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ltnishinomiya

2月9日の説教

「神を証しする者として」

主日の祈り

主なる神様、あなたは限りない憐れみによって、求めるすべての者の祈りを受け入れてくださいます。聖霊によって、なすべきことを私たちに教え、恵みによって、それを行う力を与えてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン


詩編唱 詩編112編1‐9節

ハレルヤ。いかに幸いなことか、主を畏れる人。

主の戒めを深く愛する人は。

彼の子孫はこの地で勇士となり、まっすぐな人々は祝福される。

彼の家には多くの富があり、彼の良い業は永遠に残る。

まっすぐな人には闇の中にも光が昇る、

憐れみに富み、情け深く、正しい光が。

憐れみ深く、貸し与える人は良い人。

裁きのとき、彼の言葉は支えられる。

主に従う人はとこしえに揺らぐことがない。

彼はとこしえに記憶される。

彼は悪評を立てられても恐れない。

その心は、固く主に信頼している。

彼の心は堅固で恐れることなく、ついに彼は敵を支配する。

貧しい人々にはふるまい与え、その恵みのみ業は永遠に残る。

彼の角は高く上げられて、

栄光に輝く。


本日の聖書日課

第1日課:イザヤ書 58章1‐9節a(旧)1157頁

神に従う道

1喉をからして叫べ、黙すな/声をあげよ、角笛のように。わたしの民に、その背きを/ヤコブの家に、その罪を告げよ。

彼らが日々わたしを尋ね求め/わたしの道を知ろうと望むように。恵みの業を行い、神の裁きを捨てない民として/彼らがわたしの正しい裁きを尋ね/神に近くあることを望むように。

3何故あなたはわたしたちの断食を顧みず/苦行しても認めてくださらなかったのか。見よ、断食の日にお前たちはしたい事をし/お前たちのために労する人々を追い使う。

4見よ/お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし/神に逆らって、こぶしを振るう。お前たちが今しているような断食によっては/お前たちの声が天で聞かれることはない。

5そのようなものがわたしの選ぶ断食/苦行の日であろうか。葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと/それを、お前は断食と呼び/主に喜ばれる日と呼ぶのか。

6わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。

7更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。

8そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。

9あなたが呼べば主は答え/あなたが叫べば/「わたしはここにいる」と言われる。


第2日課:コリントの信徒への手紙 一 2章1‐12節(新)300頁

十字架につけられたキリストを宣べ伝える

1兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。2なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。3そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。4わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。5それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。

神の霊による啓示

6しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。7わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。8この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。9しかし、このことは、/

「目が見もせず、耳が聞きもせず、/人の心に思い浮かびもしなかったことを、/神は御自分を愛する者たちに準備された」

と書いてあるとおりです。10わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。11人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。12わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。


福音書:マタイによる福音書 5章13‐20節(新)6頁

地の塩、世の光

13「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。14あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。15また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。16そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

律法について

17「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。18はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。19だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。20言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」


【説教】

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


 先週から引き続いて本日与えられている御ことばの一つの部分は「地の塩、世の光」という教えです。この教えも大変有名なイエスの教えの一つです。また、後半の部分は律法についてイエスが明らかにしてくださった御ことばです。これらの言葉を通して神が何を私たちに語り掛け、御心を明らかにし、福音を啓示してくださっているのかご一緒に聴いてまいりましょう。


 塩の効果について考えてみると、味付けは勿論のこと、保存にも大変重宝します。この風習は世界中にありますがユダヤの人々も、魚や肉を塩漬けにして保存食にしていたそうです。また、ユダヤでは分かりませんが、遺体を保存するためにも塩が用いられたりもしています。

 また、傷に塩を塗るという意味で用いられます。実は、傷に塩を塗ってから洗い流すと、塩の消毒作用で治りが早いとも言われていますが、いずれにしても傷口に塩を塗り込むととても沁みて痛いということはあります。


 第一日課に「喉をからして叫べ、黙すな/声をあげよ、角笛のように。わたしの民に、その背きを/ヤコブの家に、その罪を告げよ。」という御ことばが語られています。これは背信のイスラエルに対して神がイザヤに命じて、その罪を暴けと命じられた御ことばです。

 イスラエルの人々は当時堕落していました。神の御心に背き、神から離れていました。そのことに神は怒り、裁きを下すという預言をイザヤ書では繰り返し告げています。

 

この言葉を聴いた者には、この御ことばはどう響くでしょうか。主イエスが「すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」と告げられています。すなわち、それは律法が私たちにとってなくてはならない教えだということです。

 そして、その律法の働きとは、私たちの罪を暴くことであり、私たちを貫くことであり、罪人であるという現実を深く自覚することです。

 

 一方で私たちは福音という言葉を知っています。福音を通して神が私たちを時に慰め、励まし、癒し、希望に溢れさせてくださることを知っています。だからこそ福音は恵みであり、喜びです。

 この福音がなぜ私たちにとって恵みと喜びの源なのでしょうか。このことを抜きにしてしまうならばそれは空虚な言葉でしかないということに気をつけなければなりません。


 しかしながら、人は低きに流れます。それは信仰生活においても言えることです。一般論でいえば、褒めてくれる人、認めてくれる人に親近感や好感を私たちは持ちます。逆に厳しいことを言う人、痛い所を突いてくる人を遠ざけがちです。

 そうして楽な方へ、楽な方へと人は流れていきます。信仰生活においても、厳しい言葉を避ける傾向にあると私は思っています。厳しい御ことば、難しい御ことばについては読み飛ばしてしまう。教会生活でも厳しい方、難しい方は避けて、変化を嫌うところが教会にはあるのも事実です。今のままで良いならばそれで良いと思うのが人間の性です。


 しかしながら、神はイザヤに命じたように、その私自身の痛い所に塩を塗るように、私を痛めるのです。それが律法の働きです。先ほども述べましたように、神に対して罪を犯していることを暴き、私の心を貫くのです。律法を完全に守り切ることなど到底私にはできない。そうであるならば、私は罪人に過ぎないという深い自覚が福音の恵みを真の恵みとして受け取る発露となるのです。


 その自覚をしたときにこい願うほかないことを思い知らされます。この深い自己認識からくる叫びを神は聴き届けてくださいます。「あなたが呼べば主は答え/あなたが叫べば/「わたしはここにいる」と言われる。」と約束されているからです。そこには、神の憐みがあります。神ご自身が私たちを傷つけ、刺し貫き、その神が傷ついて、深い罪の闇の淵に立つ者を憐れんでくださるのです。


 すると「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」という御ことばは、私たちがファリサイ派や律法学者以上に清廉潔白な生活をして、律法を守ることによって「義」が優るのではないということに気が付かされます。この「義」は神の憐れみを通して実現するのです。


 そして、その憐れみのしるしがイエスの十字架です。イエスが私たちに代わってその罪を負い、十字架の上で死んでくださったことによって贖い、罪の赦しを実現してくださった。律法を完成させ、救いを成就してくださったのです。ですから、優るのは、神の義しかない。そして、その義を神は律法によって罪に打ちひしがれ、絶望に追いやられた私たち一人ひとりを憐れみ惜しみなく与えてくださっているのです。


 翻ってこの神の御心に照らしてあらゆる営みを見ていく時に、私たちはこの真理を啓示された者として、イエスが教えられるように「地の塩」としての働きが与えられていることに気が付かされます。

 この世には神の御心でない事がら、出来事、状態が世の中にも、教会の中にもあります。そのことに気が付かされたのであれば、私たちは「喉をからして叫べ、黙すな/声をあげよ、角笛のように。わたしの民に、その背きを/ヤコブの家に、その罪を告げ」ることを恐れてはならないのです。


 そして、世が、時に教会が、他の兄弟姉妹たちが「日々わたしを尋ね求め/わたしの道を知ろうと望むように。」また「恵みの業を行い、神の裁きを捨てない民として/彼らがわたしの正しい裁きを尋ね/神に近くあることを望むように。」なるように働かねばならないのです。傷に塩を塗る、神の御ことばをもって刺し貫くために私たちは御ことばから教えられています。


 改めてお一人おひとりがご自身において、教会において、世間において神の御心に従うことができていないことを深く自覚しながら、その傷による痛みを知りましょう。しかしそれだけでなく、その傷に神がどのような福音を語られているのか証しし、すべてが神の御心に従い、真の神の恵み、喜びに与ることこそが喜びであることを覚えてまいりましょう。


 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

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