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ltnishinomiya

12月19日(待降節第4・降誕主日)の説教



聖書日課

第一日課 ミカ書 5章1節‐4節a (旧)1454頁 

5:1エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。

2まことに、主は彼らを捨ておかれる/産婦が子を産むときまで。そのとき、彼の兄弟の残りの者は/イスラエルの子らのもとに帰って来る。

3彼は立って、群れを養う/主の力、神である主の御名の威厳をもって。彼らは安らかに住まう。今や、彼は大いなる者となり/その力が地の果てに及ぶからだ。

4a彼こそ、まさしく平和である。


第二日課 ヘブライ人への手紙 10章5節‐10節 (新)412頁

10:5それで、キリストは世に来られたときに、次のように言われたのです。

「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、/むしろ、わたしのために/体を備えてくださいました。

6あなたは、焼き尽くす献げ物や/罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。

7そこで、わたしは言いました。『御覧ください。わたしは来ました。聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、/神よ、御心を行うために。』」

8ここで、まず、「あなたはいけにえ、献げ物、焼き尽くす献げ物、罪を贖うためのいけにえ、つまり律法に従って献げられるものを望みもせず、好まれもしなかった」と言われ、9次いで、「御覧ください。わたしは来ました。御心を行うために」と言われています。第二のものを立てるために、最初のものを廃止されるのです。10この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。


福 音 書 ルカによる福音書 1章39節‐55節 (新)100頁

マリア、エリサベトを訪ねる

1:39そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。40そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。41マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、42声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。43わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。44あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。45主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」


マリアの賛歌

46そこで、マリアは言った。

「わたしの魂は主をあがめ、

47わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。

48身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、

49力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、

50その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。

51主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、

52権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、

53飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。

54その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、

55わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」


【黙想】



【説教】最も卑しいところに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


本日与えられている御ことばはいわゆるマグニフィカートと云われているマリアの讃歌です。待降節第4の主日、そして一足早いですが降誕主日として礼拝に与かるにあたって相応しい御ことばが与えられたと思います。イエスの母のマリアの神に対する賛美の声からクリスマスの出来事を通して示される神の御心にご一緒に耳を傾けてまいりたいと思います。


さて、私たちは今どのような地平に立っているのでしょうか。これを一人ひとりが顧みていくことが先ずこの御ことばに示される御心を真に知る上で重要だと思うのです。

そのヒントとして第一日課にある「お前はユダの氏族の中でいと小さき者。」という預言の言葉に着目したいと思います。ここに書かれている「小さき」とは字義通り小さいという意味があります。この言葉は他にイザヤ書60章22節に「最も小さいものも千人となり/最も弱いものも強大な国となる。」という預言においても用いられている言葉です。


両方の預言で共通することは、神の救いが強大な力あるものによってではなく、小さくされているものを通して示される。いと小さきものが神によって大いなるものとされ神の救いの御業を示すということを表しています。他のいかなる業も神の救いを示さないということです。


ですから、私たちが神の救いの御業、主なるキリスト・イエスのご降誕を本当に喜ぶためには、自分自身が如何なるものと比べても卑しく、貧しいことを感得していなければならないのです。

その意味においてマリアの讃歌はこのことを豊かに表していますし、自分が貧しく、卑しい者であることを感得せしめる道についても示しています。


と言うのは、私たちは残念ながら自分が卑しく、貧しい者だとは自覚できないからです。ではどうしたら良いのか、それは「身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださった」という言葉に示されているように、神の目は低きにあり、貧しく、侮られ、惨めにされ、弱くされ、差別され、迫害の内にあるもの、即ちこの世の最も低いところに目を注がれるからです。神は最も高いところに居ますから、上を見上げることはありませんし、また神に並ぶ者も居ないのですから横に目をやることもありません。


神の目、視線はいつも下に向けられている。しかも、それは最も低いところに向けられているのです。この神の目が注がれていることを私たちは先ず経験していくのです。そこに神のあらゆる善き業が働き、示され、聖霊によって私たちは、本当に卑しく、貧しい者であることを知るのです。


これは人間自身によっては為すことはできません。なぜならば、先ほど神の視線について申し上げましたが、人間は上を見るからです。もっと良い暮らし、もっと多くの富、もっと多くの力、権威を得ようとし、低くされている人々、卑しい人々、病人を遠ざけてしまうからです。誰もそこに行きたいなどとは望みません。むしろそこに居ることを恥とさえ思っています。


しかしながら、この人間の真実に聖霊を通して気づかされるとき、神の視線がこの私に向けられているということを知るのです。神の愛が私たちに向けられている。取るに足らない卑賎な罪深い私に神が憐みをかけてくださっている。この真実にマリアは心からの喜びと神への畏れを抱いたのです。


私たちはこのマリアの受胎の出来事、そしてクリスマスの出来事を通して神の救いの御業を経験し、体験するのです。私たちは、私たち自身ではこれを成すことはできません。なぜならば、神がこの善き知らせ、恵み、平安、愛、憐みを隠してしまえば誰もそれを得ることも、経験することも、体験することもできないからです。


その場合にはただひたすらに「いつまでですか」と多くの古の詩編作者や預言者が神に投げかけた祈りと願いを求め続けるほかないでしょう。けれども今やこのマリアの受胎の出来事、またこの賛歌を通して、神の愛と憐みと恵みと平安、つまりすべての善いものが神によって示されていることを私たちは聴き、そして私たち自身もマリアと同様に神の御救いの業を喜び、讃美の歌を歌わずにはいられなくなるのです。


本日の讃美唱にある「4神よ、わたしたちを連れ帰り/御顔の光を輝かせ/わたしたちをお救いください。」という願いが神に聞き入れられたのです。しかしながら、この祈りにも示されているように、神を窮している時にもこの信仰者は神がそこに居られることを信じています。この祈りを聞き入れてくださる神が在ることを聖霊を通して与えられる信仰によって確信しているのです。


すなわち、私たちは窮乏している時も、満たされている時も、いつも大いなる神の救いの御業の内に置かれている存在だということです。いい時にだけ神を信じ感謝するのであれば、それは神を見るのではなく与えられている財産を見ているだけで神を見ていません。窮している時にだけ神を求めるのであれば、それは神を試すことであり真実の信仰ではありません。


真実の聖霊による信仰とは有していようとも、失っていようとも神の救いが在る、すなわち神がいつも私に目を注ぎ、見つめ、共に居てくださるということを知るのです。マリアは正に自分が処女でありながら御子イエスをその腹に宿した時、罪人となりました。と同時に、聖霊によってそれが神から賜った救いのしるしであり、神の大いなる御手が自分自身に臨んでいるという恵みも与えられました。


自分が婚姻前に妊娠したことによって罪人となった最も低い時も、神の救いの御手を経験した喜びの時も彼女の神への信仰、神の御救いが向けられている確信は変わりませんでした。これこそが真実で誠実な神への信仰であり、真に救いを救いとして受け入れる相応しい在り方なのです。御子ご降誕を前にして私たちはこの真実で誠実な信仰によってこそ生かされることを覚えていきたいと思うのです。


自分を高く見積もったり、上にあろうとするのではなく、真に罪深く、最も低きに居ることをしっかりと心に刻みながら、それに絶望するのではなく、この最も低きところ、卑しい私に神の眼差しが注がれている。そして、その眼差しにはありとあらゆる善が在ることを覚えていきたいと思います。

いい時も、悪い時もいつも神が在り、生きて働いてくださっていることを覚え、神の善い力が私たちの内で働き讃美せずにはいられないという経験、体験をしたいと思うのです。


その源である御子イエスが与えられました。救いのしるし、愛のしるし、憐みのしるし、すべての神の善きものを示したもう方が私たちの許に来られたのです。神の愛は隠されているのではなく、示されています。すべての人を喜びに溢れさせます。平安で満ちたらせてくださいます。

この神の御救いの働きに対する私たちの応答である神への讃歌が、私たちの宣教の声となり、働きとなっていきます。クリスマスの真実の喜びを私たちは宣べ伝えていきたいと思うのです。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

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