top of page
ltnishinomiya

11月21日(永遠の王キリスト主日)の説教

主の御名を讃美いたします。


昨日は、ほぼ皆既月食の天体ショーを皆さん満喫したでしょうか。

丁度その時間に外出をしていましたが、たくさんの人が月を見上げていました。

私もその一人でしたが、iPhoneで撮影を試みましたが、全然撮れませんでした。肉眼に焼き付けました。次回は六十数年後ですので、生きているかも分かりません。


礼拝のご案内です。

10時30分から礼拝堂に集って共に神様の恵みに与かってまいりましょう。

出席叶わない方、健康にご不安をお覚えの方はお用いください。 配信は10時20分から始まります。 以下の「日本福音ルーテル西宮教会 - YouTube」という文字を10時20分頃にクリック(選択)していただければご覧になれます。 式文につきましては、通常式文に戻しています。すみませんが、式文の送付はございません。

どうぞ皆さんの新しい週が神様の導きと恵みに溢れますように。

牧師




永遠の王キリスト主日

聖書日課

第一日課 ダニエル書 7章9節‐10節,13節‐14節 (旧)1392頁 

7:9なお見ていると、/

王座が据えられ/「日の老いたる者」がそこに座した。その衣は雪のように白く/その白髪は清らかな羊の毛のようであった。その王座は燃える炎/その車輪は燃える火

10その前から火の川が流れ出ていた。幾千人が御前に仕え/幾万人が御前に立った。裁き主は席に着き/巻物が繰り広げられた。


13夜の幻をなお見ていると、/見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み

14権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。


第二日課 ヨハネの黙示録 1章4節b‐8節 (新)452頁

1:4b今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。

わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、6わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。

7見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、/ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。

8神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」


福 音 書 ヨハネによる福音書 18章33節‐37節 (新)205頁

18:33こで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。34イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」35ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」36イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」37そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」


【説教】真理に属する

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


今日で今年の教会暦は最後の週を迎えました。待降節から始まり、一年間を神様が守り導いてくださったことを心より感謝をするばかりです。特に今年は昨年以上に新型コロナウイルスの影響が大きかったと感じています。兵庫県下は、緊急事態宣言期間が115日間、まん延防止等重点措置期間が52日間、合わせて167日間もの間を新型コロナウイルスによる何らかの影響下にありました。


教会においても礼拝の自粛を余儀なくされ、キリスト者にとって誰もが大切にしている神が私たち一人ひとりに奉仕して下さる恵みの時を奪いました。1週間168時間のうちのわずか1時間足らずの時間が礼拝の時間ですが、しかしこの1時間は私たちにとって無くてはならないひと時です。この大切な時間が奪われる心身における苦痛、信仰における喪失を誰もが経験しなければならなかったのです。まさに未曾有の危機が私たちに差し迫っていると言えます。そして、この脅威は未だに解消されたわけではありません。


昨年、今年と新型コロナウイルスによって私たちは、本当に心を騒がされました。その中で親しい兄弟姉妹とも自由に会うことのできないもどかしさも経験しています。その間に別れも体験した方々もたくさんおられます。このウイルスがまだまだ未知の部分が多く、対処に困っていたときには、葬儀をしても家族だけ、時には家族さえ集い、別れを惜しむことができませんでした。


このウイルスは人から様々な機会を奪ったのです。葬儀における別れもそうですし、学生にしてみれば大学に入学してもキャンパスライフを十分に謳歌することもできずに居ます。リモートが進み、人と人とが直接に顔を合わせて仕事をしたり、親交を深める機会も奪われています。愛する家族、親しい友と会えない苦痛は私たちの想像以上に大きな痛みを負わせました。


そのような中で私たちの心は騒ぐのです。いつまでこのような状況が続くのだろうか、もしかしたらこの先ずっとこのような不安な時代が続くのではないかと、今の状況から将来に対して希望的なビジョンを描けないようになってしまっています。誰もが不安の闇に取り憑かれ、自分自身、またこの社会全体の足元がとても不安定であることを否応なしに痛感せざるを得ない状況に置かれているのです。


それは御多聞に漏れず教会においても言えることです。教会は、それ自身は人の集団です。ルーテル教会の教義に則るならば教会は建物ではないのです。しかしながら、この人の集団は罪人の集団です。誰もが神のみ前に罪を犯している人、そういう人たちの集まりが教会です。きっとそのことを皆さんも深く自覚されていることだろうと思います。ですから、新型コロナウイルスによって礼拝の機会が奪われる。共に集って、同じ神の恵み、キリストの御ことばの御恵みに与ることができない状態はこの世的な不安以上に不安を掻き立てたことだろうと思います。


教会の確かさや今までの教会の常識や連綿と紡いできたことが新型コロナウイルスという小さなウイルス、しかし強大な脅威によって瓦解する様を私たちは目の前でまざまざと見せつけられて来ました。当たり前で強固と思っていた事柄がことごとく音を鳴らして崩れていく様を私たちは誰もが何かを通して経験しなければならないという痛みを負いました。


そのような中で思わされることは、この世に存在する全ては不安定で、繊細で、弱いということです。この世の理も、教会でさえも苦難に喘ぐのだということを露呈したのです。実に私たちは弱さと不安定の中で生きているのです。そして、何よりも私たち自身が弱いのです。とても小さなウイルスによって一喜一憂し、右往左往してしまう。そして、何が真なのか分からなくなって彷徨ってしまう存在でしかないのです。そして、心は神から離れ、神に対しても、隣人に対しても罪犯してしまうのです。


そのような中で今日の御ことば、特に讃美唱として与えられている詩編93編1節「主こそ王。威厳を衣とし/力を衣とし、身に帯びられる。世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない。」という言葉とピラトの審問の際にキリストが「わたしの国は、この世には属していない。」という御ことばに聴いていきたいと思うのです。


なぜならば、私たちはこの2年間でまざまざとこの世が、そして自分自身が激しく揺れ動かされ、確かなものが確かでないことを経験したからです。特に詩編93編はイスラエルの民がバビロン捕囚から帰還した後に記されたとされている詩編です。つまりイスラエルの民は40年間にわたって、虜囚の民となり、非常に不安定な中で生きねばならなかった。確かと思っていた祖国は滅ぼされ、心の拠り所である神殿は崩壊した状況に置かれた中からの解放を経験して歌い上げたのがこの93編の詩編なのです。


長い不安の中から解放された時、彼らは主の確かさを感じずにはいられなかったのです。いつまで続くとも分からない不安な日常、暗闇の中にあった。しかし、主は私を見放す事なく、弱くされている私に目を注ぎ、神の確かさ、神の救いの御業を見るものとしてくださった。この喜びが詩編作者を強くし、神への信仰の確かさの中で「決して揺らぐことはない」と断言させるのです。


イスラエルに帰還しても、国が再興したわけではありません。しかしながら、もはやこの詩編作者は、この世ではなく神の永遠の支配を仰ぎ見るものとされているのですから、何も不安は無い。自分という存在は弱く共神は強く私を導いてくださっているという希望と喜び、平安のうちに歩んでいるのです。だから、キリストご自身も死を前にしても成し遂げるべきことを見つめながら、この世の権威や強さに屈服することなく「わたしの国は、この世に属していない。」と言い切るのです。


即ち、私たちの命は、この世ではなく神の国に属しているのです。不安定で闇が支配し、人を弱める世ではなく、神の確かさ、神が始めから終わりまで支配しておられる御国に在るのです。この世のものは移りゆきます。時にその移ろいについていけなくなってしまうこともあります。このコロナ禍で急速に時代や通念、観念、常識が変わっていきました。教会もその流れに翻弄されています。


しかしながら、そのような中で覚えていきたいのは、この世がどんなに変わろうとも神の国の支配はいつまでも変わらないのです。しかもこの王である方は上から目線で支配するのではなく、キリストが天から降って来てくださったように、私たちの元に来られ、私たち一人ひとりの手を取り、時に背負い、時に共に立ち止まってくださり、いつも共に居て生きてくださっているということです。


この確かさの中で私たちは生きています。そして、この確かさの中で生きる唯一の術は「わたしの声を聞く。」とキリストが語られたように、神の御ことばに立つということ、即ち聖書にいつも聴いていくということです。この1,982ページのうちに真理が示されており、これに聴くときこそ私たちは見えざる神の存在を親しく感じ取り、共に居て、私たちのために生きて働いてくださっていることを知るのです。


教会暦の終わりの週にあって、改めて私たちは神の御国の支配のうちに生かされ、神の確かさの内に一人ひとりの命が置かれていることを覚えていきたいと思います。そして、同時に御ことばに聴いていくことこそが、この恵み、喜び、平安を確かにしていくことを深く刻みながら、新しい教会暦への備えの時を過ごしてまいりたいと思うのです。この世は激動しました。しかし、神は普遍であり、これまでも、今も、これからも私たち一人ひとりを支配し、善きものでいつも満たしてくださっていることを喜び、この確かさを求めている方々へこの福音を宣べ伝えてまいりましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

閲覧数:3回0件のコメント

Комментарии


bottom of page