信を得られませんでした。むしろそれは自己愛、救われているという確信を得るための幸福追求に過ぎない、それはつまるところ神さえも自分の幸福実現のために誤って用いているのではないかという疑いすら抱いていたのです。


そのような中でルターが御ことばの探求から与えられたことは、神から与えられる信仰によって義とされる、救われるという当時の考えとは全く逆説的な発見だったのです。キリストの十字架の死は確かに神の救いの出来事です。そして、それは神の愛の出来事です。この神が私たちに対して愛を働かせてくださることによってのみ救いの確信は得られるのです。


だからこそ私が何かをしたことによって得る救い、罪からの解放の確信は自己愛、幸福実現の手段にすぎず、むしろ十字架は、私たちを益々罪人であることを深く自覚させるのです。私の罪はキリストが十字架に架かって死ななければいけないほどに重く、深く私に突き刺さり、重くのしかかるのです。

しかしこの重荷を自覚すればするほどに、キリストの十字架がより一層に神の愛と恵みに溢れている救いの出来事であり、この罪の重荷を負う罪の奴隷、罪人の状態から解放してくださっているという確信へと至らせるのです。


行ったことの報酬を得るという考えは現代も私たちの社会において当たり前のことと考えられています。この当たり前をできない者は不適格であり、相応のモノを受けることができなくて当然だと考えられています。

例えば、税金を納めていないような路上生活者が、自分たちが納税したお金である生活保護を受給するなど言語道断だし、今、生活保護で生活している人も働きもせず金だけもらっているという批判は正にそのことの最たる例です。


しかし神の御心は、私たちは社会においてどのような階級だろうと、老若男女だろうと等しく罪の奴隷状態にある哀れな者でしかないのです。神の目には誰も義であれず、神の救いの御手から漏れている者でしかない。それにもかかわらず、神は私たちを愛してくださり、憐みの目を向け、愛する御子をこの世に下し、神の愛、すなわち救いを実現するために愛する御子の命を贖いの供物として献げてくださったのです。


全くの神の御業、神のお働きによってでしか私たちは救いに至らないのです。だからこそ、先ほどから申し上げているように、私たちは神の救いの御業を仰ぎ見れば見るほどに自分自身の罪の重さを自覚せざるを得ないのです。それは、優美で甘美な救いの業ではありません。まさしくキリストの十字架の死は、重く、暗く、深い罪の自覚、それによって救いに値しない自分を知り悲しみへと導きます。しかし同時に、その思いが深ければ深いほどにキリストの十字架の死という暗闇の背後に神の栄光が隠されていることを深く悟ることとなるのです。


今も私たちは罪人です。しかし、このことを深く自覚し、落胆し、絶望するとき、キリストの十字架の死が深い神の愛の働きであることを悟るようになるでしょう。日々、神の御前において罪を犯し続ける罪の奴隷、罪人であることを自覚しながら、その自分を包み隠さず神に告白し、この私のためにお働きくださる神が居てくださるという福音を信じていきたいと思います。


「神の愛の実践」「律法の遵守」によって得られる義、救いではなく、神の愛の働きである十字架に寄せる信仰によって救いに至る確信を私たちも与えられています。何かを得るためにあくせくし、右往左往し、得られるとも分からない報酬を待ち望むのではなく、神から与えられる信仰によって与えられる十字架のみが私を喜びに溢れさせ、生かします。この神から与えられる恵み、救いを受けるのみです。だからこそ、神のお働きにすべてを委ねて歩んでまいりたいと思います。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。


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