12月6日(待降節第2主日)の礼拝と説教
- ltnishinomiya
- 2020年12月6日
- 読了時間: 12分
主の御名を讃美いたします。
おはようございます。
清々しい冬の朝となりました。待降節第二主日のお知らせです。
御子イエス・キリストのご降誕を待ち望むこの時、ご一緒に御ことばから聴き、御子を迎える相応しい備えをしてまいりましょう。
昨晩お知らせしたように、新型コロナウイルスの感染拡大の勢いが止まりませんが、本日も10時30分から短縮式文で礼拝をしてまいります。
10時20分頃からFacebookでライブ配信をいたします。
出席適わない方、感染の心配をお覚えの方どうぞそれぞれのところで神様の御ことばの恵みに与かりましょう。
https://www.facebook.com/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%AB%E8%A5%BF%E5%AE%AE%E6%95%99%E4%BC%9A-284764385794229 また、礼拝後は教会のYouTube(ユーチューブ)に掲載しておきますので、そちらからでもいつでもご覧になれます。以下のリンクを選択してください。 https://www.youtube.com/channel/UCzbeaT4xiANne1wCKYqhUzg?view_as=subscriber 季節はすっかり冬となっています。どうぞお一人おひとりの心身の健康が守られますようにお祈りしています。 何かございましたらいつでも牧師までお申し出ください。
牧師
礼拝式文 待降節第2主日
1. 前奏 (神様への思いを向ける準備をいたしましょう)
2. 祝福の挨拶
司式)父と子と聖霊のみ名によって 会衆)アーメン
3. キリエ
司式)主よ、憐れんでください。 会衆)主よ、憐れんでください。
司式)キリストよ、憐れんでください。 会衆)キリストよ、憐れんでください。
司式)主よ、憐れんでください。 会衆)主よ、憐れんでください。
4. 讃美唱 詩編 85編2節‐3節、9節‐14節 ※3節「〔セラ〕は読まない。
85:2主よ、あなたは御自分の地をお望みになり/ヤコブの捕われ人を連れ帰ってくださいました。
3御自分(ごじぶん)の民(たみ)の罪(つみ)を赦(ゆる)し/彼(かれ)らの咎(とが)をすべて覆(おお)ってくださいました。〔セラ
9わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます/御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に/彼らが愚かなふるまいに戻らないように。
10主(しゅ)を畏(おそ)れる人(ひと)に救(すく)いは近(ちか)く/栄光(えいこう)はわたしたちの地(ち)にとどまるでしょう。
11慈しみとまことは出会い/正義と平和は口づけし
12まことは地(ち)から萌(も)えいで/正義(せいぎ)は天(てん)から注(そそ)がれます。
13主は必ず良いものをお与えになり/わたしたちの地は実りをもたらします。
14正義(せいぎ)は御前(みまえ)を行(い)き/主(しゅ)の進(すす)まれる道(みち)を備(そな)えます。
司式)父、み子、聖霊の神にみ栄えあれ、
会衆)初めも今ものちも、世々に絶えず。アーメン
5. 主日の祈り
全員)主なる神様。私たちの心を奮い立たせ、御独り子の道を備えることができますように。御子が来られる時、きよい心であなたに仕えることができるように強めてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
6. 聖書朗読
第一日課 イザヤ書 40章1節‐11節 (旧)1123頁
帰還の約束
40:1慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。
2エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。
3呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。
4谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。
5主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。
6呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。
7草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。
8草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。
9高い山に登れ/良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ/良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな/ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神
10見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ/御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い/主の働きの実りは御前を進む。
11主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め/小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。
第二日課 ペトロの手紙二 3章8節‐15節a (新)439頁
3:8愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。9ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。10主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。11このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。12神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。13しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。14だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい。15また、わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい。
福 音 書 マルコによる福音書 1章1節‐8節 (新)61頁 (起立)
洗礼者ヨハネ、教えを宣べる
1:1神の子イエス・キリストの福音の初め。2預言者イザヤの書にこう書いてある。
「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。
3荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」
そのとおり、4洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。5ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。6ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。7彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。8わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
7. 讃美歌 11番(教会讃美歌)

8. 説教 「罪の悔い改め」 竹田 大地牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
待降節第二の主日を迎えています。御子キリストのご降誕を待ち望むときにあって、私たちは日々御ことばを通してその日を迎える備えの時を過ごしています。今日与えられている御ことばは、キリストの先駆者としての召しを与えられた洗礼者ヨハネの出来事から聴いています。
この与えられている福音から私たちは「悔い改め」を通して御子のご降誕に備えていくことを教えられています。この「悔い改め」ということをテーマにしながら、与えられている御ことばからご一緒に神の御心に聴いてまいりましょう。
さて、洗礼者ヨハネは「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」とあります。この御ことばから示されていることは、私たちは罪を抱えて生きている者であるということを浮き彫りにいたします。自覚していようとも、無自覚であろうとも、御ことばが示す通り、私たち一人ひとりは、御ことばを通して神から罪人であるという真実を示されているのです。
私たちは、このように御ことばを通して罪人であるということを明らかにされます。しかしながら、人間は自分のどこに罪があるのかと分からないでいる者でもあります。こうして御ことばを通して言われてもなお、何が罪なのかも分からない、そういう愚かな存在でもあります。
また、罪を自覚していても、それがバレなければいいとも思っています。誰も知らず、自分だけが知っていて、それを隠し通すことができれば、罪に定められることもないと考えるのです。それは言うなれば、自分自身にも、隣人にも、そして神にも嘘をつくことです。十戒に「偽証してはならない」という戒めが示されていますが、まさに人間の浅はかさや悪知恵が、いともたやすく罪へと陥らせることを示します。しかも人間は、神に対しても、隣人に対しても、自分に対しても隠し通せると考える愚か者なのです。
このように人間というのは、真に愚かで、虚しい言葉や行いに支配されています。そうして、自分を着飾り、自分はあたかも正しい者、信心深い者であるかのように振る舞い、またこの世における富や名声にすがり、それが私を力づけ、強くするのだとも信じています。また、そういうものを有している自分を称賛してほしいという欲求も持っています。それは社会一般だけでなく教会の中でも起こりうることです。人間は上辺の目に見える行いや、人間の思いから出る言葉を大切にしてしまいます。本当はそんなことは虚しいことです。
しかしながら、今日登場する洗礼者ヨハネは、荒れ野で命の営みを送っていました。このヨハネの姿から示されることは、自分はこの世の栄光、華やかさ、富や地位、名声から離れて行った姿です。言い換えるならば、自分は何者でもないということの実践であり、称賛されたい、承認されたいという欲求の拒否です。それは、神の承認をも拒否する姿と言っても良いかもしれません。
なぜヨハネはこのような生き方を生きることができたのでしょうか。それはヨハネが「荒れ野で叫ぶ者」であったということに示されます。荒れ野には誰も好き好んでやってきません。華やかな街で暮らし、優雅に生きていきたいと思います。では、荒れ野で生きる者、荒れ野にやって来る者とは、何か。
それは、自分自身が何者でもなく、神の御前において虚しく、傷つき、罪でしかないことを知っている者です。裁かれるほかない小さき者でしかないことを知る者でもあります。そして、荒れ野は人間のあらゆる外面的、内面的なものが削ぎ落される所であるということから言えることは、荒れ野とは神の御ことばのみが響く場所です。ですから、ヨハネの言葉が、ヨハネの内からくるものではなく、神からの御ことばなのです。
このヨハネの姿、言葉の一つひとつには、主の御心が示されているのです。しかしながら、先ほども申し上げましたように、私たち人間は自ら好き好んで荒れ野には来ません。行こうとしません。自分の弱さや、愚かさ、不安定さ、罪を隠し通して生きたいと願うのです。できることならば誰にもそれが明らかにされることなく、自分もそれをなるべく見ることなく生きたいと願う者だからこそ荒れ野に生き、神のみを頼ることができないのです。
そういう自分を認めてしまえば、たちまちに神の裁きの御手が下るからです。自分が滅ぼされ、命もままならなくなることを知っているから、荒れ野で生きることを拒むのです。荒れ野で生きることを拒むということは、神の御ことば、福音を拒むことであり、それは即ち福音のしるしである御子キリストを拒むことなのです。
ですから、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」とありますが、本当に心から「悔い改め」る者は居ないのです。荒れ野で生きることを拒むからです。それが神の御心、神の福音であるにもかかわらず、ヨハネの叫び声は、虚しく荒れ野で響き渡るだけです。
だからヨハネは「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。」と語るのです。自分が虚しい者であることを知っているからです。自分の言葉がたとえ真実だとしても、それは荒れ野に響き渡るばかりである。人間は、自分の言葉を本当の意味を聴き分けられず、受け入れないことを知っているのです。
だからこそヨハネは自分の後に来る者が真の救いへと導くことを語ります。そして、その方は、神の絶対的な力に人は沈んで、神によって殺され、神によって生きるようになることを「聖霊で洗礼をお授けになる。」という言葉によって示すのです。
ヨハネは、この言葉によって、御子イエス・キリストが、神の絶対的な力によってのみ救いへと至る道を示すことを知らせたのです。御子はクリスマスの時、宿のない夫婦、馬小屋の飼い葉桶の中に生まれました。それは何の力も無い状態です。赤ん坊です。かろうじて父母の指を、服の端を握る力しかありません。誰かに頼らなければ生きていけない状態です。まさにそれはヨハネが先駆者として荒れ野に生きた姿に神の御子キリストの御姿を顕します。しかし、そのようなまったく弱い方が救い主であると御ことばは語ります。
私たちは、荒れ野に生きられない、弱さを受け入れない、罪を隠そうとする、真実を見る目も耳も持ち合わせていない。ましてや罪の悔い改めなどできない。そういう真に罪深く、愚かで、矮小な存在である人間のために神は御子イエス・キリストを遣わしてくださるのです。
ヨハネは、荒れ野で生きることによって、この方に全てを委ねました。自分の声が虚しく響くことも知っていました。しかし、何があろうともそこに立ち、神の御ことばを語り続けました。そこに生きる者こそが真に悔い改める者です。真に神を受け入れ、神への信仰に生きる者です。だからこそ、私たちは真の悔い改めを神の御前に成すために、荒れ野に生きるのです。
語る言葉が、社会の中に消えていく、家族の耳を、友の耳を抜けていく、誰も聞かない、誰も来ない。しかし、そこに生きることこそが、神の救いの真実を見る者であり、聴く者であることを覚え、荒れ野に生きていくことができるようにという祈りと共にアドヴェントを過ごし、御子キリストの到来を真の喜び、救いの時として迎えることができるように備えてまいりましょう。荒れ野に行きましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
9. 信仰告白 (起立)
司式)使徒信条によって、信仰の告白を共にしましょう。
全員)天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。
そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。
聖霊を私は信じます。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。(アーメン)
10. 聖餐式
1)聖餐の歌 206番(1節)

2)設定(起立)
3)主の祈り(起立)
司式)祈りましょう
全員)天の父よ。
み名があがめられますように。
み国が来ますように。
み心が天で行なわれるように、地上でも行なわれますように。
私たちに今日もこの日の糧をお与えください。
私たちに罪を犯した者を赦しましたから、
私たちの犯した罪をお赦しください。
私たちを誘惑から導き出して、悪からお救いください。
(み国も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです。)
(アーメン)
4)配餐 ※一列に並んで聖卓へお進みください。
11. 献金
12. 教会の祈り
13. 祝福 (起立)
司式)主があなたを祝福し、あなたを守られます。
主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたに恵みを与えられます。
主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わります。
父と子と聖霊のみ名によって。
会衆)アーメン、アーメン、アーメン。
14. 後奏
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