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3月22日の説教(四旬節第4主日)

  • ltnishinomiya
  • 2020年3月25日
  • 読了時間: 14分

神の弟子

主日の祈り

主イエス・キリスト。私たちの祈りに耳を傾け、来てください。私たちのため、恵み深い生と死によって、心の闇に光をもたらし、聖霊の油を注いでください。父と聖霊とともに、あなたは永遠に唯一の主です。アーメン


詩編唱 詩編23編

95:1【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。

2主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い

3魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。

4死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。

5わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。

6命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。

本日の聖書日課

第1日課:サムエル記上 16章1‐13節 (旧)453頁

16:1主はサムエルに言われた。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」2サムエルは言った。「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。」主は言われた。「若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえをささげるために来ました』と言い、3いけにえをささげるときになったら、エッサイを招きなさい。なすべきことは、そのときわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい。」4サムエルは主が命じられたとおりにした。彼がベツレヘムに着くと、町の長老は不安げに出迎えて、尋ねた。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。」5「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください。」

サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招いた。6彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。7しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主はによって見る。」

8エッサイはアビナダブを呼び、サムエルの前を通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」9エッサイは次に、シャンマを通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」10エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。「主はこれらの者をお選びにならない。」11サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」12エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」13サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。

第2日課:エフェソの信徒への手紙 5章8‐14節 (新)357頁

5:8あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。9――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――10何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。11実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。12彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。13しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。14明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」

福音書:ヨハネによる福音書 9章1‐41節(新)184頁

生まれつきの盲人をいやす

9:1さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。2弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」3イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。4わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。5わたしは、世にいる間、世の光である。」6こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。7そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。8近所の人々や、彼が物乞いをしていたのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。9「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。10そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、11彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」12人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。

ファリサイ派の人々、事情を調べる

13人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。14イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。15そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」16ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。17そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。

18それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、19尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」20両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。21しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」22両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。23両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。

24さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」25彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」26すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」27彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」28そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。29我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」30彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。31神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。32生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。33あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」34彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。

ファリサイ派の人々の罪

35イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。36彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」37イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」38彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、39イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」40イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。41イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

【説教】

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるよう に。

 「彼らは彼に答えて、言った「お前は、完全な罪の中に生まれた。そして、私たちに教えるのか。」そして、彼自身を外に追放した。」と9章41節に記されています。

ここに私たちの驕り高ぶりが凝縮されています。私たちは、誰かと比して、自分を少しでも優位に見せようとします。その姿がこのファリサイ派たちの姿に噴出しているわけです。彼らは、自分自身を「モーセの弟子」と言っています。すなわち、それは自分が神ではないと言っているに等しいはずです。

 それにもかかわらず、彼らは癒された盲人を「完全な罪の中に生まれた」と断じているのは何故なのでしょうか。罪人かどうか、罪を犯しているかどうか、それを断じるのは、人ではなく神です。自分自身を「モーセの弟子」と形容しているにもかかわらず、この癒された盲人に対する態度はあたかも自分たちは神であるかのように振舞っています。

 そして、この言葉は、神の御心に反しておられることを、今日の福音におけるイエスの御ことばからも明らかです。それが「見えていない人々が見えるようになるだろう、そして見えている人々は見えなくなるだろう」という39節の御ことばです。39節で顕著に「見る(ブレポー)」という単語が4回繰り返されますが、9章にはこの単語が9度登場いたします。この一連の出来事において重要なキーワードであることは間違いありません。

 では、見ることとは何かということが問題となります。ファリサイ派の人々には、イエスが安息日に癒しの行為を行ったことが罪であるという人々と罪があればこのようなしるしを行うことなどできないという意見の者と二分していました。しかしながら、この議論に終止符を打つために彼らはファリサイ派であるというアイデンティティが先行していくのです。

 それは、律法を一言一句厳しく守り通すことによって神の救いに至るという考え方です。完璧であることによって神の恵みも祝福も受ける者とされていくのだという考えです。彼らはこの在り方こそが神を真に信仰していることだと考えていました。そこに固執していく余りに彼らにはある事がらが起こったのです。

 それは、自分たちの義さ、正当性を貫くあまりに、目の前で起こっている現実から目を背けていたのです。生まれつき盲人であった者の目が見えるようになったということについて神のしるしであって、そこに御心が示されていることを否定することによって、自分たちのアイデンティティ、正当性の整合が取れるからです。

 イエスの癒しの奇跡を認めるということは、自分たちのこれまでの生き方が否定されることです。安息日に規定されている労働をしてはならないからです。それは、「七日目はあなたの神、主の安息日であるから、どのような仕事もしてはならない。あなたも、息子も娘も、男女の奴隷も、牛やろばなどのすべての家畜も、町の中にいるあなたの寄留者も同様である。そうすれば、男女の奴隷も、あなたと同じように休息できる。」(申命記5:14)と書かれている通りです。

 しかし続く節には「あなたはエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が、力強い手と伸ばした腕で、あなたをそこから導き出したことを思い出しなさい。そのため、あなたの神、主は、安息日を守るようあなたに命じられたのである。」(申命記5:15)とあるように安息日におけるもっとも重要なことは、主の救いを思い起こすことです。

 これまで、今、これからも神が私のために救いを成し遂げてくださるという神の御業に思いを向けることこそが安息日の在り方です。しかしながら、ファリサイ派の人々は、そのうちに神の御業を想起し、その神への信仰に生きる喜びや神の御心よりも自分たちの思想、思考、行いを重んじ、神の御業を見なくなったのです。

 まさに、見えている人々は見えなくなるということが当てはまるのです。彼らは神の救いについて自分たちこそが、見えている者である。私こそが神の救いに与るに相応しい信仰の持ち主である。ましてや、盲目という病にある者や安息日に労働をする者などよりも義しい者であると考えています。しかしながら、実はこのことが罪なのです。

 なぜならば、このファリサイ派の在り方は、神との関係ではなく、人との関係の中にしか生きられなくなっている自分に気が付いていないからです。神を見ずに、人ばかりを見ているのです。あの人と比べて、この人と比べて、あのようなことをする人と、しない人と比べて、自分の義さをはかっているのですから、そこに神は存在しません。

 翻って私たちの姿を顧みてみるならば、私たち自身も人との関係の中に生きていますから、どうしても他社と比べてしまうことがあります。財産のあるなし、容姿について、家柄について、持っている病について、また信仰においてもそうでしょう。あの人は余り教会に来ないからとか、聖書を読んでいないから、集会に出席しないから、奉仕しないからと様々に教会の中にも人をはかるような物差しが存在しています。本当はそのようなものなどないのに、そういったものを人は造りだしてしまうのです。

 なぜならば、安心したいからです。人間の根底には、この思いがあります。どうしたら心を穏やかに生きられるのか。右往左往せずに生きられるのか。保証はどこにあるのか。それらを総じて安心とか平安というと思いますが、人はそれを人と人との関係性の中に見いだそうとするのです。そして、そこに勝手に自分たちで生み出した物差しをあてがって一喜一憂する。それらに本当に悩んでいる方も居られるのです。

 私たちの本当の平安、安心は、神との関係の中に生きることにこそあるはずです。この関係は、これだから、あれだから、これを満たしているからという物差しは存在しません。なぜならば、神の見つめたもう私たち一人ひとりは、等しく罪人でしかないからです。神との関係に生きられない。神の御前に何ひとつ義しくない者でしかない。どんなに人と比べたところで、それは何も意味が無いのです。

 その罪人である私たち一人ひとりを、神は愛し抜き、滅ぼすことよりも私たちが救いの平安を得ることを望んでおられる。だから神は時として私のアイデンティティや、存在意義と思っていたこと、正しさを打ち壊すのです。私のこれまでの根底を揺さぶる。ファリサイ派の人々は、揺さぶられました。しかし、そこに在る神の御心ではなく、自分たちの定めたものに基を置き、その後も揺らぎ続け、ついにはファリサイ派と言われているグループは消滅していきました。

 しかしながら、根底を揺さぶられ、変えられたことを真に神のしるし、神の出来事、神の御心に聴いた盲人は、神への信仰、神との関係の中に生き、神を見る者とされました。この四旬節の時にあって、私たちは神によってお一人おひとりの根底が揺さぶられることを厭わずに受け取っていき、そこに隠されている神の御心に信仰をもって目と耳とを澄ましていきたいと思うのです。

 今までご自身が考えてきたこと、物差しとしてしまっていたこと、比べてしまっていること、アイデンティティやステイタス、それを全部取り除く、不安の中に自分を置く時、真に頼るべき方、信じ、委ねる方を見出すのです。見えていなかった事がらが見えるようにされるそのような四旬節、悔い改めの時として十字架への備えの時を送ってまいりましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 

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