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  • ltnishinomiya

11月8日(聖霊降臨後第23主日)の礼拝と説教

主の御名を賛美いたします。

すっかり朝晩が冷たくなり、寝起きが辛くなってきました。

夙川の遊歩道を歩く人たちもだんだんと厚着になってきていますし、落ち葉も道を埋めるようになってきました。 明日も10時30分から短縮式文で礼拝を執り行います。

ご一緒に神様の恵みに与かってまいりましょう。 出席適わない方は、いつも通りフェイスブックで配信を致します。どうぞそれぞれのところで神様の恵みに与かりましょう。 https://www.facebook.com/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%AB%E8%A5%BF%E5%AE%AE%E6%95%99%E4%BC%9A-284764385794229 また、礼拝後は教会のYouTube(ユーチューブ)に掲載しておきますので、そちらからでもいつでもご覧になれます。以下のリンクを選択してください。 https://www.youtube.com/channel/UCzbeaT4xiANne1wCKYqhUzg?view_as=subscriber

どうぞ皆さんの心身の健康が守られますようにお祈りしています。

牧師


礼拝式文 聖霊降臨後第23主日

1.    前奏 (神様への思いを向ける準備をいたしましょう) 2.    祝福の挨拶 司式)父と子と聖霊のみ名によって  会衆)アーメン 3.    キリエ  司式)主よ、憐れんでください。      会衆)主よ、憐れんでください。 司式)キリストよ、憐れんでください。  会衆)キリストよ、憐れんでください。 司式)主よ、憐れんでください。      会衆)主よ、憐れんでください。 讃美唱 詩編70編 70:1【指揮者によって。ダビデの詩。記念。】 2神よ、速やかにわたしを救い出し/主よ、わたしを助けてください。 3わたしの命をねらう者が/恥を受け、嘲られ/わたしを災いに遭わせようと望む者が/侮られて退き 4はやし立てる者が/恥を受けて逃げ去りますように。 5あなたを尋ね求める人が/あなたによって喜び祝い、楽しみ/御救いを愛する人が/神をあがめよといつも歌いますように。 6神よ、わたしは貧しく、身を屈めています。速やかにわたしを訪れてください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。主よ、遅れないでください。 司式)父、み子、聖霊の神にみ栄えあれ、 会衆)初めも今ものちも、世々に絶えず。アーメン 4.    主日の祈り 全員)正義と愛の神様、あなたは、御子の言葉で私たちの生涯を照らしてくださいます。なくてはならないその光を受けて、私たちが他の人々の必要にも気づくことができますように。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン 5.    聖書朗読 第一日課 アモス書 5章18節‐24節 (旧)1435頁 白い衣を着た大群衆 5:18災いだ、主の日を待ち望む者は。主の日はお前たちにとって何か。それは闇であって、光ではない。 19人が獅子の前から逃れても熊に会い/家にたどりついても/壁に手で寄りかかると/その手を蛇にかまれるようなものだ。 20主の日は闇であって、光ではない。暗闇であって、輝きではない。 祭りにまさる正義 21わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りも喜ばない。 22たとえ、焼き尽くす献げ物をわたしにささげても/穀物の献げ物をささげても/わたしは受け入れず/肥えた動物の献げ物も顧みない。 23お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。竪琴の音もわたしは聞かない。 24正義を洪水のように/恵みの業を大河のように/尽きることなく流れさせよ。 第二日課 テサロニケの信徒への手紙一 4章13節‐18節 (新)377頁 主は来られる 4:13兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。14イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。 15主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。16すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、17それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。18ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。 福音書 マタイによる福音書 25章1節‐13節 (新)49頁 「十人のおとめ」のたとえ 25:1「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。2そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。3愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。4賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。5ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。6真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。7そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。8愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』9賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』10愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。11その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。12しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。13だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。 6.    讃美歌 172番


7.    説教 「終わりが来てもいいように」 竹田 大地牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

教会暦も今日の主日と合わせて残すところ三週となっています。教会暦の終わりに向かうにつれて、聖書日課全体は、終わり、神学的言葉では「終末」について語られています。今日与えられている御ことばもこの終末について神が私たちに与えてくださった御ことばです。この与えられている御ことばから終末への備えについて神が何を語っておられるのか聴いてまいりましょう。

終末とは、この世の終わりであり完成の時を示します。そして、その時に神の裁きが行われると聖書は語っています。今日のアモス書の語ることは、最後に神の救いについて語られますが、それまでは徹底的に人が神に対して罪を犯し、神が怒っておられることを伝えます。彼はユダの生まれでありながら、北イスラエルへと遣わされ、人々に滅びを語るという過酷な預言者としての歩みを歩まねばならない人でした。

いずれにしても、アモスが今日与えられている御ことばにおいて糾弾していることは、祭儀の否定です。しかしながら、それは祭儀が悪なのではなく、それを成す人に悪を見いだすのです。ここで糾弾されていることは、人の神に対する思いが関係します。それは、祭儀がいつの間にか人の思いや願いが優先されていき、神の御心を無視するようになったからです。

イスラエルの民の信仰の教訓として今も覚えられていることは、出エジプトの出来事です。この出来事は、何に依るかというならば徹底的な神の導きと恵みによって守られ、40年という年月、荒野を巡り歩いてきたということです。自分の力や知恵ではなく、出エジプトにおいて重要なことは、神への徹底的な信頼です。この信頼、すなわち神への信仰がイスラエルの民を救い出し、約束の地へと導きました。

しかし、イスラエルはそのうちに、人間が神を試み、これだけ拝んでいるから、これだけ献げているから、これだけ賛美しているから、神であるあなたの守りは自分たちのものであるという人間的な願望や、人間の尺度による充足をえ、祭儀を聖なること、恵みの出来事から、地へと落としたのです。

生きるのは神の行いであって、人の行いではありません。ですから私たちがどんなに善いと思える行いや言葉を並べたところで罪人でしかありません。私たちに唯一示されている道は神を命の中心に置くということです。それは神への全幅の信頼であり、神こそが私の命を真に愛し、滅びることを良しとせず救いへと導く方であるという信仰に立つということです。

そのような預言者のメッセージを聴きながら福音の御ことばに眼を向けてみますと、十人のおとめは皆、花婿の到来、すなわち終末の到来を神の光を携えながら待ち望んでいました。しかしながら、おとめたちは眠りこけてしまいます。眠っているうちに花婿が到着し、油の用意をしていたおとめは婚宴に与かり、油を用意していなかったおとめは扉の外に締め出されてしまいました。

すべてのおとめは眠ってしまう。すなわち、眠りとはパウロが語るように死を顕します。すなわち、死に人は服する者であることを顕しています。しかしながら、その中で賢いおとめたちが婚宴に与かれたのは、油を用意していたからです。私たちの心の内でも、私たちの罪のゆえに神の光は消え入りそうになります。

しかしながら、賢いおとめが油を用意していたように、それはすなわち神の光を輝かすために携えていたものがあるのです。つまりこの油は、神の御ことばです。神の御ことばに信頼し、それを携え生きていた。自分は眠りこけて、光を絶やしそうになってしまう者であること、神の愛に生かされ、命を照らされながら罪深い者であるがゆえに、この光を絶やしそうになってしまう。

そういう自分を自覚しながらも、この光を絶やさないようにただただ神の御ことば、御心に全幅の信頼を寄せ、他の何かではなく、神に全てを委ね、生きる姿を賢いおとめに見るのです。

ですから、私たちは改めて終末、神の裁きの時を見つめる時、自分の罪深さを神に正直に告白しながら、かつて出エジプトのイスラエルの民の歴史に見たように、神への信仰こそが、この終末の出来事の後に神の御国に生き、はかり知ることのできない喜びと恵みに満ちた祝宴に与かる唯一の道であることを覚えたいと思うのです。

今日の主日の説教には「終わりが来てもいいように」という説教題を付しましたが、私たちはいつ「終わりが来てもいいように」ただ神への信仰に生きる。神の御ことば、御心を中心として生きる。神が救いへと導き、罪深い私を愛するがゆえに赦し、贖い、神の裁きの後の喜ばしい祝宴へと招いてくださっていることを信じるのみなのです。

だからこそ、もはや祭儀は私のためではなく、神が救いへと招く聖なる時であり、恵みの時です。私が献げるのではなく、神が私の罪の赦しのために御子を献げてくださったことのしるしとなり、まさにこの献げ物を神は喜び、「正義を洪水のように/恵みの業の大河のように/尽きることなく流されせ」るのです。つまり終わりの祝宴の幸いを私たちは既に今この時受け取っているのです。

未だ訪れていない終わりへの備えとして神中心の命を生きることと同時に既にキリストの十字架を通してその祝宴の幸いに与かっている。この未だにと既にを経験しています。この神の御手に導かれている命であることを覚えながら、神の御ことばと御心を中心にして、神への信仰によって歩んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 8.    信仰告白 司式)使徒信条によって、信仰の告白を共にしましょう。 全員)天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。 そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。 聖霊を私は信じます。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。(アーメン) 9.    献金 10. 教会の祈り 11. 主の祈り 司式)祈りましょう 全員)天の父よ。 み名があがめられますように。 み国が来ますように。 み心が天で行なわれるように、地上でも行なわれますように。 私たちに今日もこの日の糧をお与えください。 私たちに罪を犯した者を赦しましたから、 私たちの犯した罪をお赦しください。 私たちを誘惑から導き出して、悪からお救いください。 (み国も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです。) (アーメン) 12. 祝福 司式)主があなたを祝福し、あなたを守られます。 主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたに恵みを与えられます。 主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わります。 父と子と聖霊のみ名によって。 会衆)アーメン、アーメン、アーメン

13. 後奏

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