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12月1日の礼拝説教

  • ltnishinomiya
  • 2019年12月3日
  • 読了時間: 7分

「目を覚まして待つ」

主日の祈り

主イエス・キリスト、力を奮って来てください。迫り来る罪の危険から憐れみをもって守り、救いの道を照らしてください。父と聖霊とともに、あなたは永遠に唯一の主です。アーメン


第1日課:イザヤ書 2章1‐5節(旧)1063頁

2:1アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。2終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい3多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。4主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。5ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。


第2日課:ローマの信徒への手紙 13章11‐14節(新)293頁

13:11更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。12夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。13日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、14主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。


詩編唱 122編

主の家に行こう、と人々が言ったとき、

わたしはうれしかった。

エルサレムよ、

あなたの城門の中に、わたしたちの足は立っている。

エルサレム、都として建てられた町。

そこに、すべては結び合い、そこに、すべての部族、主の部族は上って来る。

主のみ名に感謝をささげるのはイスラエルの定め。

そこにこそ、裁きの王座が、ダビデの家の王座が据えられている。

エルサレムの平和を求めよう。

「あなたを愛する人々に平安があるように。

あなたの城壁のうちに平和があるように。

あなたの城壁のうちに平安があるように。」

わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。

「あなたのうちに平和があるように。」

わたしは願おう、わたしたちの神、主の家のために。

「あなたに幸いがあるように。」


福音書:マタイによる福音書 24章36‐44節(新)48頁

24:36「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。37人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。38洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。39そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。40そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。41二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。42だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。43このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。44だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」


【説教】

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


 待降節に入りました。教会暦の最初の時、主イエス・キリストご降誕を待ち望む時を私たちは過ごしていきます。この時季は、何となく心も浮ついて、うきうきした気分になります。しかしながら、真の待降節の在り方とは、そういうような姿勢で臨むことなのでしょうか。カトリック教会、聖公会、ルーテルと言った教会は教会暦という独特のカレンダーが存在し、それぞれの主日には典礼色が定められています。本日から始まる待降節の教会暦の色は「紫」です。紫は、「王の色」であると同時に「悔い改め」を表す色として教会で用いられていきました。


 ですから、私たちがこの待降節を過ごすにあたって大切なことは、私たちの王であるキリストを仰ぎ見ながら、その神である方の御前に悔い改めの日々として過ごすことを心に留めながら過ごすのです。そういう意味で私たちは街のイルミネーション、絢爛豪華なクリスマスツリーに目を奪われていくのではなく、自分自身、この社会、世の中にある私たちの罪について見つめ、悔い改め、主イエスのご降誕に備えて過ごすのです。


 イザヤの時代、世は背信、弱者の窮乏、政治的な混乱状態でした。民は神から離れ、神の御心に沿って歩むことを止めてしまいました。イザヤが登場した時代の王であるウジヤは始め王位に就くと、神の御心に聴き従い、「その名声は遠くにまで及んだ」(歴上26:15)とありますが、勢力を増すごとに思い上がり、その最後は重い皮膚病に悩まされ死んでいきました。そして、その病のゆえに王の墓に入ることができず、その近くの野に葬られたとあります。


 いずれにしてもイザヤの時代、世は戦乱とその影響による政治的混乱、困窮者が蔓延っており、しかも神殿ではイスラエルの神ではなく、バアルの神が祀られ、その像を造り、拝んでいたとありますから、宗教、信仰の危機がイスラエル全体を覆っていたのです。そして、この事が最大の躓きであり、罪でした。「わたしの他に神が在ってはならない」「刻んだ像を造ってはならない」という十戒の最も重要な戒めを破り、他の神に服していることによって、霊的にも危機的な状況にあったのです。


 この信仰的な危機は、命の危機でもあります。神は熱情の神でもあります。民の背信をそのままにはしてはおきません。裁き主でもあるのです。翻って私たち一人ひとりが自分自身を、そしてこの世界を見回してみますと、決して主の語られる平和な状況ではありません。光に溢れているとも言えません。パウロが語るように闇の行いが蔓延り、欲望を満足させようとしている人々がたくさん居ます。

 そして、私たち自身もその事がらに対して何もしないでいる、気が付かない者の一人です。


 それは、主イエスが「何も気がつかなかった。」と指摘しているようにその時が訪れるまで私たちは気づけないのです。具体的にミサイルやけん銃、ナイフという凶器だけでなく、今はインターネットが普及し仮想的な場所でも人が人を傷つけ、傷つけられています。教育の現場でも、SNSの発展により、虐めなどの問題も見えにくくなっていると聞きますし、また世帯間の交流が希薄になり、隣近所の窮乏や苦しみに鈍くなってしまっているとも聞きます。そうして悲惨な事件、悲しい事件が毎日のようにニュースで流されます。


 私たちは、そのような状況下で生きているという現実の中にある深い自覚を持つことは大切なことです。世の中の闇を見つめ、そして自分自身がその闇に気づかないうちに闇の中を歩いている。神でないものをたよりとしてしまっている自分、自分の罪の部分、闇を見つめずに救いの光の恵み、平安、喜びを本当に受け取れるでしょうか。


 「目を覚ましていなさい」という主イエスの御ことばは、そういう自分自身を見つめなさいということです。なぜならばこの御ことばをもう一つの意味から訳すならば「見つめていなさい」となります。見つめる先には、私たち一人ひとりの罪、この世の闇がまずあります。そして、その先にそれらを打ち破り、滅ぼす神の救いの出来事十字架が在るのです。


 ですから、主イエスが「目を覚ましていなさい」と教える時、罪と神の救いを見つめ続けて生きる歩だということです。主イエスの誕生という喜ばしい出来事にまず私たちは目を奪われます。心を持って行かれます。しかしながら、その喜びが大きいのは、私たち一人ひとりの罪、世の闇の深い暗さがあるからです。それを見つめずして、主イエスご降誕の喜びはありません。


 その喜びの備えとして、自分の罪を神の御前に悔い改めていく日々としていきたいと思うのです。救いがたい私、本来であれば神の恵みに与るべき何の資格もない私、神の御心に聴くことができずにいる私、様々な罪の姿をそのままに神に差し出し、神の憐れみと慈しみに委ねていくことこそが、この待降節においてあるべき姿です。


 煌びやかなイルミネーション、クリスマスツリー、クリスマスの出来事を見つめる前に、私たちが成すべきことが何なのかイエスは「目を覚ましていなさい」「見つめていなさい」と教えています。この御ことばを、喜びの日まで心に留めつつ、聖壇布の紫、教会暦の色の意味も合わせて祈りと黙想をもって歩んでまいりましょう。


 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

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