3月1日の説教(四旬節第1主日)
- ltnishinomiya
- 2020年3月21日
- 読了時間: 10分
「誘惑との戦い方」
主日の祈り
私たちを強くしてくださる主なる神様。善と悪との戦いは、私たちの内と外にあり、悪魔とあらゆる勢力が空しい約束で私たちを誘惑し、あなたに挑んでいます。私たちを御言葉に固く立たせ、罪に落ちても再び立ち上がらせてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
詩編唱 詩編32編
1【ダビデの詩。マスキール。】いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。
2いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。
3わたしは黙し続けて/絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。
4御手は昼も夜もわたしの上に重く/わたしの力は/夏の日照りにあって衰え果てました。〔セラ
5わたしは罪をあなたに示し/咎を隠しませんでした。わたしは言いました/「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを/赦してくださいました。〔セラ
6あなたの慈しみに生きる人は皆/あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。大水が溢れ流れるときにも/その人に及ぶことは決してありません。
7あなたはわたしの隠れが。苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもって/わたしを囲んでくださる方。〔セラ
8わたしはあなたを目覚めさせ/行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。
9分別のない馬やらばのようにふるまうな。それはくつわと手綱で動きを抑えねばならない。そのようなものをあなたに近づけるな。
10神に逆らう者は悩みが多く/主に信頼する者は慈しみに囲まれる。
11神に従う人よ、主によって喜び躍れ。すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。
本日の聖書日課
第1日課:創世記 2章15‐17節、3章1‐7節(旧)3頁
2:15主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。16主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。17ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
3:1主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」2女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。3でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」4蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。5それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」6女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。7二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
第2日課:ローマの信徒への手紙 5章12‐19節(新)280頁
5:12このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。13律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。14しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。15しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。16この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。17一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。18そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。19一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。
福音書:マタイによる福音書 4章1‐11節(新)4頁
4:1さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。2そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。3すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」4イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」5次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、6言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」7イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。8更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、9「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。10すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」11そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるよう に。
先日の灰の水曜日から教会暦は四旬節に入っています。主日を除く40日間を主イエスの十字架の贖いの備えとして悔い改めの日々を過ごしてまいります。その初めの主日のために与えられた福音はイエスが荒れ野で悪魔から誘惑を受ける出来事です。この出来事を通して神が私たちに語り掛けている真理は何かご一緒に聴いてまいりましょう。
「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。」と福音にあります。そこにある意思は、イエスご自身によるものではなく、霊の働きでした。この後に悪魔は主イエスに対して誘惑をしてイエスを陥れようとしますが、その誘惑に立ち向かう力はイエスご自身の力によるのではなく、霊によって立ち向かったということです。
さて、本日お読みした創世記もまた誘惑の出来事です。蛇が女に誘惑をし取って食べてはならない木から取って食べるように促し、男もまた女から食べた、堕罪と云われる人間が罪を犯す最初の出来事であり、罪という事がらにおいて重要な出来事です。この出来事をもって人は原罪を負い、私たちは毎週の礼拝式のざんげで「生まれながらに罪深く」と告白するのです。
その人自身の出自に関係なく、私たち一人ひとりがこの初めの罪の出来事のゆえに罪の内に生きるほかないことを聖書は伝えています。その発端は何かと問われるならば「賢さ」でした。神が創造された被造物の内で蛇は最も賢いものだったと書かれています。賢さが、人を罪へと陥らせたのです。
この「賢さ」とは何なのでしょうか。私たちにとって「賢さ」という言葉はどちらかというとポジティブにとらえる言葉の一つです。しかしながら、この創世記の御ことばの「賢さ」は、「ずる賢い」という意味での賢さです。すなわち、この御ことばは「あらゆる地の獣の中で最もずる賢いのは蛇であった」と語っているのです。
また、この蛇という言葉も、一つの示唆を与えられる言葉です。英語で一般的には蛇という言葉は「snake(スネイク)」ですが、ここで示されている蛇とは「serpent(サーペント)」という言葉です。蛇のような人、陰険な人、ずるい人という意味があります。
つまり、罪へ誘う力は実に狡猾な手段を用いて私たちを罪へと陥らせるのです。主イエスがそうであったように、空腹の者にはパンをもって、貧しい者には財産を、ルカには記されていますが力を欲している者には権威を、さらには神の御ことばを用いて私たちを罪へと陥らせようとします。罪へと誘う悪魔は、私たち自身が欲しているものをよく知っていて、そこに付け込んで私たちを神から引き離そうとするのです。
私たちは、荒れ野の中で私たち自身の欲と罪の力からあらゆる誘惑に遭います。また事が起こっている荒れ野は、死の象徴です。生きるのに色々な事がらにおいて困窮をします。出エジプトにおけるイスラエルの民も、自分たちの歩みの苦しさ、辛さ、惨めさから水はないのか、パンはないのか、私たちを殺すために神は荒れ野へ導いたのではないかと嘆きます。
私たちもイスラエルの民と同様に生きる中で様々な物を欲し、また神を試すような言葉や行いをしてしまいます。重い病気を負い、その期間が長ければ長いほど神ならばこの苦しみや痛みから解放してくれと願います。自分の境遇を省みて他者と比べ、なぜ自分はこのような境遇に生まれたのかと神から与えられた命を呪います。もっと財産があれば良いのにと考えることもあります。
このようにして悪魔は、あらゆる機会を狙って私たちを罪へ、すなわち死へと引き込むのです。
その私たちの生きねばならない場所に主イエスは、霊に導かれて入られたのです。霊が導かれたということは、そこに神の御心があるということです。そこでこそ神の福音が、福音として私たちの命を死の力、罪の力から救い出すと伝えています。そしてこの「霊に導かれて」という事がらがこの荒れ野を神の真の内に生きる模範を主イエスのお姿を通して示してくださっています。それは、荒れ野を歩むとき霊が共にあるということです。イエスは、私たちと同様に荒れ野を生きられ、誘惑に遭われ、悪の力の狡猾さに立ち向かわれましたがそこには神が共にあったのです。
すなわち神が、私たちを強め、悪の力のずる賢さに対して立ち向かってくださったのです。時に悪は、今日の福音にあるように神の御ことばすらも利用して私たちを貶めます。しかし神は、歪曲された御ことばの理解を改め、真理を示し、私たちをあらゆる誘惑から導き出す力そのものとなってくださっているのです。罪の力に対して、私自身ではなく神ご自身が立ち向かい打ち破ってくださるのだということを私たちはこのイエスが誘惑に遭われた出来事から知らされます。
そして、この誘惑の力に陥る私たちをイエスご自身がその身に引き受けているように、神は私たちのこうした弱さをご自身のものとしてくださっていることも教えられます。たしかに神は偉大な存在です。しかしその方は、ただ上から力を奮う権威者ではなくて、地の底、死の香りが充満し、何も生みださないと思われる荒れ野に来られ、私たちの思いを共にしてくださる方なのです。
その弱さをご存知の方が、私たちを救うために、私たちのために生きて働いて下さっているのです。その証し、しるしがイエスの十字架の死と復活です。神は人となられ、人間の弱さ、罪、死の力を受け取られた姿が十字架上の苦難のイエスのお姿なのです。そこにはすべての人の弱さ、罪、死の力が磔にされています。私の弱さも罪も死も、いま隣に居る人の、これまで出会ってきた人、これから出会う人のすべての罪と死がそこに在るのです。
そして、この方の死と復活がそれらのものに打ち克ったのです。弱さ、罪、死の力に敗北してしまった姿にこそ神の救いの恵み、光、憐み、賜物が示されているのです。「裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下される」(ローマ5:16)とパウロが証ししているようにイエスの十字架によって、私たちは無罪となる。罪を赦され、神の恵みと憐れみの内に生きる者とされているのです。
そこには罪の結果の死はなく、神の恵みによる永遠の命に与る喜びと祝福が置かれています。私たちは、罪を犯し続ける、罪人です。しかし十字架が、私たちを殺し、復活が死に服する私たちを造り変え、恵みの人、救われた罪人、義しい人としてくださるのです。
ですからあらゆる段階で私たちは、神の御力によって導かれ、恵みを賜り、愛と慈しみ、憐みによって生きる者なのです。罪の誘惑はなお私たちに襲ってきます。いつも死の力が私たちに働きかけている。その中で今日示されているように、その力に立ち向かうのは、私自身にあるものではなくて、神がその力に立ち向かい、勝利して下さっているのです。
四旬節の時、私たちは自分自身の罪と向き合う日々の中で、その現実に打たれながら、この罪人に過ぎず、死の力に抗うことのできない私という存在を受け止めつつ勝利される神の御力に委ねてまいりましょう。しかもこの神が罪の力に誘われてしまう私に霊の導きを与え、共に荒れ野を生きてくださる神が在るという恵みを思い起こし、心と体とを神に向けなおし、悔い改めと赦しの恵みを思い起こす日々として歩んでまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
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