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12月5日(待降節第2主日)の説教

  • ltnishinomiya
  • 2021年12月24日
  • 読了時間: 8分

※大変申し訳ございませんが、この日の映像は竹田牧師が神戸教会での礼拝奉仕のためございません。


待降節第2主日


聖書日課

第一日課 マラキ書 3章1節ー4節 (旧) 1499頁

3:1見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は/突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者/見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。2だが、彼の来る日に誰が身を支えうるか。彼の現れるとき、誰が耐えうるか。彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ。 3彼は精錬する者、銀を清める者として座し/レビの子らを清め/金や銀のように彼らの汚れを除く。彼らが主に献げ物を/正しくささげる者となるためである。4そのとき、ユダとエルサレムの献げ物は/遠い昔の日々に/過ぎ去った年月にそうであったように/主にとって好ましいものとなる。


第二日課 フィリピの信徒への手紙 1章3節ー11節 (新) 361頁

フィリピの信徒のための祈り

1:3わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、 4あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。 5それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。 6あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。7わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。 8わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。 9わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、 10本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、 11イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。


福 音 書 ルカによる福音書 3章1節ー6節 (新) 105頁

洗礼者ヨハネ、教えを宣べる

3:1皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、 2アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。 3そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。 4これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。 5谷はすべて埋められ、/山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、/でこぼこの道は平らになり、 6人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」



【説教】御子ご降誕の備え

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


待降節第2の主日を迎えています。アドベントクランツにも二つ目の火が灯りました。主イエスのご降誕が少しずつ近づいていることを感じます。

そのような時にあって必ず読まれるのが洗礼者ヨハネの出来事です。彼は主イエスの先駆け、前触れとして現れました。そしてそれは同時に主のみ言葉、預言の言葉の実現のために主が遣わした人でした。

救いはみ言葉の成就によって現されますから、このヨハネの出来事がまさしく救いの出来事と深く関わっているのです。

この与えられたみ言葉から今日はご一緒に待降節のあり方を聴いて参りましょう。


さて、私たちは人生の途上で様々な出来事に遭遇します。老いも若いもそれは関係ありません。そして、その中で様々な選択を迫られることがあります。そして、私たちは迷います。その出来事が大きければ、大きいほどその選択について迷いを生みます。私事で恐縮ですが、中学の時に受験をしたときがそうでした。いくつかの学校を受験して、その中の一つはいわゆる補欠を取らない学校でした。しかしそのあとに受験して合格した学校があまりにも魅力的で結局親に無理を言って転勤しますとか嘘をついてもらって自由学園という学校に入学しました。粗末な例ですが、当時の私にとっては大きな迷いであり、一大決心だったと記憶しています。


おそらく皆さんもご自身の人生を振り返って色々と思い出される出来事があるかと思います。そう思いますと、人間は実に迷いやすい生き物です。人生は色々と譬えられますが、道ということであるならば、振り返って自分の人生の途上はいろいろな分岐点があり、曲がりくねった道であると思うのです。

ことに信仰の道ということにおいては、それ以上にグネグネと曲がりくねっていると思うのです。


なぜならば、私たちは迷うからです。神の御心、御ことばが示す道はこっちだと分かっていながら、自分の思い、外的要因によって神の御心通りに進めない。そして、言ってしまえばいつも道を誤り、神の御心に沿って歩むことができずにいます。そうして神の御心に沿えないのですから、それは即ち神に対して罪を犯してしまい、罪人となっているということなのです。つまり、私たちの信仰の歩みは、実は正しい歩みではなく、罪人としての歩みであると言えるのです。


そのような人間の現実から救い出すためにキリストは神から遣わされ、この世にお生まれになったのです。その前触れとして洗礼者ヨハネを神は遣わされました。彼の働きは、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」とある通りです。そして、そのために「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝え」ていたのです。私たち人間は深い罪の闇の内に生きている。一人ひとりが神の御前に誠実に、実直に、正直に自分の罪を告白していくことを勧めたのです。そして、これが「主の道を整え、その道筋をまっすぐに」することだったのです。


そこで「悔い改め」とは何か私たちは改めて考えていきたいと思うのです。なぜならば、それが御子イエスをこの世にお迎えするにあたって相応しい備えだからです。

「悔い改め」とはギリシャ語の語源から申しますと「心を変えること」です。パウロの場合には「回心」と表現されています。何から何へ心を変えるのでしょうか。


それは、先ほど信仰の歩みの途上における岐路に立たされた時のことを申し上げましたが、その際に私たちが罪を犯すときに決まって顔をのぞかせるのは罪の甘美な魅力です。はじめに罪を犯した女は蛇に誘惑されて取って食べてはならないと言われていた木の実を見て、「いかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」(創世記3:6)とあります。


この甘美な魅力に人間は魅了されてしまうのです。罪と聞くと何か恐ろしいイメージを抱きますが、その実は私たちを誘惑するために非常に甘美に感じるものなのです。そして、その誘惑に私たちは抗うことができず、神に対して決定的な罪を犯してしまう。一方で神が示される御心は時に厳しく、実現不可能、自分の思いからかけ離れたものである時が殆どです。


しかしながら、そこにこそ命の道があるのです。私たちが囚われている罪の道の行き着く先は死です。すべてが無に帰し、深い暗闇が広がるばかりです。しかしながら、神が私たちに示される道は一見辛く険しく、厳しい道であろうとも行き着く先には命があります。悔い改めは、この命へ、ひいては命の源である神へと導く手だてであり、神を見る者とし、いまどうであれ、神の道がたとえ辛く厳しい道であろうともその先に命が溢れ、希望と恵みが豊かにあることを教えるのです。


私たちの前にも後ろにも大きくそびえたつ罪の山があります。甘美に見えたその誘いに抗うことができずに闇の中で凍え、孤独に苛まされている私たちの命でした。しかしながら、神の光はその山裾から朝日が顔を出し照らし出すように、必ず光を私たちに届けてくださっています。神の憐みが私たち一人ひとりに臨み、私たちに悔い改めを勧め、その道筋を真っすぐにせよと呼びかけています。


罪の道、闇を歩むことしかできない私の手を取り、悔い改めの大切さを示してくださり、光へと導き、平安を与えたもう神の御心が示されています。そのしるしが御子イエスのご降誕の出来事です。闇の中に光として来られたキリスト。この光を見る者とするためにその前触れとしてヨハネは遣わされました。キリストをお迎えする相応しい備えについてヨハネを通して示されています。


悔い改め、回心、罪の甘美な魅力にではなく、たとえ厳しい道であろうとも神の御心、神ご自身を見つめてまいりたいと思うのです。楽園を追放された二人も悔い改め神の守りの内にその生を全ういたしました。神の御使いの言葉を疑ったアブラムとサライも神の御ことばを信じる道へと立ち帰り、イサクが与えられました。荒れ野で神を疑い、罪を犯したイスラエルの民も罪を犯し続けますが、同時に悔い改め続け40年の放浪の末に約束の地へと入れられました。


私たちの信仰の歩みが曲がりくねっているのはたしかです。しかしその都度、神は悔い改めを示してくださっています。主の道を整えていけない私たち人間です。その弱く、小さい私たちのために神は憐れみをもって臨み、御ことばを語り掛け、神へと向かう道をいつも示してくださっています。

神の御ことばに聴く耳と、神を見つめる目を持てるように願い求め、罪にではなく、神へと向き直っていく、これこそが命の道、主の道であることを深く刻んでまいりたいと思います。そして、御子イエスをお迎えするその日まで、そしてこれからの日々すべてを神の御前に誠実に、素直に、自らの罪を悔い改め、主の道を整えていくことができるように神に願い求めてまいりましょう。悔い改めは、喜びの日、その時、この罪から救い出す方が来られたという確信がより一層恵み豊かで喜びに溢れるものとなるのです。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

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