待降節第1主日
聖書日課
第一日課 エレミヤ書 33章14節‐ 16節 (旧) 1241頁
33:14見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。15その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。16その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう。
第二日課 テサロニケの信徒への手紙一 3章9節‐ 13節 (新) 376頁
3:9わたしたちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています。この大きな喜びに対して、どのような感謝を神にささげたらよいでしょうか。10顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています。11どうか、わたしたちの父である神御自身とわたしたちの主イエスとが、わたしたちにそちらへ行く道を開いてくださいますように。12どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがたを愛しているように。13そして、わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように、アーメン。
福音書 ルカによる福音書 21章25節‐ 36節 (新) 152頁
人の子が来る
21:25それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。26人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。27そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。28このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」
「いちじくの木」のたとえ
29それから、イエスはたとえを話された。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。30葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。31それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。32はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。33天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
目を覚ましていなさい
34「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。35その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。36しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」
【説教】終わりの始まり
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
本日から教会暦は新しい年を迎えて、その最初の時として私たちは待降節を過ごしてまいります。アドヴェントクランツにも一つ目の火が灯りました。今、私たちはクリスマスへの備えの時を歩んでいます。
そして典礼色は、ご覧のように紫色となっています。紫色は、イースターへの備えの時の四旬節にも用いられます。この二つの教会暦に共通する事柄は、神の救いへの備えの時ということです。そして、この備えの時にあって私たちに相応しい態度は悔い改めです。
それは何故キリストが私たちの許に来られるのかということを考えれば明らかとなります。つまり、キリストのお働きは何かということです。クリスマスにおいてもイースターにおいても共通することは「救い」と言いましたが、それは何からの救いなのか。それは罪と死の力からの救いです。なぜならば、私たちは罪と死の力に囚われているからです。この諸力から解放するためにキリストは、私たちの許に来られ、お生まれになったのです。
この罪の赦しを宣べ伝えるため、そして、ご自身でこれを実現するためにキリストは来られるのです。そこでキリストは、私たちに対して「いつも目を覚まして祈りなさい」と語り掛けておられます。
さて、私たちは眠ります。実に一日の三分の一ほどは眠っています。四六時中起きているなどとは到底できません。眠りが無いと心身に不調を来たしてしまうのは自明です。
しかしながら、それでもキリストが「目を覚まして祈りなさい」と語り掛けるのは何故なのでしょうか。それは、眠りの状態にあるとき私たちは無防備だからです。だから草食動物の平均睡眠時間は3時間程度だそうです。眠ってしまえば天敵の肉食動物に襲われる危険があるからです。キリンに至っては、一日20分ほどだと言われています。
肉食動物が罪、死の力だとするならば、これらは私たちが眠りこけるのを虎視眈々と狙っているのです。無防備になり、何の抵抗もできない状態になったところをたちまちに襲ってくるのです。そして、実際に私たちは残念ながらいつも目を覚まして祈ることができないのですから、その一瞬の隙を突いて、私たちを襲い、罪を犯させ、罪人としてしまうのです。
キリストが「目を覚まして祈りなさい」と語られるということは、常に目を覚まして、祈っていられない現実の中に私たちが生きているからです。私たちは「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍く」なってしまっています。特にコロナ禍でそれはさらに生活の煩いは大きくなりました。正直、明日も分からない状況に誰もがあります。昨年の釜ヶ崎の冬の夜回りで出会った人の中にはコロナで職を失い、ここに来たという人が居られました。また、先ごろ報道されたようにまた新しいコロナウイルスの株が発見され、ワクチンの効果が得られないかもしれないというニュースを見聞きいたしました。
不安が世界中を包み込み、人々の心に闇を落としています。私たちの教会のメンバーの中にも自由に家族と外出することがままならず教会での礼拝が再開しても出席することが許されずに居る方々も居られますし、大事をとって自粛されている方々も居られます。もう一年以上お会いできず、交わりを絶たれたかのような状況に置かれ、孤独、寂しさ、信仰生活における苦難を味わっています。
そういった諸々の事柄を通して罪や死の力は私たちの命を蝕み、神に対する「何故」「どうして」という思いを募らせます。このような状況に置かれるのかという疑いが芽生えます。そうして、神は居るのかという思いすらも抱かせるのです。私たちの置かれている状況は本当に危機的です。誰もが今の状況に対して明るい兆しを見たり、聞いたりすることができずにいます。
私たちの命が弱められている。そこへ来て「目を覚まして祈りなさい」と語られるキリストの言葉は重くのしかかってきます。今日申し上げましたように、自分を顧みてみますとそれができないことを覚えるからです。どうしたら良いのか、どうしたら神の救いに与かることができるのかと思わされるのです。あなたの仰っていることをどうしても完遂することができませんという思いしか起こらないのです。
しかしながら、そのように罪に囚われ、死の力に翻弄されている私たちの命を救い出すためにキリストは来られるのです。本来であれば、意思が弱く、信仰も弱く、神の御前に罪を犯し、神に対して疑いを持ってしまい、救いに値しない私たち一人ひとりです。しかしながら、神はそのような私たちの許へ御子キリストを遣わされました。
何故なのか。それは、私たちを愛してくださっているからです。私たちの誰も罪の力、死の力によって滅びることを神ご自身が強く望んでいないのです。むしろ、神は私たち一人ひとりが生きることを望んでおられます。この愛の徴が御子キリストのご降誕の出来事なのです。そして、このことを未来永劫に伝えるために神は御ことばを通して私たちに伝えてくださっています。
すなわち、御ことばとは、ただたんに私たちが履いて捨てているような言葉とは違うのです。だからキリストは「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」と語るのです。それは言い換えるならば「どのようなことが起ころうともわたしの愛は滅びない」という宣言であり、私たちを貶めるあらゆる力から守り抜き、あなたを生かす力の源である愛を与えるという御心を示すのです。
この御心に触れたからこそ私たちは悔い改めていくのです。私はたしかに罪の力に囚われている。死の力に抗うことができずにいる。そういう自分をしっかりと見つめながら、この罪と死が覆う暗い底へとキリストが来てくださっている。
そうであるならば、神が私を救い出してくださっているという真理に私の命を委ね、素直に、率直に、正直に自分の弱さ、罪深さを告白し、神の罪と死の力に対する勝利の出来事を信じ、従っていく決断をしていきたいと思うのです。
神の愛、罪の赦しという私たちの命の在り方をすっかりと変える出来事が迫っています。その備えの時として待降節を過ごしています。クリスマスは、御子キリストがお生まれになったということでお祭り騒ぎをするのではありません。クリスマスの真の恵み、喜びを受けるために必要なこととして私たちは「悔い改め」をしっかりとしていきながら、「いつも目を覚まして祈りなさい」と語られるキリストの御ことばに従っていくことができるように世の事柄、思い煩いに意識を取られるのではなく、神の愛に心を向け、神の御ことばに耳を傾け聴いていきたいと思うのです。
そして、「4主よ、あなたの道をわたしに示し/あなたに従う道を教えてください。5あなたのまことにわたしを導いてください。教えてください/あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています。」と詩編25編の詩編作者が願い祈っている言葉を私たちの祈りとして歩んでいきたいと思うのです。
「目を覚まして祈りなさい」、すなわち、神の御ことばに従い、神の御ことばと主の道を歩むことができるようにという切なる祈りをもって御子ご降誕の時に備えてまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
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