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ltnishinomiya

2月23日の説教

「啓示されたみ心」

主日の祈り

 神様、あなたはモーセとエリヤが証する信仰の神秘を御子の変容において確かなものとし、輝く雲の中から「これはわたしの愛する子」と宣言され、私たちもあなたの子としてくださることを示されました。キリストと共にあなたの栄光を受け継ぐ者として、私たちを喜びで満たしてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン


詩編唱 詩篇2:1-12

なにゆえ、国々は騒ぎ立ち

人々はむなしく声をあげるのか。

なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して主に逆らい、

主の油注がれた方に逆らうのか。

彼らは言う。「我らは、枷をはずし、縄を切って投げ捨てよう。」

天を王座とする方は笑い、主は彼らを嘲り、

憤って、恐怖に落とし、怒って、彼らに宣言される。

「聖なる山シオンで、わたしは自ら、王を即位させた。」

主はわたしに告げられた。

「お前はわたしの子。今日わたしはお前を生んだ。

求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし、地の果てまで、お前の領土とする。

お前は鉄の杖で背く者を打ち、陶工が器を砕くように砕く。」

すべての王よ、今や目覚めよ。地を治める者よ、諭しを受けよ。

畏れ敬って、主に仕え、おののきつつ、喜び躍れ。

子に口づけせよ。主の憤りを招き、道を失うことのないように。

主の怒りはまたたくまに燃え上がる。

いかに幸いなことか。

すべて主を避けどころとする人は


本日の聖書日課

第1日課:出エジプト記 24章12‐18節(旧)134頁

24:12主が、「わたしのもとに登りなさい。山に来て、そこにいなさい。わたしは、彼らを教えるために、教えと戒めを記した石の板をあなたに授ける」とモーセに言われると、13モーセは従者ヨシュアと共に立ち上がった。モーセは、神の山へ登って行くとき、14長老たちに言った。「わたしたちがあなたたちのもとに帰って来るまで、ここにとどまっていなさい。見よ、アロンとフルとがあなたたちと共にいる。何か訴えのある者は、彼らのところに行きなさい。」15モーセが山に登って行くと、雲は山を覆った。16主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた。七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた。17主の栄光はイスラエルの人々の目には、山の頂で燃える火のように見えた。18モーセは雲の中に入って行き、山に登った。モーセは四十日四十夜山にいた。


第2日課:ペトロの手紙 二 1章16‐21節(新)437頁

1:16わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。17荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。18わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。19こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。20何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。21なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。


福音書:マタイによる福音書 17章1‐9節(新)32頁

17:1六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。2イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。3見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。4ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」5ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。6弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。7イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」8彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。9一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。


【説教】

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるよう に。


 今日は主の変容主日という特別に名前の冠された主日をご一緒に過ごしています。この主日は、毎年顕現節の最後の主日、来る悔い改めの時である四旬節と繋がる主日です。主イエスの受難に備えるその前に私たちは、イエスというお方がどのようなお方であるか、この変容のお姿を通して示されています。まさに顕現節の最期に相応しい福音の出来事が与えられています。ですから、この出来事に示されている神の御心にご一緒に聴いてまいりましょう。


 そこでイエスという方はどのような方であるか改めて考えてみたいと思うのです。そのヒントとなる一つの事がらが信仰告白の文書にあります。私たちは日々の礼拝の中で信仰告白を必ずいたします。使徒信条の告白文は、父なる神、子なる神であるイエス、聖霊なる神の三位一体の神を信じるという私たちの信仰の内容について書かれています。その子なる神であるイエスの文書は、イエスのご生涯についての証しが記されています。聖霊の不思議なお告げによってマリヤに宿り、生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け十字架につけられ、死に、葬られ、三日目に死人の内から復活したという一連の文書がそれです。


 生まれ、死んだ方であると私たちは告白しているわけですから、それは紛れもなく主イエスは人としてそのご生涯を送られたということを私たちは告白しているということです。ですから、イエスに従っていた弟子たちの思いを想像してみますと何か特別な存在のようで、私たちと変わらない存在のようにも感じる。そういう不思議な魅力に満たされていたのではないでしょうか。今まで聴いたことが無いような驚くべき教えを語り、また不思議な力を有しておられるこの方に希望を覚えながら従ったと思います。しかしながら、その正体については、ついぞ十字架の死と復活の出来事に与るまで知ることはできませんでした。


 今日の福音のはじめに「六日の後」とあります。六日前に何があったのかと言いますと、イエスが死と復活について弟子たちに語られた場面でした。「エルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」(マタイ16:21)とイエスは弟子たちに語られ、ペトロの否定を強く諫められた場面です。


 この六日前の出来事がイエスの受難と復活を御ことばを通してお示しになりましたが、弟子たちはこれを理解しませんでした。そのようなことがあってはならないと考えたからです。その思いは私たちにもあります。イエスこそが救い主であると信じながらも、100%純粋にそれを信じているかと問われると、科学が進歩した今、たしかに死んだ状態から生き返るなどということはいくら信仰が与えられて尚、信じがたい出来事のように思える時があります。


 そのような御ことばに触れて戸惑っている弟子たちの数人を伴ってイエスは山に登られました。聖書において山とは、神が現れる場所として描かれています。そのような場所に行ったときに今日の福音の出来事が起こります。イエスの姿が変わるという不思議な出来事です。しかもそこにはモーセとエリヤも現れたと記されています。


 モーセとエリヤは、律法と預言を代表する人物として覚えられています。その二人と語りあっていたのです。この語りあいの意味が大切なのです。なぜならば、イエスが、この二人と語られているということは、イエスがこの二つの事がらの律法の完成者であり、預言の実現者であるということをお示しになったのです。主イエスは、このために来られたのだとお示しくださったのです。


 私たちは言によって生かされています。それを福音と言い、この言に力づけられ、希望を与えられています。しかしそれだけでは人は信じることができないほどに心が頑ななのです。よい言葉を並べて励ますことは誰にでもできます。しかし、それが言葉だけに留まるならば、いくらいい言葉を並べても、そのうちにこの人は言葉だけの人だと信用を失いますし、苦しみ、悲しみ、嘆きの中にある人はその人から離れていくことでしょう。


 神は、そのような方ではありません。心が頑なで、神を信じようとせず、時には拒みさえする私たち、苦しみ、悲しみ、嘆きなど闇の中に置かれたような思いを抱きながら生きざるを得ないような私たちをいつも心に留め、福音を語り掛けてくださるだけでなく、具体的に働いてくださる方なのです。それが十字架の死と復活の出来事です。しかもそれは、超人的な存在としてではなく、私たちの信仰告白の通り、私たちと同様に人となられ、苦しみを受けられた。私たちに深い共感と憐れみをもって臨んで下さるのです。


 受難と復活の栄光を神は私たちにお示しになったのです。イエスとは、神の栄光を受け、顕す方であり、この光を世に輝かせる方であると語られているのです。そして、神は「これに聞け」と語られます。この方の言葉こそが真実であり、神の御心を顕す言葉だと言われています。


 それでも私たちは先ほども申し上げたように心が頑なで聞き従えないという現実があります。しかしながら、神はそのような私たちにもかかわらず「これに聞け」と命じられているということは、あなたはあなた自身では救い、平安、平和などに至ることはできないが、この方にはできるというメッセージが隠されているのです。この方が、あなたの罪深さを負い、担い、私たちに代わってその罰を受ける方であると語るのです。


 神の御前において罪人に過ぎない私たちに光を与え、私たちの死すべき命を照らし出してくださる光が輝いています。この方の語りたもうた言が真実であり、この方の行いが私たちをお暗き命、死の闇の歩みに光を灯し、救いへと導く方であるということを覚えてまいりましょう。水曜日には四旬節を迎えます。十字架への道をイエスが歩み始める時を覚える備えとして、何故この方が十字架へと歩むのか、その意味とは何か、その意味を深く知るようになるためにこの変容の出来事が与えられているということを心に留めて備えてまいりましょう。


 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

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