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  • ltnishinomiya

12月22日の説教

「神様が私たちと共におられる」

主日の祈り

主イエス・キリスト、力を奮って来てください。溢れる恵みの力によって信じることを妨げる罪から解き放ち、いつもあなたの約束を受け入れることができるようにしてください。父と聖霊とともに、あなたは永遠に唯一の主です。アーメン


詩編唱 詩編80編2~8節&18~20節

イスラエルを養う方、ヨセフを羊の群れのように導かれる方よ。

御耳を傾けてください。

ケルビムの上に座し、顕現してください。

エフライム、ベニヤミン、マナセの前に。

目覚めて御力を振るい、

わたしたちを救うために来てください。

神よ、わたしたちを連れ帰り

御顔の光を輝かせて、わたしたちをお救いください。

万軍の神、主よ、あなたの民は祈っています。

いつまで怒りの煙をはき続けられるのですか。

あなたは涙のパンをわたしたちに食べさせ、

なお、三倍の涙を飲ませられます。

わたしたちは近隣の民のいさかいの的とされ、

敵はそれを嘲笑います。

万軍の神よ、わたしたちを連れ帰り、

御顔の光を輝かせて、わたしたちをお救いください。

御手があなたの右に立つ人の上にあり

御自分のために強められた人の子の上にありますように。

わたしたちはあなたを離れません。

命を得させ、御名を呼ばせてください。

万軍の神、主よ、わたしたちを連れ帰り、

御顔の光を輝かせて、わたしたちをお救いください。


本日の聖書日課

第1日課:イザヤ書 7章10‐16節(旧)1071頁

7:10主は更にアハズに向かって言われた。

11「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」

12しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」

13イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。

14それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。

15災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで/彼は凝乳と蜂蜜を食べ物とする。

16その子が災い(悪)を退け、幸い(善)を選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる。


第2日課:ローマの信徒への手紙 1章1‐7節(新)273頁

1:1キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、――2この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、3御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、4聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。5わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。6この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。――7神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。


福音書:マタイによる福音書 1章18‐25節(新)1頁

1:18イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。19夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。20このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。21マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」22このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。23「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。24ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、25男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。



【説教】

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


 待降節第4の日を迎えました。アドヴェントクランツに4つ目の火が灯り、明後日にはクリスマスを控え、いよいよ救い主イエスの誕生が近いことを思い、喜びの時が近づいていることを思わずにいられません。今日の礼拝の後には、そのことを覚えて祝会を皆さんといたします。さて、今日のために与えられた御ことばは、イエスの父ヨセフに起こった出来事を通して主イエスの誕生の福音に聴いてまいります。ひと時の間、神の御声に耳を傾け、救い主誕生の恵みに響く福音を味わってまいりましょう。


 さて、ヨセフは「正しい人であった」とあります。この言葉はいわゆる「義」という意味の言葉です。その正しさはどこから来ていたのでしょうか。その後の彼の「ひそかに縁を切ろうと決心した」という思いへ至らせたことから、それは律法的な観点からとらえる場合に「正しい人」であったということなのではないかと思うのです。彼は律法に忠実だった、故に「正しい人」という形容詞が付けられていたのではないかと思います。


 そのような彼を悩ましたのがマリアの懐妊でした。何故そのような悩みを抱いたかというならば、婚姻前の妊娠発覚は、律法に照らすならば姦淫の罪を犯したことになり、石打の刑が相当であると考えられていたからです。ユダヤ教には死刑が存在しませんでしたが、石打の刑は死刑と同等の扱いでしたし、実際に町を曳き回され、町中の人々から石を投げられれば死ぬことだってあるでしょうから、命の保証はありません。ヨセフの義さの判断は、あくまでも律法です。それを参照するかぎりにおいて許嫁のマリアがそのような刑に処されることに大いに悩んだに違いないのです。そして、それは即ち自分が正しくあれなくなってしまうという現実と直面しなければならないということです。


 その悩みの源には恐れがありました。許嫁の命が取られるかもしれない恐れ、自分がこの出来事によって「正しい人」でなくなる恐れ、最悪この出来事をやり過ごすことができたとしてもマリアの胎の子を守り切れるだろうかという恐れ、他者の目の恐れとありとあらゆる恐れが彼を襲っていたと思うのです。


 恐れとは人間の誰もが抱える思いです。それは抱える病から死ぬかもしれない、この痛みがいつまで続くのだろう、病のゆえにしたいこともできないなど、病のゆえに抱えねばならない恐れ、仕事であれば失敗してはいけない、出世しなければいけないという思いなどからもたらされる恐れ、家族のことでもそうでしょう。子どもが何を考えているのか分からない、親の期待に応えられないのではないか、家族に問題を抱えている人が居れば、その人のゆえに私はどうなってしまうのだろうという恐れなど、私たちは様々な事がらを通して「恐れ」を抱く者なのです。


 だからこそ「恐れ」から逃れたいと思います。そして、恐れの根本にあるのは、何かというならば存在の危機です。その事がらのゆえに自分自身の心身が脅かされ、普通の生活もままならなくなってしまう、その恐れが襲ってきて私という存在を消し去ろうとする、傷つけようとする、死に追いやろうとする。そういう存在の危機が恐れの根源にありますし、恐れの驚異的な力に私たちは成す術もなく、立ちすくんでしまう。うずくまってしまうのです。ヨセフはまさにそのような状況にあったのです。許嫁のマリアもまたいくら聖霊によって妊娠したという神の人知を超えた出来事を受け入れながらも恐れがあったに違いないのです。二人は、婚姻前の八方塞がりで、成す術もなく、恐れに取りつかれていたということです。


 そのようなヨセフに御使いは現われて「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。21マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」という福音を告げ知らせるのです。続けて、この子どもは主が語りたもう預言を成就される方であり「インマヌエル」と呼ばれる方であると御使いは告げるのです。


 なぜ「恐れるな」と御使いは告げるのか。今恐れのただ中にあって、恐れに取りつかれているのに神は恐れるなと語られることの不条理を思わずにはいられません。当事者のヨセフにしてみればこの御使いの言葉のどこに福音が在るのかと思わされるのです。しかしそこに真理があります。神の救いは、人が不条理に立たされている所に、人が恐れを感じる所に、悲惨の中に神は顕れたのです。


 今日皆さんで交読した詩編の言葉の中に「万軍の神、主よ、わたしたちを連れ帰り、御顔の光を輝かせて、わたしたちをお救いください。」という祈りが謳われています。神の救いとは、そういう恐れのあるところ、不条理と思う所、悲惨さ、もう何も無いように思う所から、連れ帰ってくださるのです。


 「御顔の光を輝かせて」とありますように、主の光の届きそうにない所、そこには無いようなところに神の光が顕されることによって私たちは救われていくのです。

 神の御顔は隠されています。恐れ、不安、不条理などここに神などないと思われるところに私たちは生きねばなりません。それが世の常です。しかし、神は共におられる方であるというメッセージを私たちは福音から聴いています。御子の本質は、「共に在る方」であるということです。恐れの中、不条理の中、不安の中、悲惨の中であっても神は共に在るという福音が響いているからこそ、神は私たちに「恐れるな」と語るのです。


 恐れは在るのです。恐れを経験しなければならない命です。しかし、そこに独りではありません。たとえそのような状況でも「インマヌエル」である神が在り、私たちに向けて栄光を輝かせ、神が私たち一人ひとりをそこから「連れ帰って」くださる。間違いなく神の御許に生きる者としてくださるのです。私たちが正しくあったからではありません。信じ切れずに恐れを抱いてしまう者です。ヨセフの姿を通してそういう弱さを教えられます。その私を神はとらえ、救い出してくださるのです。


 そのしるしとしてイエスが与えられているのです。そして、「イエス・キリストのものとなるように召された」私たちが今生かされている。今、在る、今どこであろうと、どんな思いを抱えていようと生きているということは、キリストのものとなっている真実を、イエスが共に在るという真実を顕しているのです。


 神が共に在る恵みを今一度主のご降誕の出来事から覚えていきましょう。今、私が在ることが、「インマヌエル」である方と正に共に在る証しです。

 

 ですから、特別なこといりません。宣教をする上で、隣人に主を証しする上で、今、私がどんな状況でも在るということそれ自体が「インマヌエル」である神を証しすることになるのです。これからも主が共にあるようにという祈りをもって過ごしてまいりましょう。


 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

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