昨夜の雷雨はビックリしました。
教会の近くでも雷が数回落ちたような音が轟いていました。会堂のガラスがビリビリと鳴くほどの衝撃でした。
雷嫌いの人にとってはたまらない夜だったでしょうけれども「春雷」とはまさに名の如くで、春が近づいていることを感じます。
先週から礼拝堂に集っての礼拝を再開しております。
明日は13時30分からの礼拝となります。礼拝は午後からですのでお間違えの無いようにお気を付けください。
礼拝後に速やかに総会を始めてまいります。
礼拝は引き続き短縮式文での礼拝となります。
ご来会の際には、手洗いうがい、手指の消毒、検温、席の間隔を空けての着席にご協力ください。
どうぞお気をつけてお越しください。
明日もライブ配信と合わせて礼拝の録画を礼拝後速やかにYouTubeに掲載いたします。
出席適わない方はどうぞそれぞれのところで神様の恵みに与かってまいりましょう。
以下の「日本福音ルーテル西宮教会 - YouTube」という文字を13時20分頃にクリック(選択)していただければご覧になれます。
それぞれ置かれた所で神様の御ことばの恵みに与かってまいりましょう。
日本福音ルーテル西宮教会 - YouTube
牧師
礼拝式文 四旬節第4主日
1. 前奏 (神様への思いを向ける準備をいたしましょう)
2. 祝福の挨拶
司式)父と子と聖霊のみ名によって 会衆)アーメン
3. キリエ
司式)主よ、憐れんでください。 会衆)主よ、憐れんでください。
司式)キリストよ、憐れんでください。 会衆)キリストよ、憐れんでください。
司式)主よ、憐れんでください。 会衆)主よ、憐れんでください。
4. 主日の祈り
全員)憐れみ深い神様。御子の辱めによって、あなたは堕落したこの世を引き上げ、死の絶望から私たちを救われました。あなたの光の中へ私たちを導き、私たちのすべての行いがあなたの愛を映し出すことができますように。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
5. 聖書朗読
福音書 ヨハネによる福音書 3章14節‐21節 (新)167頁
3:14そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。15それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。18御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。19光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。20悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。21しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」
6. 讃美歌 251番
7. 説教 「信仰が命を与える」 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 イスラエルの民は、主のエジプト脱出の御救いのご計画の中で自分たちの置かれている辛く、苦しい状況の中で「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」と神への信仰が揺らぎ、疑いを持ちます。 その時に神は蛇を送り、イスラエルの民をかみ殺させました。そのような中で民たちは「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。」と自分たちの罪を悔い改め、神への赦しを乞いました。ここで「非難して」という言葉が示されていますが、これは直訳するならば「話す」という意味です。この言葉は、神が人へ語り掛ける時にも使用される言葉です。 神の語り掛けは、私たちへの福音であり、救いへと導く言葉として語り掛けます。しかしながら、私たち人間の言葉は、罪を犯させる機会となるという真実を映し出します。何故ならば、一たび苦難や辛苦を味わうと神を疑う者であり、それを心に思い、口に出して神を非難するからです。私たちの言葉は、命へと導くのではなく、死へと導く罪の根源であると言えます。 だからこそ「焦って口を開き、心せいて/神の前に言葉を出そうとするな。」(コヘレト5:1)、「賢者の口の言葉は恵み。愚者の唇は彼自身を呑み込む。」(コヘレト10:12)、「口数が多ければ罪は避けえない。唇を制すれば成功する。」(箴言10:19)と知恵の書では、口は禍の元と言わんばかりに自分自身、人間の口、唇、舌、すなわち言葉によって人は神を冒涜し、疑い、非難し、罪に陥ると注意しているのです。 パウロもそのような私たちの本質について「生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」(エフェソ2:3)と語っています。私たちは本質的には神の怒りを受ける者であり、滅び行くものでしかありません。では、私たちは滅びるしかないのか。結論から言うならば、私たちは私たち自身では命へと歩むことはできないということです。 では、そのような滅びを待つ状態の私たちに対し、神はどうされたのかというならば今日の福音に示されているように「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)とあるように神の愛と慈しみによって生きる道を指し示されているのです。ここで重要なことは、「独り子を信じる」ということです。 私たちが私たち自身の力や知恵では命を得ることはできないと聖書は厳しく迫ります。同時にその滅びの道から唯一の逃れる手段は、「独り子を信じる」ことであると語るのです。では、「独り子を信じる」とは何か。その内実は何に示されているのかと言うならば、それはキリストの十字架の死と復活です。 「独り子を信じる」ということは、キリストの十字架の死による罪の贖いを信じ、復活によって罪は滅ぼされ、神と共に生きる者とされるということを信じる信仰です。 昔の素晴らしい出来事として崇め奉るということではなく、内実はあの時、荊の冠を被せられ、鞭打たれ、ゴルゴタの丘で十字架に上げられ、蔑まれ、すべての人から見捨てられ、死なれ、わき腹を槍で突かれた、弱々しいキリストこそが「罪深い私」を罪から贖いだし、死の力から解放し、永遠の命へと至らせてくださっている救い主であるということを信じることです。 すなわち、キリストの十字架は、昔話ではなく、今を生きる私に迫り、私のために生きて働き、語り掛ける神の福音であり、神の救いの出来事なのです。この恵みを私たちは受ける者でしかありません。口を開けば、「自分たちをエジプトから脱出させたのは死なせるためなのか」と神を疑い、非難し、神を侮辱します。十字架の場面であるように「神の子ならそこから自分を救ってみろ」と主を試してしまう者です。そういう罪深さを今日の第一日課の出エジプトのイスラエルの民の姿から映し出されます。 罪に対する代償が死である限り、私たちは死に服するものでしかありません。そのような罪に対して、律法にはその贖いについて様々に規定されています。しかしながら、それを忠実に行ったところで果たして自分が神から愛されるべき存在となり、救われる人間とされているかは知る由もありません。逆に自分がどれほど神の目に罪深いかも私たちには知る由もないのです。そういう意味で人間は義においても、罪においてもすべてを知りえないという限界があります。 そのような中でキリストは私たちのもとに来られたのです。それは、罪の贖いを成し遂げ、私たちを救い出し、神の愛の内に生かすためでした。 キリストが来られることによって神が御子を愛されるように、この何にも代えがたい貴い愛を私たちにも与え、私たちの命が慈しみと憐みと恵みの内に生かしているという喜びをもたらしたのです。 キリストは、この罪深い罪人の私を神の憐みと愛の内に生かす仲保者、仲介者、真の司祭として、十字架の死に服し、復活されたのです。この神の御子イエス・キリストの業を、福音を信じる信仰が私たちを真に生かすしるしそのものとされているのです。 重ねて申し上げます。私たちは罪深さにも、神の慈しみ深さもはかり知ることのできない者でしかありません。しかし、私たちが死に服するのではなく、生きるように望んでくださっている神の愛を知る「しるし」が御子の十字架であることを今日の福音を通して知らされています。 この御子の十字架は痛み、苦しみ、疑い、嘆き、悲しみと言った私たちが到底絶えることのできないことです。そしてこれらの神から離れさせる力に服し、出エジプトのイスラエルの人々が経験した神への疑い、非難を起こさせます。 それら罪へといざなう力そのもの、そして罪、死をキリスト御自身が負ってくださり、死んでくださることによってそれは贖われ、復活によってそれらの力にキリストが勝利してくださったと福音は語ります。 パウロが語っているように「生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。4しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、5罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによる」ことを覚え、神の救いは、「自らの力によるのではなく、神の賜物」であり、その発露は神の愛であることを覚えていきたいと思うのです。 この神の愛、神の愛のしるしであるキリストの十字架の死と復活を信じる信仰が真に私たちを贖い出し、死に向かって歩むほかなかった独りぼっちの私の手を取り、命へと導いてくださっています。だから私たちは今や神への信仰が与えられている喜びの内に歩んでいます。 そして、今、四旬節にあってこの信仰が与えられている感謝と、この信仰の恵みが私の罪の贖いのしるしであるキリストの十字架から今も溢れるほどに与えられていることを心に刻みたいと思います。いま、神の怒りも、神の義も知りえなかった私たち一人ひとりに神の愛が十字架を通して豊かに示され、罪の闇の内に生きる者でしかなかった私に光を照らし出しています。 残りの四旬節の間も、そして信仰生活を送る生涯にわたって神の救いの確信へと導き、神の愛を示す十字架を仰ぎ見ながら、愚かで、疑い深く、神を非難してしまう自分自身を悔い改めてまいりましょう。この信仰が私たちに命を与えるのです。 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 8. 信仰告白 (起立) 司式)使徒信条によって、信仰の告白を共にしましょう。 全員)天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。 そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。 聖霊を私は信じます。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。(アーメン) 9. 献金 10. 教会の祈り
11. 主の祈り (起立) 司式)祈りましょう 全員)天の父よ。 み名があがめられますように。 み国が来ますように。 み心が天で行なわれるように、地上でも行なわれますように。 私たちに今日もこの日の糧をお与えください。 私たちに罪を犯した者を赦しましたから、 私たちの犯した罪をお赦しください。 私たちを誘惑から導き出して、悪からお救いください。 (み国も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです。) (アーメン) 12. 祝福 (起立) 司式)主があなたを祝福し、あなたを守られます。 主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたに恵みを与えられます。 主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わります。 父と子と聖霊のみ名によって。 会衆)アーメン。アーメン。アーメン。 13. 後奏
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