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2月16日の説教

  • ltnishinomiya
  • 2020年3月21日
  • 読了時間: 10分

「だれにも守れない掟」

主日の祈り

 あなたに希望を置く者の力なる神様、私たちは弱く、やがて死すべき者であり、あなたなしには何も良き業ができません。私たちがなすべきことを悟り、行うための恵みと力を与えてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン


詩編唱 詩編119:1-8 (青式文119/1)

いかに幸いなことでしょう。

まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。

いかに幸いなことでしょう。

主の定めを守り、心を尽くしてそれを尋ね求める人は。

彼らは決して不正を行なわず、主の道を歩みます。

あなたは仰せになりました。あなたの命令を固く守るように。

わたしの道が確かになることを願います。あなたの掟を守るために。

そうなれば、あなたのどの戒めに照らしても、恥じ入ることがない。

あなたの正しい裁きに学び、まっすぐな心であなたに感謝します。

あなたの掟を守ります。どうか、お見捨てにならないでください。


本日の聖書日課

第1日課:申命記 30章15‐20節(旧)329頁

30:15見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。16わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される。17もしあなたが心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し仕えるならば、18わたしは今日、あなたたちに宣言する。あなたたちは必ず滅びる。ヨルダン川を渡り、入って行って得る土地で、長く生きることはない。19わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、20あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。それが、まさしくあなたの命であり、あなたは長く生きて、主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地に住むことができる。


第2日課:コリントの信徒への手紙 一 3章1‐9節(新)302頁

3:1兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。2わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。3相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。4ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。5アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。6わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。7ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。8植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。9わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。


福音書:マタイによる福音書 5章21‐37節(新)7頁

5:21「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。22しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。23だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、24その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。25あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。26はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」

27「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。28しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。29もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。30もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」

31「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。32しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

33「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。34しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。35地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。36また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。37あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」


【説教】

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


 申命記はイスラエルの人々にとって大切な神との契約の一つであるモアブ契約です。神はイスラエルの民全体に選択を迫ります。それは「命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。」とある通りです。「命と幸い」とは、「あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守る」ことによって得ると語ります。一方で「死と災い」とは、「心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し仕える」ことによって滅びに至るという道です。


 前者は、義なる人として神を愛し、神に従い、戒めを守ることによって得る命と幸いです。後者は、神に従わず、他の神々を拝むということですから、十戒の第一と第二の戒めを破っているということであり、罪人ということになります。義人と罪人として歩むこと、この選択を迫られたのであれば、私たちは迷わず、前者の道を歩んでいきたいと思うでしょう。「命と幸い」の道を歩むことを選択するべきだと考えることは当然と言えます。


 しかしながら、人間は、いつも後者の選択をしてしまうのです。どんなに私が前者を選択して、「神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守」っていき、神に従って行こうと思ってもそれは適わないのです。この現実はイスラエルの民の歴史が物語っています。イスラエルの民は、この後、約束の地カナンへと入り、念願の自分たちの王国を持つようになります。


 その歴史は決して完全な神の民としての歩みではありませんでした。むしろ、その歩みは神への背信の歴史でもあるのです。イスラエルは、神の導きと御腕の働きによって連戦連勝をし、その領土を拡大していきます。この出来事がそのうちに彼らの心に思い上がりを芽生えさせるようになるのです。この功績は、私たちに力があるから、賢いからだと思い込んでしまうのです。そうしてイスラエルは神すらも必要としなくなります。むしろ他の神々の祭壇を造り、神殿を建てるという愚行すら行ってしまうのです。


 その結果がイスラエルの滅びでした。イスラエルが滅びたのは、彼らが弱かったからではありません。彼らの背信、不信仰のゆえに招いた信仰的な出来事です。神は背信の民に何度も預言者を通して語られました。立ち帰るようにと。今日の申命記の少し前にも「あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聴き従うならば、あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。」(申30:2,3)という契約が結ばれています。同様の内容の御ことばが預言書にはそこかしこに記されています。


 では何故私たちは「命と幸い」の道を選ぶことができないのでしょうか。ルターの発言にヒントがあります。それは、私たちは悪しか選択することができないということです。私たちをコントロールしているのは、私自身ではなく悪、サタンであると、それ故に神が示す善を選択することが不可能な状態にあるというのです。しかもそれはアダムの堕罪以来、根源的に私たちにある罪の故であるとも語ります。


 それは私たちが毎週の礼拝の悔い改めの言葉で「生まれながら罪深く」と唱えている通りです。私たちは、生まれたばかりの赤ん坊であっても罪人であるという現実があるのです。ですから、私たちは神からこのような提示を受けてなお、「命と幸い」を選ぶことができないのです。本来であれば、私たちは滅びるほかないのです。


 ましてや、イエスは今日の御ことばを通して、モーセたちに与えられた十戒を引いてきて、「しかし、わたしは言っておく。」という言葉の後に更に律法の御ことばの説き明かしを厳格化します。益々、私たちは神の掟について守ることができないではないかと思わされます。しかも、この山上の説教においてイエスのもとに集まってきた群衆は、もともと様々な病に冒され、イエスに癒された人々です。


 群衆は身体的、信仰的、宗教的に清められ、回復した人々でした。きっと彼らは「さあこれからは、神の御国に入るために律法に則り、しっかりと生きていこう。」私には力強い方、新しい教えを語る素晴らしい方がいらっしゃる、この方からどんな素晴らしい言葉が聴けるのだろうという希望に溢れていた人々でした。そのような人々にイエスは、律法の更なる厳格化を教えます。


 それは、出鼻をくじかれるような教えです。やる気も削がれるかもしれません。イエスの語られる通りならば、自分は罪の縄目にいつまでも囚われ、救いが無いように思ってもおかしくありません。罪を犯さざるを得ないという現実に打ちひしがれるほかない、そういう厳しい主イエスの教えなのです。

 では、救いとはどのようにしたら得ることができるのかと聴衆たちは考えたに違いありません。


 私たちは福音を与えられています。それは、私たち罪人のために神は主イエスをお遣わしになったということです。私たちの罪を担い、ご自身の身に引き受けてくださった方がいらっしゃることを私たちは福音を通して知らされているのです。私たちは、自分自身では、悪魔の力によって「死と災い」しか選択できません。その現実を受け入れながら、この主イエスの十字架の死と復活の恵みを信じ、受け取っていく時、私たちは変えられるのです。


 これは主イエスの十字架を通して神と分裂していた状態からの和解です。永遠に罪の縄目につながれている状態からの解放をもたらすのです。そして、再びルターの言葉を借りるならば、私たちをコントロールする者が、悪魔から主イエスにとって代わるのです。そうして私たちは善を行うことができるのです。私たちが選択するのではなく、主イエスの十字架の犠牲による神との和解によって、神の畑、神の建物として神が宿り、私を通して神が働かれるのです。


 この劇的な変化が起こっている真実を、今日の福音を通して神は語られています。私自身では、救いに至ることはできません。しかし、その私を神は憐れみ、赦し、和解の献げ物として愛する御子、主イエスを遣わしてくださり、「死と災い」を滅ぼしてくださいました。ですから、この厳格化された掟もまた福音なのです。誰も守れない掟だと嘆くのではなく、福音を通して改めてお一人ひとりが罪の縄目にあるということを深く自覚し、悔い改めへと神は導いて下さっています。

 福音を通して炙り出された自分自身を見つめながら、この罪深い罪人の私に憐みの神が罪人の私を赦し、恵みを豊かに与え、愛を注ぎ、共に在って、私を豊かに用いて下さっている喜びを覚えて新しい週を過ごしてまいりましょう。


 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

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