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4月12日(復活祭)の説教と式文

ltnishinomiya

新型コロナウイルス(COVID-19)の影響によりライブ中継(ルーテル西宮教会のフェイスブックページを御覧ください)での礼拝となります。


このための式文を作成しています。以下に式文と説教を掲載いたします。


礼拝式文 復活祭(イースター)主日 1. 沈黙 (神様への思いを向ける準備をいたしましょう) 2. 祝福の挨拶 司式)父と子と聖霊のみ名によって 会衆)アーメン 3. キリエ ※ご家族と交唱してくださっても良いですし、お一人の場合は 司式)主よ、憐れんでください。 会衆)主よ、憐れんでください。 司式)キリストよ、憐れんでください。 会衆)キリストよ、憐れんでください。 司式)主よ、憐れんでください。 会衆)主よ、憐れんでください。 4. 讃美唱 詩編118編1節‐2節、14節‐24節 118:1恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。 2イスラエルは言え。慈しみはとこしえに。 14主はわたしの砦、わたしの歌。主はわたしの救いとなってくださった。 15御救いを喜び歌う声が主に従う人の天幕に響く。主の右の手は御力を示す。 16主の右の手は高く上がり/主の右の手は御力を示す。 17死ぬことなく、生き長らえて/主の御業を語り伝えよう。 18主はわたしを厳しく懲らしめられたが/死に渡すことはなさらなかった。 19正義の城門を開け/わたしは入って主に感謝しよう。 20これは主の城門/主に従う人々はここを入る。 21わたしはあなたに感謝をささげる/あなたは答え、救いを与えてくださった。 22家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。 23これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。 24今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。 5. 主日の祈り 神様。あなたは私たちの贖いのために御独り子を十字架の死に渡し、栄光の復活によって死の力から私たちを解放してくださいました。私たちが日ごとに罪に死に、復活の喜びのうちに御子と共に永遠に生きることができるようにしてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン 6. 聖書朗読 第一日課 使徒言行録 10章34節‐43節 (新)957頁 第二日課 コロサイの信徒への手紙 3章1節‐4節 (新)371頁 福音書 ヨハネによる福音書 20章1節‐18節 (新)209頁

7.説教

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるよう に。

 新型コロナウイルスの影響によって今年のイースターは共々に集い、喜びを分かち合うことができないという悲しい現実があります。そのような中で迎えるイースターはどこか寂しさすらあるように思います。ウイルスという見えないものを相手にしている不安を抱えながら、まさに世界中の誰もが死の恐れに取りつかれている状態が今の私たちの姿であるということを思います。

 そのような中でイースターすなわち復活の出来事を覚える時が与えられていることは意義深いことであると感じます。なぜならば、この出来事を通して、死の力は克服されるからです。私たちは死に囚われている存在です。だからこそ復活の朝、主イエスの遺体が墓に無いことをマリアは「主が取り去られた。」と弟子たちに告げ、二人の弟子もまた「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」と書かれているのです。

 彼らはたしかに主イエスが十字架の上で死なれた姿を目撃し、そこから降ろして、墓に葬ったのですから、その亡骸の重さ、受けられた傷痕、流された血を見た人々です。十字架の出来事によって、すべての希望が潰えて、落胆、哀しみ、嘆きの暗闇に落とされていました。そのような思いの中で絶望に打たれていたのです。

 キリストはそのような死に囚われている私たちに「なぜ哀しんでいるのか、誰を探しているのか」と問いかけます。死によって私たちはキリストを見ることができなくなってしまう。そういう現実をキリストの言葉から教えられます。復活の喜びの日にあっても、私たち人間は神の御心を真に悟ることのできない限界を知らされます。

 しかしながら、そのような中でパウロの言葉が響いていきます。それは「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。」という証しであり、信仰の友を励ます言葉です。私たちは現実のことに対処する時に、どうしても自分たちの培ってきた経験や考えを用います。そうして、生きてきました。しかし、パウロは「上にあるもの」すなわち、神を求めよと語るのです。

 それでも、私たちはそう励まされても、一たび自分たちの通念、経験、知識が及ばないような出来事に直面すると非常に弱い存在でもあります。今日の復活の出来事においても、そして今わたしたちが置かれている状況においても同様のことが言えます。

 自分たちの未経験の出来事というのは、ある面では死と結びついています。いわゆる人間の命の終わりの死が肉体の死であるならば、自分たちが対処できないような事がらは、存在の死と言えるのではないかと思うのです。

 そういう意味で、私たちは常に肉体的な死と存在の死の危険、恐れに晒されています。そして、それは私たちの終わりを意味します。その先がないように思えてならないと思わされるのです。マリアは、天使に会って彼らに再び「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」と語る言葉には、そういう肉体的、存在的な死に直面した人間の「分からない」という現実を描いているのです。

 そのような私たちに対してキリストが現れたのです。そして、「後ろを振り向くと」とあります。マリアは、死の象徴である墓の方向を向いていました。そこには闇の深淵、嘆き、哀しみ、人の限界、終わりがありますが、キリストが現れたのは、背後、すなわち墓の外です。そこは命であり、生のあるところです。キリストはもうそこには居られないのです。

 狼狽えるマリアは、その人がキリストだと分からなかったのです。しかし、キリストが「マリア」と呼ぶと、マリアはその方がキリストであると気が付きます。ここに復活の恵みがあります。すなわち、死の恐れに取りつかれ、終わりと思えるような状況、思いに囚われている私たちに神は、私たち一人ひとりの名前を呼んでくださり、その恐れから来るありとあらゆる思いから引き上げてくださるのです。

 ここで知らされていることは、十字架はたしかに私たちの罪の贖いのしるしとして覚えられていますが、もしキリストの生涯が十字架の死で終わっていたのであれば、私たちの信仰は無意味であったということです。しかしながら、十字架が罪の贖い、赦しのしるしとして信じられているのは、何故か。それは、復活があるからです。

 罪に死にたもうたキリストの十字架、その先に復活の命がある。十字架に示された神の愛の出来事は、十字架で終わっていたら理解されなかった。マリアも、弟子たちも失意のうちに終わって、キリストの御業を宣べ伝えるようなことはしなかったでしょう。しかしながら、十字架の死が宣べ伝えられているのは、キリストが復活されたからです。すなわち、キリストの復活と十字架は、相反する出来事のようで決して切り離すことのできない神の出来事であり、十字架の死があるから復活の喜びがあり、またその逆も然りなのです。

 マリアは、キリストが名前を呼ぶことによって死が死で終わるのではなく、その先にある神から与えられる命、キリストが死者の中から復活されるという福音を受け取ったのです。そして、キリストは、そのように復活信仰に生きる者に「わたしの兄弟たちのところへ行」きなさいと語られるのです。キリストは、主です。しかしながら、主である方が、私たちを「兄弟たち」と言ってくださる。

 そういう親しい結びつきの中で生かし続けてくださる事を証ししています。そして、『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と伝えなさいと語ります。キリストの父は私たちの父となり、キリストの神が私たちの神とされるのです。

 この命の源である方との深い結びつきによって私たちは死が終わりではなく、その先にある神から与えられる愛と憐れみに溢れた神と共に永遠に生かされているキリストの姿を見出し、そこに生きている私たち自身の姿を見る者とされるのです。

 死は私たちを分かつ力ではなくなるのです。死が終わりではなくなるのです。私たちは今、大変な危機の中にあります。ご一緒に集うこともできない、親しく食事をすることもできない、咳払い一つで疑いの目を向けられるこの時にあって、私たちの生の土台がガラガラと崩れ去る。肉体的、存在的な死が蔓延する中で、そうではないということを教えられます。

 今こそ私たちはキリストの復活を告げ知らせる者、死が分かち、死が終わりではないことを告げ知らせる者として遣わされていることを覚えていきたいと思います。「キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。」というパウロの証しにあるように、この世の事象に囚われるのではなく、神の御国、神の御心、神の御ことばを求めながら、復活の喜びが今も、これからも私たちに豊かに与えられ、私たちを希望に溢れさせることを覚えていきたいと思います。

 最後にパウロの「37わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。38わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、39高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:37‐39)という言葉を思い起こしながら、復活の希望とこの希望を与えてくださる神の愛を覚える言葉を心に刻みたいと思います

 今こそ神から与えられる希望に与り、その希望を語る者として隣人のもとへと行き、「わたしは主を見ました」、すなわち神の愛、憐み、希望を見た、主は生きておられるのだと力強く告げ知らせてまいりましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

 

8. 信仰告白 司式)使徒信条によって、信仰の告白を共にしましょう。 全員)天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。 そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊によってやどり、お とめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。 聖霊を私は信じます。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。(アーメン) 9. 教会の祈り ・みことばへの応答 ・新型コロナウイルスの一日も早い収束を覚えて。 ・西宮教会に集う方々を覚えて ・生活に不自由を覚えている弱められた人々を覚えて 10. 主の祈り 司式)祈りましょう 全員)天の父よ。 み名があがめられますように。 み国が来ますように。 み心が天で行なわれるように、地上でも行なわれますように。 私たちに今日もこの日の糧をお与えください。 私たちに罪を犯した者を赦しましたから、 私たちの犯した罪をお赦しください。 私たちを誘惑から導き出して、悪からお救いください。 (み国も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです。) (アーメン) 11. 祝福 司式)主があなたを祝福し、あなたを守られます。 主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたに恵みを与えられます。 主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わります。 父と子と聖霊のみ名によって。 会衆)アーメン 12. 沈黙

 
 
 

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