4月14日 枝の主日説教ltnishinomiya2019年4月27日読了時間: 9分「一番弱い王様」 本日の聖書日課第1日課:ゼカリヤ書9章9‐10節(旧)1489頁9:9娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。 10わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。第2日課:フィリピの信徒への手紙2章6‐11節(新)363頁2:6キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。9このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。10こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、11すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。福音書:ルカによる福音書19章28‐48節(新)147頁19:28イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。29そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、30言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。31もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」32使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。33ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。34二人は、「主がお入り用なのです」と言った。35そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。36イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。37イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。38「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」39すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。40イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」41エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、42言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。43やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、44お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」45それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、46彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』/ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」47毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、48どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。【説教】 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 四旬節最後の一週間を今日から私たちは過ごしてまいります。この一週間を聖週間と言い、イエスが十字架のご受難を受けるまでの一日、一日を私たちは、み言葉、悔い改め、祈りをもって過ごしていくのです。その聖週間のはじめに与えられている福音は、イエスのエルサレム入城の場面です。この神から与えられているみ言葉を通して、ご一緒に聖週間のはじめの時、今ここに示されている福音は何か聞いてまいりましょう。 本日の福音の場面を想像してみますと、その雰囲気は異様なまでの高揚感に人々が満たされている様が伝わってきます。弟子たちの誰もがイエスが子ロバに乗ってこられる姿を見て「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」という讃美をもってイエスを迎えているからです。エルサレム入城という場面ですから、それは言うなれば凱旋歌のような様相を呈しています。 なぜそのような讃美をもってイエスをエルサレムに迎えたかというならば、「自分の見たあらゆる奇跡」(37節)を思い起こし、いよいよ自分たちが師として仰ぎ、この人こそが神が約束された救い主であるという確信を抱き始めたからかもしれません。当時、イスラエルは、ローマ帝国という強大な国の支配下にありました。宗教の自由は認められながらも、重い税の負担など、その生活は苦しさを覚えなければなりませんでした。また、神に選ばれた民、かつて権勢を誇ったイスラエルという自尊心がずっと心の内で燻ぶっていたのです。 そのような中で彼らイスラエルの人々の心の支えは、神が再び救い主を与えてくださるという約束でした。この約束を信じ、ずっと待ち望んでいたのです。かつてのイスラエル王国が滅ぼされたのが紀元前720年代でしたから、それほどの期間、彼らは神の約束を心の内に刻み、その方がいつ来られるのかと本当に首を長くして待っていたに違いないのです。そこへ現れたのがイエスだったのです。 イエスは、不思議な力をもって、様々な奇跡を起こしました。病の中にある者、障害を持っている人々、心に傷を負っている人々を事ごとに癒してきました。それは死んだと思われていた人まで目覚めるという驚くべき出来事にも弟子たちは際していました。また、5000人の給仕に代表されるような奇跡も目の当たりにしました。そういった様々な出来事を通して、彼らはこの方こそが約束の救い主であるという希望と喜びが溢れていったに違いないのです。 そういう確信を抱くにつれ、いよいよエルサレムに入城するというこの場面において、救い主であり、イスラエルの王となられる方が来られた!という喜びは、まさに自分たちのあらゆる状況を打破する方、勝利する方として来られたのだという喜びからくる讃美の声であり、彼らにとっては勝鬨と同じ意味合いとして口々に「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」という讃美が歌われたのです。しかしながら、そのような喜びと希望に溢れている人々を目にしながらイエスが語られたみ言葉は、対照的です。「エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、42言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。」というみ言葉です。周囲の人々は、喜びに溢れているにもかかわらず、イエスただお一人だけは、エルサレムのために泣いたのです。 泣いたという言葉について調べてみますと、原典であるギリシャ語聖書から紐解いていきますと、この言葉には「泣く」という意味に加えて、「悼む」「弔う」「嘆く」という意味があります。すなわち、ここでイエスが流された涙は、ただ悲しくて泣いたのではなく、そこに居るものが死んでしまった、死んでしまっているかのような深い悲しみを抱いておられるのです。 そのお姿は周囲の人々とはまったく対照的です。なぜそのようなお気持ちをイエスは抱かれたのでしょうか。それは続く「平和への道をわきまえていたなら」というみ言葉に示されています。ここで「平和」とは何かということが問題となります。イエスの語られた平和とは、完全な一致を意味します。そして、それは神の御心と人の思いとが完全なる一致を示す意味での平和です。しかしながら、この場面においては齟齬が生じているのです。 イエスの周囲の人々は、救い主とは、極めてこの世的な欲求によるものでした。自分たちを苦しめているローマ帝国を打倒してくれる力強い方、あらゆる悩みを解決してくれる方、良いものを与えてくれる方、それはある意味で栄光、希望、喜びといった陰陽で言えば「陽」の部分、光しか見ていないのです。しかもそれは、この世において光と思えるようなことばかりです。 しかしながら、イエスの示す救いとは、人の光を見るのではなく、人の闇、暗い部分を見つめることから示されるのです。それはイエスの言葉を借りて表現するならば「わたしは平和ではない」ということです。決して神の御心と完全に一致することができない現実を見つめるということです。ファリサイ派の人々がイエスに近づいてきますが、彼らは神から与えられる律法を一言一句守り、義しくあろうとするグループです。神からするならば彼らの律法の用法は誤りなのです。 律法とは、自分が義しくあろうとする規範としてではなく、いかに私という人間が、神の御心から離れ、反しているかということを深く自覚するために与えられているのです。つまり、今この時、イエスの周囲に居る人々は、自分自身が神のみ前において真に罪深い罪人であるということに無頓着、無感覚で、栄光の部分にばかり目を向けているのです。 しかし、神の栄光を真に恵みとして受け取るということは、自分自身の真に暗い部分、神の御心とまったく一致できずに自分の思いに命を費やしてしまう罪深さを見つめなければならないのです。そして、その罪深さを神に悔い改め、そのような罪深い自分を救い出してくださいという切なる願い、祈りをもって神の御前に立つのです。 そのような罪深い私たち一人ひとりを救い出すためにイエスはイスラエルに来られたのです。それは丁度、過越祭の巡礼の時と重なっていました。過越とは、神がイスラエルの民をエジプトの地において災厄から救われた出来事を覚える大変重要な祝祭の時です。その救いの出来事の備えの時が今日から始まる聖週間です。救いにおいて大切なことは、今日示されたように栄光を見るのではなく、まず自分が神の御心とまことに一致できない、平和ではないという真実を見つめ、その自分を神の御前に悔い改めることから始まります。 十字架の受難の日まであと数日の時、今日与えられた福音を心に刻みながら、神の救いの出来事を真の喜び、希望、栄光として受け取っていくことができるように、栄光にではなく、今一度、主の御前にある自分自身を見つめていく時として過ごしてまいりましょう。 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
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