3月8日の説教(四旬節第2主日)
- ltnishinomiya
- 2020年3月21日
- 読了時間: 10分
「永遠の命を得るため」
主日の祈り
私たちの導きの主である神様。あなたは洗礼の水によって、あなたの子としての新たな誕生を私たちに約束してくださいます。御約束を信じる信仰を強め、聖霊によってあなたの命を高く世に掲げることができるようにしてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
詩編唱 詩編121編
1都に上る歌。目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。 /わたしの助けはどこから来るのか。
2わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。
3どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく守ってくださるように。
4見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。
5主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。
6昼、太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない。
7主がすべての災いを遠ざけて/あなたを見守り/あなたの魂を見守ってくださるように。
8あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。/今も、そしてとこしえに。
本日の聖書日課
第1日課:創世記 12章1‐4節a(旧)15頁
12:1主はアブラムに言われた。
「あなたは生まれた故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。/2わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。3あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。/地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」
4アブラムは、主の言葉に従って旅立った。
第2日課:ローマの信徒への手紙 4章1‐5節、13‐17節(新)278頁
4:1では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。2もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。3聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた。」とあります。4ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。5しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。
13神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。14律法に頼るものが世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。15実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。16従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼るものだけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。17「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。使者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。
福音書:ヨハネによる福音書 3章1‐17節(新)167頁
3:1さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。2ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」3イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」4ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」5イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。6肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。7『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。8風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」9するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。10イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。11はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。12わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。13天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。14そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。15それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるよう に。
私たちは四旬節の時を過ごしています。この時はキリストの十字架への道行きを覚えながら過ごす時です。日々、主イエスの十字架のみ前に自分自身を置き、その十字架の死が私自身の罪の故であったことを覚え、悔い改める時です。そのような中で与えられた御ことばはニコデモというファリサイ派の議員とイエスの問答からです。この福音を通して神が、私たちに語りかける御声が何か共に聴いてまいりましょう。
さて、ニコデモという人はどういう人だったでしょうか。聖書には、ファリサイ派で議員であったと記されています。ユダヤ人たちの議会のことをサンヘドリン、最高法院と言います。イエスの時代、この組織は、ユダヤ社会における最高裁判所のような機能をローマ帝国から与えられていました。71人で構成され、一人が議長、一人が副議長、議員69人という構成でした。
このサンヘドリンは、後々、イエスと対立するようになり、イエスを捕らえようと画策する組織であり、イエスを十字架の刑に処するようにピラトに進言した人々でもあったのです。そういうイエスと対立する組織の一人であり、ユダヤ人の指導者、ファリサイ派というユダヤ人たちの社会からするならば非常にステータスの高い人がイエスのもとにやってきたのです。
そのような人がイエスにわざわざ会いに来るということは驚くべきことです。なぜならば、イエスは「ナザレのイエス」と称されているように、イスラエルという国からするならば北部の片田舎です。しかも、ガリラヤ地方は、エルサレムから遠く離れていましたから、辺境の地とユダヤ人たちからも嘲笑されているような土地でした。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(ヨハネ1:45)とさえ言われるような地だったのです。
またイエスが伝道したのは30から33歳ころだったろうと言われていますから、青年とも言えるような年齢です。しかも、サンヘドリンの一員であり、指導者、ファリサイ派であったニコデモが、イエスを「ラビ」すなわち「先生」とイエスに遜って挨拶したのですから、そこには非常に強い思いをもってイエスのもとへ行ったという様子が伝わってきます。
この世的な物差しや視点で見るならばあり得ない光景です。かたやエリート、かたや噂になっていたとはいえ田舎の青年であり、その関係性は本来であればニコデモが上の立場のはずです。
そういう二人の問答は、始めから会話として成立していないことが読んでみると分かります。イエスは、ニコデモが「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」と述べたのちに「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」とお答えになりました。ニコデモは何かイエスに尋ねたわけではありません。
イエスがされることがらを見聞きして、神と共に在る方、神の子であるという一つの信仰を告白した言葉に続いて答えられたイエスの言葉は「新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」という救いについての答えでした。この受け答えの中で明らかにされていることは、キリストは私たちの思い、そして私たちの抱える不安や恐れをご存知であるということです。
ニコデモは、先ほどから言っているようにユダヤ人の中ではエリートです。彼の周囲の人々はきっと彼は神の救いに与るべき人、与るに相応しい人だと思っていたことでしょう。彼自身もそういう評価を知っていたことでしょうし、ファリサイ派というグループに属していましたから律法を厳守し、信仰的、行動的にも義しい人だという思いがあったはずです。しかしながら、それでもなお不安は残るのです。本当に神の救いに自分が与っているのか。そういう思いを拭いきれずにいる一人の信仰者の苦悩をニコデモの姿から教えられるのです。
そして、さらに言うならば、ニコデモがその後に「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」とその不安を吐露した言葉にあるように、彼は年老いていた。自分の死が近いことを自覚せざるを得なくなった時、その不安は更に大きなものとなって襲っていたのです。
そういう不安を私たちはキリスト者であっても、そうでなくとも持つ者です。自分がどこから来て、そのような役目があって、どこへと行くのか、それは人間の抱える普遍的な課題とも言えますし、この課題と私たちは生涯付き合っていかなければなりません。しかしながら、そのことをキリストは明らかにしてくださいました。
「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るため」にキリストは来られたのです。すなわち、神の救いとは、神ご自身の御業であるということです。そして、その根底には「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」ことによります。この愛は「アガペー」の愛です。何の見返りも望まない完全な愛における業であるとキリストは語るのです。
私たちは、自分の義さを、自分自身のあり様によって定めようとしますし、他者を計ろうとします。そうして、私は救われるべき者、あの人も救われる。しかしあの人は救われないだろうと考えます。ちょうどニコデモとその周囲にいる人々はそういう思いで救いについて考えていたのです。それは、救いという事がら以外にも言えることです。あの人は会社の重役だから、医者だから、教師だからと様々に実社会における立場や地位によってその人の重要性や必要性を問う傾向にあります。
その物差しから漏れた人は、自分は社会の中で不必要な人間だ、邪魔な存在だ、迷惑をかけてはならないなどと考えてしまいます。しかしながら、神はそのような物差しは捨てなさいと言うのです。そして、そのような物差しは不要であり、何があっても、何者だろうとも私はあなたをアガペーしている。あなたのために私はあなたのもとに来たのだと語り掛けてくださっているのです。
ですから、私たちはこのキリストの御ことばを信じることによってのみ魂の平安を得ることができるのです。アブラムは、齢70歳にして神から「私が示す地に行きなさい」と命じられます。自分が年老いていること、安定した生活があること、財産があること、人との繋がり、様々に不安や柵があったことだろうと思います。しかしながら、彼はこの神の御ことばを信じ、従いました。
そのことをパウロは律法ではなく、信仰によって義とされたとアブラハムのこの事がらについて述べているように、信仰が私たちを救いへと導くのです。この世的な立場、様々に人間を計ろうとする物差しをすべて捨てて、信仰こそが神の救い、本当の魂の平安、永遠の命の確信を得させるのだと証ししています。
四旬節の時にあって、私たちは自分がいかに神の御ことばに従い、信じ切れていないか、この世の通念、観念に支配されているかをニコデモとイエスの対話から思い知らされます。しかしながら、その中でキリストが「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」という御ことばこそが真である。私を救い出す堅い岩、砦であることを覚えるように福音を与えてくださいました。
頑なな心で神の救いを信じ切れずにいる罪人のために私たち一人ひとりのもとにキリストは来られ、信仰の歩みへと招かれているのです。この招きに応える一歩を踏み出してまいりましょう。キリストと共にある恵みを覚えながら新しい一週間を過ごしてまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
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