3月15日の説教(四旬節第3主日)
- ltnishinomiya
- 2020年3月21日
- 読了時間: 12分
「まことの礼拝の喜び」
主日の祈り
憐れみ深い神様。いのちの水の泉であるあなたは、私たちの渇きを癒し、罪を洗い清めてくださいます。私たちにいつもこの水を与えてください。御子から溢れ出る真理の井戸から飲むことができるよう導いてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
詩編唱 詩編95編
95:1主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。
2御前に進み、感謝をささげ/楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。
3主は大いなる神/すべての神を超えて大いなる王。
4深い地の底も御手の内にあり/山々の頂も主のもの。
5海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた。
6わたしたちを造られた方/主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。
7主はわたしたちの神、わたしたちは主の民/主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。
8「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように/心を頑にしてはならない。
9あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。
10四十年の間、わたしはその世代をいとい/心の迷う民と呼んだ。彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。
11わたしは怒り/彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った。」
本日の聖書日課
第1日課:出エジプト記 17章1‐7節(旧)122頁
17:1主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。2民がモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言うと、モーセは言った。
「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」
3しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。
「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」
4モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、5主はモーセに言われた。
「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。6見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」
モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。7彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。
第2日課:ローマの信徒への手紙 5章1‐11節(新)279頁
5:1このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、2このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
3そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、4忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。5希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。6実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。7正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。8しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。9それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。10敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。11それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。
福音書:ヨハネによる福音書 4章5‐42節(新)169頁
4:5てそれで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。6そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
7サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。8弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。9すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。10イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」11女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。12あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」
13イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。14しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」15女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
16イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、17女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。18あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」19
女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。
20わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」21イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。22あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。23しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。24神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
25女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」26イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
27ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。28女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。29「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」30人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。
31その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、32イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。33弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。34イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。35あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、36刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。37そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。38あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」39さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。40そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。41そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。42彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」
【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるよう に。
四旬節の時を過ごしている私たちは、第一主日の日課である悪魔の誘惑の場面でも教えられているように、試練の時を過ごしているとも言えます。自分自身の中に存在する悪、悪魔の誘惑との戦いは、生涯の中で何度も、というよりも常に起こっている事がらです。この事がらを特に四旬節では戦きつつ、真摯に向き合い、自己吟味、省みる時としています。そして、この私の内に蔓延る悪のゆえに、私たち自身は罪を犯し、主イエス・キリストを十字架に打ち付けた張本人であることを深く自覚し、悔い改めていくのです。
しかしながら、真に柔らかい、真綿のような心で神の御ことば、御心、恵みを従順に受け取って行ければと願いながらも私たちの心は頑なです。その様子が今日の出エジプト記の記事では明らかにされています。また、この事がらについて神が怒っておられたということをご一緒に交読した詩編95編でも歌われています。この出来事のゆえに、エジプトを脱出したイスラエルの民、その中でも第一世代の人々は、カナンの地に入ることが叶わなかった理由が示されています。あのモーセですら、カナンの地に入ることは適わず、その直前で神によって天に上げられました。
それほどまでに人の心の頑なさは、神に対して罪を犯させる大きな要因なのです。この出来事をもとにした神の御ことばが他の箇所で記されています。
「わたしが今日命じる戒めと法と掟を守らず、あなたの神、主を忘れることのないように、注意しなさい。・・・心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。主はあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出し、炎の蛇とさそりのいる、水のない渇いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった。」(申命記8:11、14‐16)
このように、神は荒れ野での試練について語られています。この試練は、私たちを滅ぼすためではなく、幸福にするためなのであるとその御心を開かれています。このように教えられて尚、私たちは試練に遭うとたちまちに神の存在を忘れてしまうのです。その試練が大きければ、大きいほどに、神を忘れ、心を頑なにしてしまうのが人間の本性です。それが、神から与えられている事がらである、幸福にするためであると御ことばが明らかにしても、私たちはそういう態度を取ってしまい。神への信仰を失ってしまいます。
しかも聖書で描かれている人々は、エジプトの奴隷状態から救い出したのが神であるということを、身をもって体験したイスラエルの民です。それにもかかわらず、「わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。という不平不満を神に訴えてしまう。神を試してしまう。試練に囚われ、心を頑なにし、そこに示されている神の御心を聴こうとも、見ようともしなくなってしまう人間の姿をよく現わしている出来事です。そして、試練は、人の心を渇かせるのです。
潤っていれば、神にも他者にも、自分自身にも愛をもって接することができますが、心が渇くと、それができなくなります。丁度、いま新型コロナウイルスが蔓延し、世界中が非常に不安の中にあります。まさに試練の時と言ってもよいでしょう。そのような中でマスクの買い占め、転売して儲ける人、デマに振り回されティッシュペーパー、トイレットペーパーが店から無くなるという現象が起きています。これらのことが原因で、争いが起きている映像も流されています。
試練によって心が頑なになると、人の心は渇き、自己中心に陥るのです。神も、隣人も、信仰も何もかも脇において、自分の欲求に素直になってしまう。それが実のところ、イエスが経験された誘惑にあるように悪魔の誘惑だと知らずに、私たちは罪の状態に陥っていくのです。そこで気が付かされるのは、この岩が私たち自身の心を現しているということです。頑なで、潤いもなく、乾ききって、大きくなった岩、言い換えるならば罪の大きさ、重さと言ってもよいでしょう。
この頑なさが、主イエスを十字架に打ち付けたのです。この頑なさのゆえに、主イエスは神の御心に従って、十字架へと歩んでいるのです。その岩を神は打てとモーセに命じられました。「打つ」と言っても、これは「強打する」「殺す」という意味があります。つまり、私たちの罪によって頑なになった心は、神によって殺されるのです。しかしそれは、私たちが死ぬことによるのではなく、神ご自身が罪のゆえに殺される、死ぬことによって砕かれ、渇くことのない水によって罪を赦され、救いを得るのです。
神が私の罪を贖ってくださるという福音を与えられています。キリストによって私たち一人ひとりが渇くことのない水によって生きるようになるということです。私たちの体は、成人で約60%くらいが水分で出来ていると言われています。その10%が失われると死に至ると言われています。私たちの命にとってなくてはならない存在が水です。言い換えるならば水とは神の義と言ってよいでしょう。
神の義こそが私たち一人ひとりの命の源、基なのです。そして、それをすべての人々に示すためにキリストは十字架に架かられたのです。人の義あれば、私たちはたちまちに罪によって滅ぼされ、死に至ります。なぜならば、人は完全に義となることができないからです。しかし、神の義は、完全です。子の義によって私たちは罪人の状態から救い出され、永遠の命を得るのです。
そして、福音に示されているように、大切なことはわたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」とサマリアの人々が女に語っているように、福音を聴くことによって、信仰が与えられ、その信仰によってパウロが語るように義とされるのです。
私たちは、聴くのです。私たち一人ひとりに語り掛けられている福音に耳を澄まし、そこに示されている神の義をただ信じて受け取っていく。これが永遠の命の水を得るということなのです。イスラエルの民を思い出します。心頑ななままでは、福音も、神の義も、喜びも、平安も受け取っていくことはできません。自己中心に陥り、神を試すようになってしまいます。そうではなく、私たちは100%神によって満たされていくのだという信仰によって心を柔らかくして歩んでいきたいと思います。神によって頑なに固まった岩、罪を砕かれる。そのような四旬節の時をご一緒に過ごし、十字架の恵みを分かち合ってまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
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