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4月11日(復活節第2主日)の式文と説教

ltnishinomiya

主の御名を讃美いたします。


残念ながら「まん延防止等重点措置」の地域に当教会の所在する西宮市が指定され、昨週は礼拝を続けていましたが、この一週間で新規感染者数も急増し、一週間の平均感染者数も267.9人と看過できない状況になってしまいました。

よって皆さんの健康を最優先に考え、非常に心痛い決断でございますが明日から5月2日の主日まで礼拝の再自粛をいたします。

慎重すぎる判断かもしれませんが、どうぞご理解ください。


どうぞ皆さんの健康と生活が守られますようにお祈りしています。


牧師


礼拝式文 復活節第2主日


1. 前奏 (神様への思いを向ける準備をいたしましょう)


2. 祝福の挨拶

司式)父と子と聖霊のみ名によって

会衆)アーメン


3. キリエ

司式)主よ、憐れんでください。   

 会衆)主よ、憐れんでください。

司式)キリストよ、憐れんでください。  

 会衆)キリストよ、憐れんでください。

司式)主よ、憐れんでください。  

 会衆)主よ、憐れんでください。


4. 主日の祈り

全員)全能の神様。私たちは主の復活を喜び祝います。私たちの真ん中におられるキリストの恵みによって、言葉と行いの全てで復活を証しできますように。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン


5. 聖書朗読

第一日課 使徒言行録 4章32節‐35節 (新)220頁

持ち物を共有する

4:32信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。33使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。34信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、35使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。


第二日課 ヨハネの手紙一 1章1節‐2章2節 (新)441頁

命の言葉

1:1初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――2この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――3わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。4わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。


神は光

5わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。6わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。7しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。8自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。9自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。10罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。

弁護者キリスト

2:2わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。2この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。


福音書 ヨハネによる福音書 20章19節‐31節 (新)210頁

イエス、弟子たちに現れる

20:19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」


イエスとトマス

24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」


本書の目的

30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。





6. 讃美歌 153番



7. 説教 「命を受けるため」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


私たちは、いま主の復活を覚える復活節の時をすごしています。そのような中で今日与えられている御ことばの全体を見渡してみますと、そのテーマは証をするということにあります。

何故ならば、使徒言行録には「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし」(33節)とありますし、第二日課のヨハネの手紙の中でも「わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝える」(2節)とある通りです。


証しをするということは、私たちの宣教において欠かすことのできない働きです。キリストの復活の後から多くのキリストの弟子、キリスト者たちによって連綿と紡がれ、信仰が継承されてきました。そして、その要は「キリストは、復活された」という復活信仰です。これ無くして私たちの信仰はありません。これが肝心要であり、私たちの信仰の中心です。復活を信じる信仰によって私たちは、神と一つとされているという大いなる恵みを受け、この喜びを証する者として立たされているのです。


しかしながら、この「キリストの復活」について誰も彼も勝手気ままに語るわけではないのです。「こういう人が居たから素晴らしいよ」という単純なものではありません。証しをするということにおいて重要なことは、今日与えられている福音の最後に「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」と記されているように、福音がその礎なのです。


すなわち、私たちが証しをする、復活のキリストを信じ、宣教をするということにおいて最も重要なことは、御ことばに聴くということです。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:17)というパウロの証にある通りです。私たちは、自分自身では神の証人になることはできません。


それは私たちが罪人であるという真実があるからです。罪人であるということは、私の口から出る言葉は、罪を犯させる、誘う罪の力に支配されています。では、どうしたらいいのかと言うならば、「大いなる力をもって主イエスの復活を証しし」とあるように、外から来る力によって復活の主を証しするのです。それが福音を聴くことによって起こるのです。福音が私たちのうちに宿り、私と一体となり、私を力づけ、信仰を与え、証人として立たせてくださるのです。


そのような神の召命を私たちは受けながら、福音に目を向けてみますと疑いを持ち、主の復活という理性によっては到底理解し難い出来事に際してキリストは私たちに「信じる者になりなさい」と招きを与えています。この招きに誠実に応えて行きたいと思うのです。


この与えられる働きによって、第二日課のヨハネの手紙に「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」(3節)とあるように、主との交わりが生まれます。この交わりの広がりがもたらす事はは人の集まりでありながら、その中心人は常に御父と御子イエス・キリストが居られるのです。


いま、私たちは新型コロナウイルスによって様々な事柄で制約されています。今日からまた暫くの間、ご一緒に集って礼拝の恵みに与ることができません。不安が襲います。私たちにとってなくてはならない集いすらも奪われるウイルスに命が翻弄されています。それは肉体的な危機だけでなく、霊的な危機であり、後者の危機の方が重く私たちの心を蝕み、脅威が襲っています。


「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」(詩編133:1)という詩編作者の讃美が本当に大きな喜びと恵みであることをつくづく覚えさせます。この困難と苦難が襲う状況にあって、全ての人の上に命の危機があります。存在そのものが消え入りそうな恐れがあります。肉体的、霊的な不安があります。そのような中で、福音において不安を抱え、復活に対して疑いを持つ弱い私たちの直中にキリストは来られ、立たれ、「あなたがたに平和があるように」と祝福を与えてくださっています。


この祝福に私たちは励ましを与えられています。主による交わりがあります。肉体的には離れており、目に見える形での集いの機会が奪われている状況ではございますが、信仰による絆で結ばれています。何よりも「交わり」という言葉がギリシャ語で「共有する」という言葉からできた言葉であるように、私たちの思いを共にしてくださっているキリスト、そし信仰を一にする兄弟姉妹が共にあります。


「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」ということは、肉体的、物理的な共同性としてではなく極めて信仰的、霊的な出来事として受け取っていく招きを与えられています。恐れがあり、不安があり、悲しみ、苦難があり、何よりも私たちの信仰の養いと、キリストとの濃厚な出会いの場である礼拝の場と時が失われて尚、私たちは絶望しません。何故ならば、復活の主が私たちのただ中に現れてくださっているからです。


失われていたものが、復活の主との出会いによって強められています。そして、この何もかもが奪われたような中でキリストを通して復活の命を受ける者、さらにこの豊かな恵みを証しし、宣べ伝える者とされています。キリストの群れの豊かさを私たち自身が心から喜び、この喜びを世に証ししてまいりましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。


8. 信仰告白 (起立)

司式)使徒信条によって、信仰の告白を共にしましょう。

全員)天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。

そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊 によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。

聖霊を私は信じます。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。(アーメン


9. 献金


10. 教会の祈り


11. 主の祈り (起立)

司式)祈りましょう

全員)天の父よ。

み名があがめられますように。

み国が来ますように。

み心が天で行なわれるように、地上でも行なわれますように。

私たちに今日もこの日の糧をお与えください。

私たちに罪を犯した者を赦しましたから、

私たちの犯した罪をお赦しください。

私たちを誘惑から導き出して、悪からお救いください。

(み国も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです。)

(アーメン)


12. 祝福 (起立)

司式)主があなたを祝福し、あなたを守られます。

主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたに恵みを与えられます。

主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わります。

父と子と聖霊のみ名によって。

会衆)アーメン。アーメン。アーメン。


13. 後奏


 
 
 

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