2月3日の説教
- ltnishinomiya
- 2020年2月20日
- 読了時間: 9分
「辛いのに幸い」
主日の祈り
聖なる神様、あなたは心の貧しい人々、心の清い人々に御国を与え、この世の知恵を空しいものとされました。私たちのことばと行いを通して、この世が御子の生涯を受け止め、私たちが義に飢え渇き、平和を力強く求める心を与えてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
詩編唱 詩編15編
主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り、
聖なる山に住むことができるのでしょう。
それは、完全な道を歩き、
正しいことを行なう人。
心に真実の言葉があり、
舌に中傷をもたない人。
友に災いをもたらさず、
親しい人を嘲らない人。
主の目にかなわないものは退け、主を畏れる人を尊び、
悪事をしないとの誓いを守る人。
金を貸しても利息を取らず、
賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。
これらのことを守る人は、
とこしえに揺らぐことはありません。
本日の聖書日課
第1日課:ミカ書 6章1‐8節(旧)1455頁
主の告発
6:1聞け、主の言われることを。立って、告発せよ、山々の前で。峰々にお前の声を聞かせよ。
2聞け、山々よ、主の告発を。とこしえの地の基よ。主は御自分の民を告発し/イスラエルと争われる。
3「わが民よ。わたしはお前に何をしたというのか。何をもってお前を疲れさせたのか。わたしに答えよ。
4わたしはお前をエジプトの国から導き上り/奴隷の家から贖った。また、モーセとアロンとミリアムを/お前の前に遣わした。
5わが民よ、思い起こすがよい。モアブの王バラクが何をたくらみ/ベオルの子バラムがそれに何と答えたかを。シティムからギルガルまでのことを思い起こし/主の恵みの御業をわきまえるがよい。」
6何をもって、わたしは主の御前に出で/いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くす献げ物として/当歳の子牛をもって御前に出るべきか。
7主は喜ばれるだろうか/幾千の雄羊、幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を/自分の罪のために胎の実をささげるべきか。
8人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。
第2日課:コリントの信徒への手紙一 1章18‐31節(新)300頁
神の力、神の知恵であるキリスト
1:18十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。19それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さを意味のないものにする。」20知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。21世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。22ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、23わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、24ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。25神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。26兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。27ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。28また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。29それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。30神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。31「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
福音書:マタイによる福音書 5章1‐12節(新)6頁
5:1イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2そこで、イエスは口を開き、教えられた。
幸い
3「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
4悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
5柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
6義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
7憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
8心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
9平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
10義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
11わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。12喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
今日から数週間にわたって示されている福音の御ことばは、山上の説教と言われている箇所から神に聴いていきます。その最初のあまりにも有名な御ことばが、「幸い」と題された教えです。きっと皆さんも何度も、何度もこの福音をお聞きになったことがある方も多いと思います。そのような有名な御ことばを聴くとある程度自分自身の内に考えがありますが、どうぞこのひと時は、初めてこの御ことばに触れた気持ちで、また新しい一週間を生きていくうえで何を神がこのはじめの日に語り掛けてくださっているのか、ご一緒に神の御声に聴いてまいりましょう。
さて、パウロは「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」と語っています。十字架は、本来であれば死刑の道具です。イエスの時代の人々にしてみれば、十字架とは「死」を意味するものでした。キリスト者にとっては、十字架とは、救いのしるし、「永遠の命」の象徴として大切にしていますが、当時はまったく逆の理解だったのです。
その十字架から語られる御ことばがまさに今日の「幸い」という教えです。特に「義に飢え渇く人々」という御ことばについて見ていきたいと思うのです。この「義」という言葉の基本的な理解は、裁判官が被告を「義」とする。すなわちそれは無罪とするということです。極端なことを言えば、どんなに悪事を重ねたとしても、裁判で裁判官が被告人を「義」と判決を下せば被告人は「義」となるのですから「義」であるかどうかは、裁判官によるということです。
そして、この裁判官とは主なる神です。私たちは、神のみ前に立たされています。その神が私に問うてくるのです。「お前は義なのか」と。
この問いに私たちは「そうです」とは決して答えることのできないことを痛感します。「義であるか」と問われた時、一つでも何か後ろめたいことがあれば、神に対してハッキリと「そうです」などとは答えることのできない自分があることを思い起こすに違いありません。
しかしながら、その私を神は「お前を義とする」と告げるのです。神の御前にあって「義」であれない私です。本来であれば神の救い、恵み、喜び、賜物に与る資格もない私です。その私を神は「義」とし、神の救い、恵み、喜び、賜物といった神の善きものに与る者としてくださるのです。世の知恵では誰も太刀打ちできません。もしそのような裁判官が居れば、その職を罷免され、このような判決は馬鹿げている、不当だというに違いないのです。きっと「義」とされた被告人、すなわち罪人である私自身も驚くに違いないのです。
この幸いについても同じことが言えます。「義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。」と記されていますが、ギリシャ語の原文は「祝福されている、飢え渇く人々は。義に。その人たちは満たされる」という語順なのです。これは他のすべての「幸い」についても同じです。
この御ことばから示されている事がらは、神の「祝福」が先行しているということなのです。義に飢え渇くということは、自分自身が神の御前において「義」であれない深い自覚があるということです。
先ほども述べましたように、私たちは神の御前に立たされればたちまちに罪人であることを自覚せざるを得ません。その時、神から与えられる御ことばは「祝福されている」という宣言なのです。あなたには欠けがある。私の掟を満たしえない者でしかない。罪人でしかない。滅びる者でしかない。しかし、あなたは「祝福されている」と神はまず私たち一人ひとりに語り掛けるのです。
私たちは、誰一人として完全ではありません。それぞれにタレントがあり、長けているところもあれば、欠けているところもあります。持っている者もあれば、持っていない者もあります。私たちは、その中で欠けていること、持っていないことを嘆き、悲しみます。それゆえに自分には、自分たちにはそのようなことを成し遂げる力などないと思ったりもします。新しい事がらに対して臆病にもなります。
しかしながら、そのような私たちの心配や憂いをよそに神は「あなたは祝福されている」。私からの祝福によって義とされ、満たされると語るのです。あなたのあり様がどうであろうと、あなたを義に満たし、救いへと導く方は神ご自身であるということを明らかにしています。だからこそパウロの「神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」という証しが真実であると言えるのです。
先週、私たちの教会では総会が開かれました。今までにない事がらや途絶えていた事がらに取り組もうとしています。もちろん今までの大事なことは残さなければなりません。それでも、未知の事がらや、自分自身の分相応と思えない事がらに取り組むことには恐れがありますし、変化を私たちはどうしても嫌ってしまいますし、不安、時には悲しみも抱くことでしょう。
しかしながら、今日の「幸い」の教えで神が示してくださっているように、私たちの歩む道を、私たち自身がどうであろうとも神は先立ち、共に歩み、「あなたがたは祝福されている」という約束の中に生かされていることを覚えます。そうとは私たち自身は思えないような状況、境遇、出来事に際しても神の祝福があるという約束があるのですから驚くべきことです。
詩編には「わたしは心を尽くして主に感謝をささげ/驚くべき御業をすべて語り伝えよう。」(詩編9:2)という賛美の詩編がありますが、これはまさに今、宣教の道を歩む私たち自身の賛美の声でもあるということを思わずにはいられません。どのような事がらが待ち受けているのかは分かりませんが、この「幸い」から教えられる御心を留め、私たちの命のすべての時にあって、罪人であるにもかかわらず、神の祝福が先立ち、その道を歩む者とされているという喜びをもって歩んでいきましょう。世の知恵ではなく、神の御ことばこそが私たちの知恵であり、力であることを信じ、神と共に歩んでいきたいと思います。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
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