段々と寒くなってきましたが、それにつれて紅葉も深まってまいりました。
今週のどこかのタイミングで紅葉狩りに行けたらなと思っています。
秋は読書、味覚、芸術など楽しみが沢山ありますね。
どうぞそれぞれに秋を楽しんでいただけたらと思います。
YouTube配信ですが、配信中にアクシデントが起こり動画が残せませんでした。
申し訳ございませんが、説教の掲載のみとさせていただきます。
この日は、全聖徒主日として当教会で先に召された兄弟姉妹を覚えてお祈りをささげました。
牧師
全聖徒主日
聖書日課
第一日課 イザヤ書 25章6節‐9節 (旧)1098頁
25:6万軍の主はこの山で祝宴を開き/すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。
7主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし
8死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。
9その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。
第二日課 ヨハネの黙示録 21章1節‐6節a (新)477頁
新しい天と新しい地
21:1わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。2更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。3そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、4彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」5すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。6また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。
福音書 ヨハネによる福音書 11章32節‐44節 (新)189頁
11:32マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。33イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、34言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。35イエスは涙を流された。36ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。37しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
イエス、ラザロを生き返らせる
38イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。39イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。40イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。41人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。42わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」43こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。44すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
【説教】死の石を取り除く
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
今日は全聖徒の主日礼拝です。先に召されたすべての先達を覚えています。先に召された方々も、そして今、神の御前に集う私たち一人ひとりも神の豊かな養いと平安の内にあることを覚えて参りたいと思います。
さて、今日のために与えられている福音は、ラザロの死の出来事です。キリストは、この場面で二度「心に憤りを覚え」ておられます。この御ことばについて私なりに原典のギリシャ語聖書から訳しなおしてみますと「霊に苦しみを深く覚えて」となります。「心」となると何か感情的な事柄のように見えますが、この時にキリストが覚えられた憤りは苦しみであり、しかもそれは霊を揺さぶるほど、すなわちキリストのすべてが揺るがされるほどの苦しみだったのです。
では何にそのような苦しみ、憤りを覚えられたのでしょうか。それは、「死」そのものです。「死」という事柄は、私たち人間にとっては避けて通ることのできない不治の病です。誰もが死ぬと私たちは知っていますし、それが事故であれ、病気であれ、天寿を全うした老衰であれ、同じ様相をもって死は誰にでも平等に訪れます。
そして、私たちはこの死という病を恐れます。この病にすべての力を奪われ、何人も太刀打ちできないと考えてしまいます。
死はすべてを終わらせ、すべての人を恐れに憑りつかせ、すべての人の限界として立ちはだかっています。
この時、ラザロの死に対してマリアは、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と語ります。この時に示されている「死ななかった」という死に対する否定の言葉は「決して死ななかった」というような意味合いがあります。
つまり、病で苦しんでいる段階、死の直前であればキリストが来て奇跡を起こしてくれたかもしれない。けれどももう愛する兄弟は死んでしまった。もしキリストがあと3日早く来てくれていれば死ななくて済んだかもしれない。そういう自責とも後悔とも取れる感情がマリアの中に渦巻いていました。どんなに多くの奇跡を起こしたキリストでも「死」の高くそびえる壁、誰も打ち勝つことのできない病には勝てないという思惟に囚われて居る姿を露わにします。
いずれにしても「死」という病は、私たちの心に暗い影を落とし、憑りつき、涙を与え、絶望に追い込みます。親しい家族や友人、同僚など私たちは生きているうちに多くの死を目の当たりにします。そのたびに、深い悲しみを覚えます。目に涙を湛えます。死の病が私たちの前に立ちふさがっているからです。
しかしながら、キリストはこのラザロの死において示された事柄はラザロを生き返らせるという驚くべき御業でした。死から四日も経って、誰もがもうラザロとは会うことができないという悲しみに囚われ、嘆き悲しみ、後悔に囚われている人々を前にして、このラザロの死が「あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるため」に必要な神の出来事としてくださったのです。
それは私たちが「死」が不治の病ではなく、この力に打ち勝つ方が私たちのところに遣わされているという真実を見させ、私たちが神を信じる信仰によって「死」という不治の病が克服されているという福音の恵みと平安の内に歩んでいくためなのです。そして、それは主の復活の信仰に通じます。キリストもまた死なれました。この時も人々は深い悲しみと絶望に囚われます。しかしながら、キリストは三日目に復活し、私たちの前に現れてくださいました。
「あなたたちに平和があるように」という福音をもって死の病の力に囚われている弟子たちの前に現れ、その御傷とを示してくださいました。キリストによって死が滅ぼされ、このキリストの復活を信じる信仰が私たちを死の病から救い出し、平安、平和を与えてくださる。私の目の涙を拭い、死の石によって閉ざされていた墓は空とされるのです。
死から「出てきなさい」とキリストは語られています。これは死に伏したラザロだけでなく、生きる者に対しても与えられている呼びかけです。死の暗闇、死の限界、死の壁、重く閉ざす死の石、ありとあらゆる障害は取り除かれている、そこから出て光の内に歩みなさい、その光の中にあなたの命があるという呼びかけであり、福音です。
私たちは今、光の中にあるのです。肉的には分かたれているかもしれません。しかし、霊は、魂は常に生きている、なぜならばキリストの復活によって私たちに憑りつく不治の病は取り去られたからです。この希望の内に私たちの先達は居て、いま主の祝宴に与かっています。そして、私たちも招かれていていつかそこに与かる日が与えられています。
「死」という不治の病はキリストの復活によって滅ぼされています。死は終わりではありません。むしろ初めの出来事です。死があったから復活の恵みは鮮やかに輝きだし、私たちを照らすからです。新しい命の始まりです。死が終わりではないことを信じる信仰によって歩んでまいりましょう。
そして、この信仰の内にすべての人が神と共に居て、深い慰めと癒し、平安を与えられていることを覚えてまいりたいと思います。私たちは主の復活の恵みによっていまも、これからも生き続けているのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
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