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ltnishinomiya

2月28日(四旬節第2主日)の式文と説教

ホームページをご覧の皆さま


主の御名を讃美いたします。


緊急事態宣言の解除に伴い、来週3月7日から礼拝堂にご一緒に集っての礼拝を再開いたします。どうぞご予定ください。

その際には、手洗いうがい、手指の消毒、検温、席の間隔を空けての着席にご協力ください。


先週の月曜日に甲東園にある関西学院教会前にある梅園に梅を見に行ってきました。

梅と言っても色々な種類があるのですね。南高梅くらいしか知らなかったのでびっくりしました。


さて、四旬節第2主日のお知らせです。

イエス様の十字架への道程を覚えながら過ごすこの時、ご一緒に神様の御ことばに聴きながらどのようにこの時を送ればよいのか教えていただきましょう。


本日もオンラインでの中継をいたします。 以下の「日本福音ルーテル西宮教会 - YouTube」という文字を10時20分頃にクリック(選択)していただければご覧になれます。 それぞれ置かれた所で神様の御ことばの恵みに与かってまいりましょう。 日本福音ルーテル西宮教会 - YouTube


牧師



礼拝式文 四旬節第2主日

1. 前奏 (神様への思いを向ける準備をいたしましょう) 2. 祝福の挨拶 司式)父と子と聖霊のみ名によって  会衆)アーメン 3. キリエ  司式)主よ、憐れんでください。      会衆)主よ、憐れんでください。 司式)キリストよ、憐れんでください。  会衆)キリストよ、憐れんでください。 司式)主よ、憐れんでください。      会衆)主よ、憐れんでください。 4. 主日の祈り 全員)神様。あなたは、御子の苦しみによって、死と辱めの十字架を、私たちを生かす手段としてくださいました。私たちが主の十字架に栄光を見いだし、御子のゆえに恥と損失を受け入れることができますように。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン 5. 聖書朗読 福音書 マルコによる福音書 8章31節‐38節 (新)77頁 イエス、死と復活を予告する 8:31それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。32しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。33イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」34それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。35自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。36人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。37自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。38神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」 6. 讃美歌 66番(教会讃美歌)



7. 説教 「神の言葉を誇る」 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 主は、アブラハムとサラの子孫から王が現れるという約束をしてくださいました。マタイ福音書の最初に系図が書かれていますが、まさにその通り、イエスは私たちの王であり、主の約束はこのイエスによって成就したことを顕しています。 さて、アブラハムとサラが諸国民の父、母となったのは、なぜであったでしょうか。遠い異邦の地の年老いた夫妻が子孫の内に王が現わされるという祝福を受けたのは何故だったでしょうか。 それは、「アブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされた」(ローマ4:13)と今日の第二日課でパウロが証している通りです。彼が人間的に優れていたから、力強かった、金持ちであった、容姿端麗、知性に優れていたということではありません。アブラハムが父祖とされたのは、その信仰の故でした。 彼の信仰が彼を義としたのです。アブラハムは九十九歳まで正妻のサラとの間に実子が授かりませんでした。それ故に、サラはハガルをアブラハムの床に行かせてイシュマエルが産まれました。しかし神は、愛する正妻との間に子供など望むべくもない状況の中でイサクを与えると約束してくださり、その約束を実現してくださいました。 パウロが「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神」(ローマ4:17)と語っているように、アブラハムには希望が潰えていました。存在していない正妻との間の実子を望んでも齢九十九を数える老人に何が出来ようかと思っていたに違いありません。もし、アブラハムがその人間的な限界に絶望を抱き、神の約束、すなわち神の御ことばを信じることが出来なければイサクは与えられなかったでしょう。 しかし彼は、神の約束を受け入れ、従い、信じていきました。そして、サラとの間にイサクを与えられたのです。この約束を実現させてくださる神への信仰が彼を喜びと希望に溢れさせたのです。私たちは疑う者です。ましてやアブラハムの立場になって考えてみれば九十九歳と九十歳の夫婦に子どもが与えられ、生まれるなど信じられません。あり得ないことだと考えるのが通常の思考です。 この不信仰に対してイエスは「「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」と厳しく叱責されます。イエスは私たちが人間的な思いや理性の虜とし、この世的な観念や通念に支配させ、神を見させようとしないサタンの力に支配されている人間の姿を浮き彫りにします。 「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」などと誰も信じられない出来事を信じよと語り掛ける神の福音に心から聴き従い、信じることのできない私たちの姿を今日の死と復活の予告とアブラハムの姿から教えられているのです。 初めに述べましたように神はアブラハムの子孫から諸国民の王を与えると約束してくださっています。それはダビデでありましたし、また旧約の預言者たちが祖国イスラエルが滅ぼされた今、再びダビデのような王が現れると語っていました。イエスの時代、この預言がイスラエルの人々にとっての希望でした。現状の辛酸、苦難、不安の時を打破する王が現れることを信じて待っていたのです。 「王」と語られていますから、私たち人間は力強さを求めます。政治的にもリーダーシップを発揮し、人々を魅了するような王、それが魅力的で素晴らしい王だと考えます。実際ダビデもそういう王でした。戦争においては連戦連勝、政治的にも優れていました。また信仰においてもバト・シェバの件で大きな罪を犯しましたが、人々から尊敬されていましたし、神はこの罪の出来事をも御心に留め、ソロモンという跡継ぎを与えました。 いずれにしてもダビデの時代、イエスの時代、現代に限らず「王」というキーワードにおいて私たちが求める者やイメージは似たり寄ったりです。しかしながら、神が私たちに与えてくださった真の王は、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活する」方でした。 誰しもが王と認めるような方ではなく、むしろ苦しみを与えられ、排斥され、殺されるという何とも弱々しく王とは認めたくないようなイメージを私たちにお示しになりました。王であるはずの方が、苦しみを受け、排斥され、殺されるなどとは受け入れ難いのです。それ故にペトロはイエスをいさめました。それはまさに恥だからです。師と仰ぐ方、この方こそと希望を置く人がそのような末路は「恥」と考えてしまう人間の信仰の薄さ、罪深さが明かにされています。 そのような私たちの罪深さを明かにされて響いてくるのは、「わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。」というパウロの証しです。私たちは礼拝ごとに使徒信条やニケヤ信条によって信仰告白をしていますが、まさにこれは「わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じ」る信仰によって私たちの命が在るのだという告白です。 この世の力と言われている地位、権威、富、力ではなく、「苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ」た弱々しい死に服したかのように見える方を信じる信仰です。しかしながら、この方は死に服し、敗北したのではありません。確かに陰府に降られましたが「三日目に死人のうちから復活」されたのです。すなわち、死に打ち勝つ方です。それは誰も成し遂げたことのない御業でした。モーセも、エリヤも、ダビデも、誰一人として死に打ち勝つことはできませんでした。 しかし、ただイエスただお一人だけがそれを成し遂げてくださいました。「わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」とイエスが語られていることの逆説として「わたしとわたしの言葉を誇る者は人のこともまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を誇る」と言えます。 この弱々しい死に服したかのように思える十字架の苦しみを受けられたイエスを信じる信仰こそが、実は神の御目において誇る者とされる、私たちの罪深さも罪も在る、しかしこの方によって死が滅ぼされたこと、すなわち罪が滅ぼされたことを信じる時、私たちは父なる神の目に誇るべき存在とされる。そういう大きな命の転換が起こるのです。 四旬節にあって、私たちは日々キリストの十字架の御前に自分自身の罪を告白してまいります。自分がいかに神の御前に罪深いかを真っすぐに見つめる時です。そのような時に、滅びへと向かう絶望ではなく、十字架の苦しみと死の内に在る信仰の恵みと喜びをも示されています。この十字架を誇りとする。イエス御自身を誇りとする。福音を誇りとする信仰に立って歩んでまいりましょう。 そして、この混とんと不安が蔓延る現代にあって、真に信ずべき方が誰であり、この方こそが私たちを救い出し、希望に溢れさせてくださる方であることを伝えてまいりたいと思います。 いまこそ、私たち人間にとって必要な方であることを私たち自身も覚えながら、神、御子、聖霊なる神と御ことばを誇りとして、宣べ伝えていきましょう。 最後に主によって救い出された古の信仰者の言葉を聞きましょう。 「主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。」(詩22:31-32) 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 8. 信仰告白 (起立) 司式)使徒信条によって、信仰の告白を共にしましょう。 全員)天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。 そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。 聖霊を私は信じます。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。(アーメン) 9. 献金 10. 教会の祈り 11. 主の祈り (起立) 司式)祈りましょう 全員)天の父よ。 み名があがめられますように。 み国が来ますように。 み心が天で行なわれるように、地上でも行なわれますように。 私たちに今日もこの日の糧をお与えください。 私たちに罪を犯した者を赦しましたから、 私たちの犯した罪をお赦しください。 私たちを誘惑から導き出して、悪からお救いください。 (み国も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです。) (アーメン) 12. 祝福 (起立) 司式)主があなたを祝福し、あなたを守られます。 主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたに恵みを与えられます。 主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わります。 父と子と聖霊のみ名によって。 会衆)アーメン。アーメン。アーメン。 13. 後奏

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