12月8日の説教
- ltnishinomiya
- 2019年12月21日
- 読了時間: 9分
「平和の王がやって来る」
主日の祈り
主なる神様、私たちの心を奮い立たせて、御ひとり子の道を備えさせてください。御子の来臨によって、世界のすべての人々にあなたの救いを知る知識を与えてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
詩編唱 詩編72編1~7節&18~19節
神よ、あなたによる裁きを、王に、
あなたによる恵みのみ業を、王の子にお授けください。
王が正しくあなたの民の訴えを取り上げ、
あなたの貧しい人々を裁きますように。
山々が民に平和をもたらし、
丘が恵みをもたらしますように。
王が民を、この貧しい人々を治め、
乏しい人々の子らを救い、虐げる者を打ち砕きますように。
王が太陽と共に永らえ、
月のある限り、代々に永らえますように。
王が牧場に降る雨となり、
地を潤す豊かな雨となりますように。
生涯、神に従う者として栄え、
月の失われるときまで、豊かな平和に恵まれますように。
主なる神をたたえよ
イスラエルの神、ただひとり驚くべき御業を行う方を。
栄光に輝く御名をとこしえにたたえよ
栄光は全地を満たす。アーメン、アーメン。
本日の聖書日課
第1日課:イザヤ書 11章1‐10節(旧)1078頁
11:1エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち
2その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。
3彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。
4弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。
5正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。
6狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。
7牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
8乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。
9わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。
10その日が来れば/エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。
第2日課:ローマの信徒への手紙 15章4‐13節(新)295頁
15:4かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。5忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、6心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。
福音はユダヤ人と異邦人のためにある
7だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。8わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、9異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、/あなたの名をほめ歌おう」と書いてあるとおりです。10また、/「異邦人よ、主の民と共に喜べ」と言われ、11更に、/「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ」と言われています。12また、イザヤはこう言っています。「エッサイの根から芽が現れ、/異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける。」13希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。
福音書:マタイによる福音書 3章1‐12節(新)3頁
3:1そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、2「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。3これは預言者イザヤによってこう言われている人である。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」
4ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。5そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、6罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
7ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。8悔い改めにふさわしい実を結べ。9『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。10斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。11わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。12そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
アドヴェントキャンドルに二つ目のろうそくが灯りました。主イエスの誕生を待ち望むこの時、伝統的に待降節第2主日と第3主日は洗礼者ヨハネに関する記事から御ことばに聴き、降誕の備えの時を過ごしています。ですから今日の福音の記事は洗礼者ヨハネの出来事から聴いています。この福音から神が私たちに何を語り掛けているのかご一緒に耳を傾けてまいりましょう。
洗礼者ヨハネの役割は、「イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」(ルカ1:16-17)ためだと天使を通して母エリザベトに告げています。
すなわち、彼の役割は、人々を悔い改めへと導くためだったのです。そのような呼びかけに対して、ヨハネの下に集まった人々の中にファリサイ派、サドカイ派の人々が居ました。彼らは、ある種の自尊心(プライド)がありました。それは、自分たちこそが神の救いに与るに相応しい者であるという自尊心です。他のユダヤ人たちも彼らに対しては尊敬の念を抱いていたことでしょうし、彼ら同様にこの人たちは神の救いに真っ先に与る人だろうと考えていたと思います。
こういう人々の姿と思いは、2000年経った今でも変わりありません。社会的に認められた地位や役職にある人は、それに見合った報酬や名声を得ています。そして、周囲の人々もそれに相応しい人だと考えます。それは、一般社会の中でなく教会内でも言えることです。信仰生活の長い人、礼拝に毎週出席している人、奉仕を献身的にしている人を他の信徒は素晴らしいことだと思います。こういう人が神の国に相応しい人だと考えがちです。
これは牧師についても言えます。現在の牧師としての経験を経ていきますと自分が牧会を任されている教会の事がら以外の仕事が増えていきます。東京出張の際に大学の同期と飲む機会があって、「それだけ役職増えているんだから手当あるんでしょ?」と聞かれ、私が「そんなの無いよ」と答えると驚かされました。色々と例に出しましたが、総じて言えることは、私たちの他者の認識の仕方の大半は、その人がどのような働きをしていて、どれだけステータスが高いか、地位や権力を有しているかということにあるということです。
しかしながら、果たして聖書はそのように教えているのかと言うならば、そうではないのです。それは今日のヨハネの呼びかけ「悔い改めよ」という言葉にも表されています。これはギリシャ語では「メタノイア」と言います。そして、この言葉は二つの単語から成る言葉です。一つ目は「メタ」で、二つ目は「ノエオー」です。「メタ」は、「変える」という意味があり、「ノエオー」はもともとは「心」という意味の名詞から派生した言葉で「考え」「思考」「認識」「理解」という意味があります。
今日の福音を聴いていくうえで大切にしたいのは、「認識」「理解」という意味からこの「悔い改め」について見ていきたいのです。ですから、この悔い改めとは、何を意味するのかと言うならば「認識を変える」「理解を変える」ということです。それは、自分自身について、人間について「認識、理解を変える」ということです。先にも申し上げましたように、私たちは人を理解する時に、その人の様々なステータスを定規にしてどういう人か見ようとします。そして、それらの情報によってその人が素晴らしい人、凄い人、偉い人、駄目な人、愚かな人という認識をして判断します。
しかしながら、その判断は正しいのでしょうか。本当に私たちの間には、そういう評価の差があるのかと御ことばから人間を照らすとそうではないことに気が付かされます。ヨハネが告げているように、私たちは、自分自身は勿論のこと、人間全体、この世に対する認識の在り方を変える必要に迫られているのです。そして、その認識の変化こそが主イエスのご降誕を待ち望む私たちの大切な在り方なのです。
「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」と語られているように、私たちが、私たち自身の認識、理解を変えなければならないという非常に差し迫った状況なのです。そこで問題となるのが、「良い実」とは何かということです。そのヒントがパウロの「神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。」という証しに示されています。
すなわち、私たち一人ひとりが置かれたところで出会う人々を社会的立場、病の有無などあらゆる事がらを越えて「受け入れて」いくことです。なぜそのようなことをパウロが証ししているのかというならば、私たちは他者とのかかわりの中に壁を造りだし、妨げているからです。そして、それは神との関係においても同様です。私たちは、私たち自身が認識を変えない限り、神との間には、いつまでも壁が存在します。それを罪と言います。私たちの罪が神との関係を断絶し、そして、他者との関係性についても断絶と分断、差別を生み出し、御子イエスを受け入れさせないようにしているのです。
バッハのカンタータ132番「汝ら道を備え、大路をなおくせよ」というアドヴェントに歌われる曲がありますが、その第三楽章で「重い罪の石を砕いて平らにならし、あなたの救い主を迎え入れなさい、主があなたと信仰において一体となって下さるように。」(小林英夫訳)という歌詞がありますが、まさに私たちの罪が御子のご降誕において妨げとなっているのです。罪が、御子の誕生を喜ばせないように働くのです。
御子を迎えるうえで、認識、理解を新たにして生きましょう。御子を、他者を受け入れさせないように妨げとなっているのは私たち自身の罪であるということを。そして、この神の御心に立ち、悔い改めていくのです。喜びの日が近づいています。それを真の喜びとするために重い罪の石を砕いて平らにならし、あなたの救い主を迎え入れる備えをしてまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
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