12月24日の説教
- ltnishinomiya
- 2019年12月28日
- 読了時間: 10分
「イエス様の誕生!喜びの讃美!」
主日の祈り
全能の神様、あなたはこの聖なる夜を真の光で輝かせてくださいました。地の上ではキリストの光の中を歩ませ、終わりの日には御子の栄光の輝きに目覚めさせてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
詩編唱 詩編96編
新しい歌を主に向かって歌え。
全地よ、主に向かって歌え。
主に向かって歌い、御名をたたえよ。
日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。
国々に主の栄光を語り伝えよ
諸国の民にその驚くべき御業を。
大いなる主、大いに賛美される主、
神々を超えて、最も畏るべき方。
諸国の民の神々はすべてむなしい。
主は天を造られ、御前には栄光と輝きがあり、聖所には力と輝きがある。
諸国の民よ、こぞって主に帰せよ。栄光と力を主に帰せよ。
御名の栄光を主に帰せよ。
供え物を携えて神の庭に入り、聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。
全地よ、御前におののけ。
国々にふれて言え、主こそ王と。世界は固く据えられ、決して揺らぐことがない。
主は諸国の民を公平に裁かれる。
天よ、喜び祝え、地よ、喜び躍れ。
海とそこに満ちるものよ、とどろけ。
野とそこにあるすべてのものよ、喜び勇め
森の木々よ、共に喜び歌え、主を迎えて。
主は来られる、地を裁くために来られる。
主は世界を正しく裁き、真実をもって諸国の民を裁かれる。
本日の聖書日課
第1日課:イザヤ書9章2節‐7節
9:2あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように/戦利品を分け合って楽しむように。3彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を/あなたはミディアンの日のように/折ってくださった。4地を踏み鳴らした兵士の靴/血にまみれた軍服はことごとく/火に投げ込まれ、焼き尽くされた。5ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。6ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。7主は御言葉をヤコブに対して送り/それはイスラエルにふりかかった。
第二日課:テトスへの手紙2章11節‐14節
2:11実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。12その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、13また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。14キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。
福音書:ルカによる福音書2章1節‐20節
2:1そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。2これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。3人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。4ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。5身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。6ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、7初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
8その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。9すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。10天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。12あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」13すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。14「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」15天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。16そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。17その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。18聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。19しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。20羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
クリスマスの喜びを覚えるこの夜、皆さんと共にイエス・キリストのご降誕を福音から聴き共にできることを感謝いたします。与えられている福音は、ルカ福音書からキリスト誕生の出来事を聴いています。与えられている御ことばを通して神が語り掛ける福音、まさに善きおとずれに耳を傾け、この喜びの真理を味わってまいりましょう。
以前に女性会のクリスマス会でもお話ししたことなのですが、この時代ローマを支配していたのは初代皇帝アウグストゥスでした。彼は、ローマの礎を築き、「PAX ROMANA」(ローマの平和)を築いた賢帝として歴史に語り継がれている皇帝です。しかしながら、実際のところ人びとの生活、特に属州といわれている支配された地域に住む人々は「平和」とは言い難い状況でした。イエスの時代のユダヤ地方も同様です。
ヘロデという異邦人がその地方一帯を支配していました。彼は、権力に対する欲の深い人物で知られていました。自分の権威を守るためであれば妻子を殺すことも厭わず、またマタイ福音書にはイエス誕生の出来事に恐れを抱き、二歳以下の男児を皆殺しにしたという出来事が伝えられています。そういう支配者の下で生きねばならない不安と恐れは非常なものがあったに違いありません。
ローマという強大な国の支配下にあって、「ローマの平和」という言葉が云われていましたが、その実態はそうではありませんでした。ある歴史家(タキトゥス)はローマのこの平和について「全人類の中でやつらだけが、世界の財貨を求めると同じ熱情でもって、世界の窮乏を欲している。彼らは破壊と、殺戮と、掠奪を、偽って『支配』と呼び、荒涼たる世界を作りあげたとき、それをごまかして『平和』と名づける。」(タキトゥス/国原吉之助訳『ゲルマニア/アグリコラ』1996 ちくま学芸文庫 p.189-190)と語っています。
「平和」の陰に破壊、殺戮、掠奪、窮乏が在ることをこの歴史家は言っているわけですが、まさに初めのクリスマスの出来事に際していたヨセフとマリア、羊飼いたちはこのことのただ中に生きねばならない人々でした。夫婦は、神の出来事とは言え婚姻前の妊娠という恐れと不安の中に、羊飼いたちは暗闇の中で主人の羊の管理をしなければならなかった状況にありました。
世はパクスロマーナと叫ばれていてもその実感などなかったに違いありません。平和と云われながら、平和ではないという矛盾を抱えて生きねばならない人々が居るということを私たちは教えられます。生きていても喜びも何もないと思わざるを得ない状況です。羊飼いが羊を管理することは当たり前であると考えられています。そのことに目を留めて感謝する人など居ません。省みられることのない人生を送らなければならないそういう人々でした。
その羊飼いたちにまず真の平和と喜びの訪れが告げられたのです。それは、取るに足らない、誰も顧みない人々、喜びを見出せずに生きねばならない人々、抑圧の中に生きて生きる意味を見出せない人々にこそ神の目が注がれているということを伝えるためです。
それは、命の意味、存在の意味とも言っていいかもしれませんが、その転換をもたらしました。
なぜならば、人は生きる意味を様々な事がらに見出そうとします。成果を出すことや、良い成績を残す事、財産を増やす事、偏差値の高い学校に入ること、家族を増やす事、どんな技術を持っているか、どれだけ人脈が広いかなど様々な評価基準がこの世には存在します。当然その基準に沿うことができなければ、その人自身の人間的な評価が下がっていきます。
羊飼いたちは、そのような評価基準からするならば誰も目を留めるような生業ではありません。むしろ誰も好きこのんでやりたいと思う職業じゃないでしょう。夜通し羊の世話をすることも、誰もよくやったなどと褒めてくれることは一生ないでしょう。きっと自分自身のことを報われているなどとも思えずに生きなければならない、諦めてしまっている状況だったと推測できます。
そこへ神の御使いは顕れたのです。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」という重要な知らせを、取るに足らない、つまらない、役立たずと思われていたような人々のもとに先ず告げられたということは、神の視線はそこに注がれているということです。
人の判断、評価が覆されたのです。というよりも、人の評価や判断が何の意味もないことを顕しているのです。なぜならば、人を造ったのは神です。神は、この人は私の役に立つから造るのではありません。能力が素晴らしいから造ったのでもありません。人を引き付ける魅力があるから造ったのではありません。神が私たちを造られたのは、私たちを造りたいから造ったのです。私の付加される価値は何の意味もないのです。私が造ったあなたが生きて、存在していることを神は願い、喜んでくださっているのです。
その思いを届けるために、神は御子を与えられ、この出来事を通してあなたが生きていることに喜びを抱いて下さっている神が共に在ることに喜びを見いだして生きるために御子はお生まれなのです。御子イエスは、飼い葉桶の中に生まれました。彼もまたその姿から人の基準、評価からするならば何の役にも立ちません。赤ちゃんが誰かの役に立つことはありません。
しかしながら、飼い葉桶に生まれたもう御子イエスがそうであるように命がそこに在ることを神は喜ばれます。あなたがそのままに、そこに在ることを神が喜ばれています。そのしるしとして御子イエスが与えられました。あなたがどうであろうと神はあなたが在ることを喜ばれています。破壊、掠奪、殺戮という存在を脅かす力によって与えられる平和ではなく、何も殺さず、犯さず、何も脅かさない、あなたそのものを愛し、造りたもうた神の平和が私たち一人ひとりのもとに与えられているのです。
生きる喜びは、何かを得たり、評価基準に沿うことによって与えられるのではありません。この私が在ることを喜びたもう神が在るということを信じることにより与えられるのです。
私たちは御子イエスのご降誕によって、人間が神に真に愛されていることを発見したのです。何かを持っているから愛される対象とされているのではなく、神が造られた私をそのままに愛したもう神が在る。この私が寂しさ、虚しさ、悲しみの内に在っても、生きていることに喜んでくださる方が在るという恵みと喜びを今日覚えてまいりましょう。
私の命を、生を喜んでくださる神が共に在ります。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」このメッセージは私たち一人ひとりにその存在の完全な是認をもって愛し、慈しみ、喜びに溢れさせる主が在ることを知らせる福音だということを心に留めてまいりましょう。クリスマスおめでとうございます。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
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