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3月29日の説教(四旬節第5主日)

「信仰と復活」


主日の祈り

全能の神様。御子はすべての人々を罪と死から解放するために世に来られました。聖霊の力を吹き込み、キリストにある新しい命に生かし、生涯、義をもって仕えさせてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

詩編唱 詩編130編

1【都に上る歌。】深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。

主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。

3主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。

4しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。

5わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。

6わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにもまして。

7イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに/豊かな贖いも主のもとに。

主は、イスラエルを/すべての罪から贖ってくださる。

本日の聖書日課

第一朗読;エゼキエル書 37章1‐14節 (旧)1357頁

37:1主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。2主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。3そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」

4そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。5これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。6わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」

7わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。8わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。

9主はわたしに言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」

10わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。

11主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。

12それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。13わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。14また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」と主は言われる。

第二朗読;ローマの信徒への手紙 8章6‐11節 (新)284頁

8:6肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。7なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。8肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。9神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。10キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。11もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。

福音書;ヨハネによる福音書 11章1‐45節 (新)163頁

ラザロの死

11:1ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。2このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。3姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。4イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」5イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。6ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。7それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」8弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」9イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。10しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」11こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」12弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。13イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。14そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。15わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」16すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。

イエスは復活と命

17さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。18ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。19マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。20マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。21マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。22しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」23イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、24マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。25イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」27マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

イエス、涙を流す

28マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。29マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。30イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。31家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。32マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。33イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、34言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。35イエスは涙を流された。36ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。37しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

イエス、ラザロを生き返らせる

38イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。39イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。40イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。41人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。42わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」43こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。44すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。45マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。

【説教】

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるよう に。

 人は誰しもが死を迎えます。それは人間の必然と言ってもよいでしょう。その時が訪れるのが遅くとも、早くとも誰でも必ずその時を迎えるのです。そういう人間の限界と言いますか、本質に直面するときに問題となるのは、いかにして生きるかということと、いかにして死ぬかということです。

 それは言い換えるならば、自分がどこに基を据えるのかということであると思います。

 キリストは、ラザロの死について「この弱さ(脆さ)は死に至るのではない。これは神の栄光のため。これは神の子がそれによって栄光を受けるためである」(ヨハネ11:4)と語られました。病と記されている御ことばは、原意では「弱さ」「脆さ」と訳すことができます。病という風にも訳すことができますが、今日はこのことを「弱さ」「脆さ」という観点から福音に聴いてまいりたいと思います。

 私たちは、いま新型コロナウイルスによって日常が脅かされています。私自身、電車に乗る機会が多いのですが、咳払い一つで疑いの視線を向けられるという体験をこの1ヵ月の間に何度も致しました。また、何か一つ大きな流れを変えるようなニュースが流れると、スーパーなどから色々なものが消えるという経験をしています。

 死が差し迫っているのではないかという状況が、人が人を陥れ、顧みず、ないがしろにするような事態が噴出するのかと思わされることばかりが続いています。その根源にあるのは、絶望です。望みがない状況の中で私たち人間は、その絶望、その結果招かれるかもしれない死の力に対してまことに「弱く」「脆い」者でしかないということを痛感せざるを得ません。

 しかしながら、キリストはこの私たちの「弱さ」「脆さ」が死に至るのではない、神の栄光のためであると語られています。何故でしょうか。そのことを知るヒントが今日のエゼキエル書の日課に示されているように思います。エゼキエルは、イザヤ、エレミヤと数えられる三大預言者の一人です。イザヤとエレミヤは、南ユダ王国の最期を見つめながら、そこに語られる神の預言、内容的には悔い改めを宣べ伝えた預言者たちでした。

 エゼキエルという預言者はどうであったかと申しますと、「1第三十年の四月五日のことである。わたしはケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々の間にいたが、そのとき天が開かれ、わたしは神の顕現に接した。2それは、ヨヤキン王が捕囚となって第五年の、その月の五日のことであった。」とエゼキエル書の冒頭に記されている通り、彼は既に滅びた南ユダからバビロン捕囚の初期を経験していた人です。

 すなわち、彼は大きな絶望を味わって間もない、しかも祖国から連れ出され、捕囚の地で生きねばならないという悲しみを覚えていた人でもあったのです。深い悲しみが彼の心を覆っていたでしょうし、またこのまま祖国に帰ることが叶わず死を迎えるばかりであるという思いをもって生きねばならない。そういう絶望を味わっていたのです。そのエゼキエルに主は臨み、御ことばを語り掛けました。

 その内容は、やはり悔い改めでした。神に対する背きは、その人自身の罪であって、親や子、他者は関係がないと神は語られます。それ故にその報いを受けるとも神は語られます。厳しい御ことばです。神は私たちの弱さからくる背きを見逃しません。その結果が死であっても、それは「お前の背きのゆえである」と語るのです。しかしながら、同時に神は「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか」(18:23)とも語られています。

 罪の結果の死を与えるのが神であるならば、そこから自分の信仰の弱さ、脆さを認め、神こそが主であると知り、悔い改める者を神は生かしてくださるのです。そして、それは私たちの理性を超える出来事であっても必ず実現される方なのです。それが今日のエゼキエル書の枯れた骨が生き返るという出来事であり、福音書における死んでいたラザロが生き返るという出来事です。

 私たちの理性では到底理解できない出来事ですが、しかしながら、神はこの出来事を通して、私たちが死んだと思っている事がらを通してでも、命を与え、生きる者へと造り変えてくださるとお示しくださっています。それは、肉体的な病や、事故などで死ぬということだけではなく、罪の結果の死においても同様です。罪によって滅ぼされたイスラエルが、神によって回復されたように、私たちの信仰の弱さによって、私たちは死にますが、神によって生きる者とされるのです。

 ラザロの復活においても、枯れた骨の復活においてもそこに示されている事がらは、神によって死に囚われている者が回復し、神から与えられる命を生きる者とされる。神が私に働いてくださるという真実を伝えています。死んでしまった者が、神に善い行いをして、赦されることができないように、罪人である私たちは死んでいるのですから、神に対して善い行いをもって報いていただくことは不可能です。

 そのような私たちを神は、滅ぼすと語られながら、一方でそのような弱く、脆い罪人が悔い改め、赦され、神の栄光を受けることを喜んでくださるのです。死の只中にある私たちの命です。しかしその命は、私たちの弱さ、脆さによって一度死に、神のお働きによって、新しい命、しかもそれは永遠の命という新しい在り方で与えられるのです。

 ですから、私たちの基は、神の恵みにあるのです。神から与えられる命の営みの中に今あること、それ自身が希望となり、力づけるのです。

 そうであるならば、いま私たちを取り巻くこの経験したことがないような恐れの中で、私たちが語るべき事がら、人々に伝えるべき事がらが何かというならば、それはこの死の恐れに取りつかれ、他者を蔑ろにし、傷つけ合い、搾取し合うのではなく、死の先に備えられている神の栄光、言い換えるならば神から与えられる希望、恵みが有る、そこに生きることを喜びしようということを伝えたいと思うのです。

 ですから、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」というキリストの問いかけに、私たちは「はい、信じます」とハッキリと答えてまいりたいと思います。弱さ、脆さをご存知の神が、この弱い私であっても、脆い私であっても信じる者に「死んでも生きる」と語り掛ける福音を受け取る喜びを共にしてまいりましょう。

 大きな困難の中で西宮教会においても本日の礼拝は各家庭で共に守るという判断をいたしました。共に集えない悲しみがあります。しかしながら、同じ御ことばに生かされ、死んで、新しい命を神から与えられている希望が与えられています。この希望を共に分かち合い、これからも共に神の恵みのうちに生かされている喜びを宣教してまいりましょう。弱く、脆い者を、神は造り変え、神の確かさ、強さの中に生かしてくださる。この恵みを基として歩んでまいりましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 

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