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10月4日(聖霊降臨後第18主日)の礼拝と説教

ltnishinomiya

先週は中秋の名月でした。

煌々と光る月がとても奇麗でした。何となく外出中の人が一堂にツキを見上げている姿が目立ちました。

写真を撮りましたが、スマートフォンではその美しさは全然伝わりませんね。

最近は何でも携帯電話で写真に撮ってしまいますが、改めて目に焼き付けて記憶と思い出に残すことは大切なことだと気づきました。

大切なことは、自分の目と心で見つめていく時、本物が見えてくるのでしょう。それは御ことばに示されている神様の御心も同じですね。


さて、明日も10時30分から短縮式文で礼拝の恵みに与かってまいります。聖餐式もございます。

どうぞ皆さんで神様の恵みに与かってまいりたいと思いますが、コロナ禍の状況下にありますからどうぞご不安のある方はご無理なさならないでください。


フェイスブックでライブ配信してまいります。

ライブ配信は以下のリンクからご覧になれます。 https://www.facebook.com/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%AB%E8%A5%BF%E5%AE%AE%E6%95%99%E4%BC%9A-284764385794229   また、礼拝後は教会のYouTube(ユーチューブ)に掲載しておきますので、そちらからでもいつでもご覧になれます。以下のリンクを選択してください。 https://www.youtube.com/channel/UCzbeaT4xiANne1wCKYqhUzg?view_as=subscriber


礼拝式文 聖霊降臨後第18主日

1.    前奏 (神様への思いを向ける準備をいたしましょう) 2.    祝福の挨拶 司式)父と子と聖霊のみ名によって  会衆)アーメン 3.    キリエ  司式)主よ、憐れんでください。      会衆)主よ、憐れんでください。 司式)キリストよ、憐れんでください。  会衆)キリストよ、憐れんでください。 司式)主よ、憐れんでください。      会衆)主よ、憐れんでください。 4.    讃美唱 詩編80編8‐16節 80:8万軍の神よ、わたしたちを連れ帰り/御顔の光を輝かせ/わたしたちをお救いください。 9あなたはぶどうの木をエジプトから移し/多くの民を追い出して、これを植えられました。 10そのために場所を整え、根付かせ/この木は地に広がりました。 11その陰は山々を覆い/枝は神々しい杉をも覆いました。 12あなたは大枝を海にまで/若枝を大河にまで届かせられました。 13なぜ、あなたはその石垣を破られたのですか。通りかかる人は皆、摘み取って行きます。 14森の猪がこれを荒らし/野の獣が食い荒らしています。 15万軍の神よ、立ち帰ってください。天から目を注いで御覧ください。このぶどうの木を顧みてください 16あなたが右の御手で植えられた株を/御自分のために強くされた子を。 司式)父、み子、聖霊の神にみ栄えあれ、 会衆)初めも今ものちも、世々に絶えず。アーメン 5.    主日の祈り 全員)愛する神様、善いものはみな、あなたから出ます。私たちが正しいことを知り実行できるように、あなたの息を吹き込み、慈しみ深く導いてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン 6.    聖書朗読 第一日課 イザヤ書 5章1節‐7節(旧)1067頁 ぶどう畑の歌 5:1わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。 2よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。 3さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ/わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。 4わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに/なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。 5さあ、お前たちに告げよう/わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ/石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ 6わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず/耕されることもなく/茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。 7イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑/主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに/見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに/見よ、叫喚(ツェアカ)。 第二日課 フィリピの信徒への手紙 3章4節b‐14節 (新)364頁 3:4bだれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。5わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、6熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。7しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。8そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、9キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。10わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、11何とかして死者の中からの復活に達したいのです。 目標を目指して 12わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。13兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、14神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。 福 音 書 マタイによる福音書 21章33節‐46節 (新)42頁 「ぶどう園と農夫」のたとえ 21:33「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。34さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。35だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。36また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。37そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。38農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』39そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。40さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」41彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」42イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。 『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』 43だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。44この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」 45祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、46イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。 7.    讃美歌 254番



8.    説教 「殺したのは私」 竹田 大地牧師  私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

キリストの譬えの中に「ぶどう園の外」とありますが、この場所はどこでしょうか。聖書において「ぶどう園」とは、しばしば「天の国」と譬えられます。つまり、息子、すなわちキリストが連れていかれたのは、天の国の外で殺されたということです。

キリストは、ご自身の行く末をこのような譬えを用いて祭司長や長老たちに向かって語っているのです。この譬えを聞いた彼らは、この譬え話が自分たちに向けて言われていることに気が付きました。それは、暗に自分たちが御国において不当な行い、すなわち罪を犯しているということを糾弾されているように考えたからです。

彼らはユダヤ人の中でも象徴的なエリートです。祭司は、祭司の家系からしかなることができません。生まれながらのエリートと言ってもよいでしょう。長老たちは、ユダヤ教徒として長年信仰を守り続けてきて、人々から尊敬の念を抱かれているような人々であり、会堂の代表を務めるような人々です。

その自分たちが、ユダヤ教徒として神から与えられた地を必死に守り続け、いまローマ帝国からの辛酸を舐めながらも、信仰を守り、会堂を守り、神殿を守ってきているという自負心が在りました。しかし、それをキリストが真っ向から否定するような譬えを用いて語ったのですから、はらわた煮えくりかえるような思いを抱いたに違いありません。

このような祭司長、長老たちの思いの背景には何があるのでしょうか。その心の中にある思いに考えを巡らせていきたいと思うのです。それは、自分たちが信仰的に義しい存在であるというプライドであり、自分たちこそ御国を受け継ぐに相応しい資格を有していると考えていたからでしょう。自分たちから順に御国に入り、神の支配のもとで相応しい報いを受けるのだと考えていたのです。

「『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』」と語っているように、自分たちにその権利があることを一貫して勘違いしています。この言質から彼らが神の国の恵み、すなわち神の救いを我が物にしようとしている思いが溢れています。しかし、その農夫たちが主人によって追い出されるというキリストの結びの言葉は、受け入れがたく、怒りを覚えるような御ことばだったのです。

この思いを突き詰めていくならば、救いという神の出来事を自分たちのこの世的な評価や自己の基準によって獲得していると考えているのです。しかし救いとは、人間の出来事ではなく、神が人を救うのであって、それを自分たちこそが救われる存在だと自己義認をして獲得するものではないのです。

そういう人間の思い違いを見抜いて、パウロは「わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。8そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。」と語っています。

彼はファリサイ派のエリートであり、ローマの市民権を持っていた稀有な存在でした。周囲の人々から見ても祭司や長老たち同様に特別な人と思われていました。この人こそ神の救いを受けるに相応しい人物とも思われていたでしょう。しかし神の救いにおいてそれらの一切が何の役にも立たないと言い切るのです。

私たちは、神の救いという言葉を聞くと輝かしいものや力強さをイメージします。そのイメージに支配されているのは、この譬えで示されているように相応しさ、資格をいかに得ていくかという考え方に支配されているからです。自分がどうあるか、また他者がどうあるべきかという物差しですべてが計られ、つまらないこの世の尺度に沿って救われる人、救われない人という線引きがあるという錯覚に陥って、そのように考えてしまっているのです。

しかし、神の救いはその人間がつまらないと捨てていた価値から与えられました。まさに隅の石と思っていた、取るに足らない石が、家造りにおける要の親石となったのです。人が捨てたいともっとも願い、最も価値のない「死」という出来事の中にこそ神の栄光が隠されながらも示されているということをキリストはこの詩編とイザヤ書の引用によって示されていることを語られました。

そういう意味でパウロの証しが真理であることに気が付かされます。この世的な価値、誰からどう思われているか、考えられているか、社会的な地位、宗教上の立場など、そういったものは全く価値無しと見なす覚悟を迫られているのです。そういう意味で私たちは、打ち砕かれなければならないのです。

捨てたもの、すなわち息子を殺したのは、私なのです。この痛みに砕かれる。捨てたものが神の救いにおいてなくてはならないものだったことを嘆く。私の盲目、愚かさ、この世の価値に振り回され、神を神とできない不信仰によって御子を殺してしまったという悔いに砕かれる。

そうして砕かれ、何も私には無いと気が付くとき、そこに神は来られ、何もない私に真の栄光、真の救い、真の愛を豊かに注ぎ、神が在るという確信へと導いてくださっているのです。

ですから、私たちは決断するのです。この世が捨てたものに全てを委ねることこそが本当に生きることであると。この信仰によって私たちは救われ、愛を見いだし、平安を与えられるのだと。それは「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」とある通りです。

手放すことの恐ろしさ、価値ある者と思えるものを捨てる勇気が必要かもしれません。しかし、今日私たちは神からその時、神の大いなる恵みを見る者とされるという招きを受けています。何よりも信仰こそが私という存在を輝かせ、活かすということ、神の愛のみ在れば充分であるという確信をもって、神に委ねていく生き方へと変えられています。

何もかも捨てて無価値とされている私を捕えてくださっているキリストが私たち一人ひとりの中で生きておられます。その方が豊かな恵みを与え続けてくださっています。この世の何よりも価値あるものに満たされている命とされている。そのためにキリストが十字架で死なれたことを覚え、今一度、自分自身を顧み、果たして自分は何にしがみついているのか、何に囚われているのかを考えてみましょう。

このキリストの御ことばを聴いた者として、果たして自分がどのように生きるべきかを考えながら、その中で神の恵みの内に生きることの喜びをこの世の価値からではなく、神の御心から見いだしていく信仰生活として参りましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

9.    信仰告白 司式)使徒信条によって、信仰の告白を共にしましょう。 全員)天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。 そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。 聖霊を私は信じます。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。(アーメン) 10. 聖餐式  聖餐の歌 204番



11. 献金 12. 教会の祈り 13. 主の祈り 司式)祈りましょう 全員)天の父よ。 み名があがめられますように。 み国が来ますように。 み心が天で行なわれるように、地上でも行なわれますように。 私たちに今日もこの日の糧をお与えください。 私たちに罪を犯した者を赦しましたから、 私たちの犯した罪をお赦しください。 私たちを誘惑から導き出して、悪からお救いください。 (み国も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです。) (アーメン) 14. 祝福 司式)主があなたを祝福し、あなたを守られます。 主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたに恵みを与えられます。 主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わります。 父と子と聖霊のみ名によって。 会衆)アーメン、アーメン、アーメン。

15.後奏    

 
 
 

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