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ltnishinomiya

4月18日(復活節第3主日)の式文と説教

主の御名を讃美いたします。


 新型コロナウイルスの状況は良くなるばかりか、悪くなるばかりで不安が募ります。皆さんはいかがお過ごしだったでしょうか。


 NHKで放映されていた草彅剛さん、吉田羊さんが夫婦役で主演している「ペペロンチーノ」というドラマを見ました。東日本大震災からの再生の物語でした。

 このドラマを見終わって改めて思わされることは、人は誰かと生きているということです。

 先日、橋本治氏の本に「『自分のことを考えろ』と言われて、『自分のこと』(しか)考えられなかったら?自分が『他人』の中にいて、『自分を考える』ということが、それを包む『他人』をも(こみ)にしてこのことであるということに気がつけなかったら、それは不健康だろう。」(いま私たちが考えるべきこと、橋本治著)という一文がありました。

 ドラマで終始夫と寄り添っていた妻が最後に実は震災で亡くなっていた事が物語の中で分かるのですが、夫は妻は今もここに居ると優しく語り、それを周囲の人々も受容していくという場面でした。

 何であれ大切な人を失うことの悲しみは他人には計り知れません。

 しかしながら、その方がその人自身であることに『他人』が内包され、その人にとって私もその一人であり、私にとってもその人が大切な『他人』であること、これを誰もが覚えていくことができれば、コロナに罹れた方の数字も、ミャンマーで亡くなった方々の数字も、入管で亡くなった方々も、実は誰かの『大切な他人』であると自ずと分かり、この『大切な他人』の命を守るためにどうしたらよいのか誰もが相応しい行動を取れるようになるのではないかと思わされました。


明日も10時20分からライブ配信をいたします。 以下の「日本福音ルーテル西宮教会 - YouTube」という文字を10時20分頃にクリック(選択)していただければご覧になれます。 それぞれ置かれた所で神様の御ことばの恵みに与かってまいりましょう。 日本福音ルーテル西宮教会 - YouTube

皆さんの命が守られますようにお祈りしています。 在主 牧師


礼拝式文 復活節第3主日


1. 前奏 (神様への思いを向ける準備をいたしましょう)


2. 祝福の挨拶

司式)父と子と聖霊のみ名によって

 会衆)アーメン


3. キリエ

司式)主よ、憐れんでください。

 会衆)主よ、憐れんでください。

司式)キリストよ、憐れんでください。

 会衆)キリストよ、憐れんでください。

司式)主よ、憐れんでください。

 会衆)主よ、憐れんでください。


4. 主日の祈り

全員)聖と義である神様。私たちを命の言で満たし、あなたの子としてくださり、御子の復活の証人として歩むことができるようにしてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン


5. 聖書朗読

第一日課 使徒言行録 3章12節‐19節 (新)218頁

3:12これを見たペトロは、民衆に言った。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。13アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。14聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。15あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。16あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。17ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。18しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。19だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。


第二日課 ヨハネの手紙一 3章1節‐7節 ( 新)443頁

3:1御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。2愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。3御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。4罪を犯す者は皆、法にも背くのです。罪とは、法に背くことです。5あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません。6御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません。罪を犯す者は皆、御子を見たこともなく、知ってもいません。7子たちよ、だれにも惑わされないようにしなさい。義を行う者は、御子と同じように、正しい人です。


福音書 ルカによる福音書 24章36節b‐48節 (新)161頁

24:36bイエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。37彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。38そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。39わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」40こう言って、イエスは手と足をお見せになった。41彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。42そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、43イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

44イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、46言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、48あなたがたはこれらのことの証人となる。

「異端者トマス」レーンデルト・ファン・デル・コーヘン作/1654年制作/油絵/カタラインコンベント博物館(オランダ)

6. 讃美歌 270番




7. 説教

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


 私たちは心に疑いを持つ者です。そして、今日の主日に与えられている詩編が示しているように「人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。」(詩編4:8)とあるようにこの世の実りを求めてしまう者でもあります。私たちはキリストがイザヤ書の預言を引用しながら「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。」と人間が人間自身から出るものや作られたものを崇めていると、私たちの不信仰を露わにしています。


 それは世俗の事柄で言えば、富や権力、地位、食べ物、家族、人によっては自分をよく着飾ることでもあり得るでしょう。そうして、人は神ならざるモノを神として崇め、大切にし、そしてそれらに囚われていきます。どれも生きるために必要なことのように思いますし、多くはなくても少しでも有していても良いものだと考えます。


 また、信仰の面においてもいつの間にか信仰が人の側のものになってしまっていることはたくさんあります。昨今、私たちのルーテル教会全体においても教会の未来について色々と話し合われています。中には自分たちの教会がなくなってしまうのでは無いかという不安を覚えている方々もおられます。牧師が少なくなってどうしたらいいか。財政的な逼迫などあげればキリがないほど私たちルーテル教会全体でも課題が山のように積まれています。


 そのような中で陥っている事がらは、私の教会が残るためにという自己保存的な考えです。他の教会がどうかは分からないけれど、兎に角自分が所属する教会が今後も残るように、私の教会に牧師が居てほしいという願いがあまりにも強い傾向にあります。それは確かに福音を宣教するために必要なことのように一見思え、正しいことのように思います。しかしながら、福音宣教はその教会だけに与えられている使命ではありません。この働きは全ての人に与えられている神からの召しです。


 つまり、私たちは世俗のことがらを遠ざけて色々と考えてしまいますし、教会の事柄を一見信仰的なことのようでその裏地が極めて自己保存に方向を向けてしまい、自分が生き残るためにという極めて世俗的な考えに陥ってしまうところがあるのです。

 それでいいのでしょうか。世俗を遠ざけて私はあなたと違う存在であるという自負心、私たちはキリストの教えのために他は分からないけど兎に角自分の教会を残していこうという一見信仰的に見えるような装いをしていくこと。どちらも間違っていると言えなでしょうか。


 何故ならば私たちは、どちらの世界で生きる者であったとしても罪人だからです。どんなに品行方正に見えても教会生活、信仰生活、社会生活あらゆる場面で罪を犯し続ける存在でしかありません。それを無視して、さも自分が正しい、正当なことを言っている、信仰的に当たり前のことを言ったり、行ったりしていると誰もが傲慢に陥っている姿を無視はできません。


 また、教会の成長も一見すればいいことと思えますが、いま私たちが陥っているのは数の論理であり、その内実を本当に求めているのかと思わされることがあります。教会だけに言えることではないですが、成長することが良いことだという考え方の限界にこの世も、教会も陥っているのが現状であり、誤解を恐れず言うならば、世も教会も、この世の「麦とぶどう」の収穫を求めてしまっているように見えます。もちろん、それらが悪いのではありません。私たちが陥ってしまっている事柄とは、本当にキリストが語りかけ、求めていることが何か真摯に自分を、自分たちを悔い改め、信じられなくなってしまっているのではないでしょうか。


 このように罪に陥り、迷い、疑い、自己保存を追求してしまっている私たちの姿を映し出されながら福音に目を向けてみますと、復活のキリストは、弟子たちに「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、46言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、48あなたがたはこれらのことの証人となる。」(24:45-47)と語りかけられています。


 私たちが神から与えられている召しは、「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」ということです。これはキリストの宣教の始めにおいても語られていることです。教会の本懐は教会維持、成長、自分自身の保存ではなく、「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」」ことです。それは大きなチャレンジを常に伴います。チャレンジすることはしんどいことです。


 だから人間はどこに所属するか、どこに在るか、帰属するか、色々な事柄で安定、安住を求めます。それは、イスラエルの民たちも自分たちの国を望み、求めた姿に映し出されています。しかしながら、このことによって彼らは国という形に固執し、権威に溺れ、自分たちが神に選ばれていると言う選民意識に囚われ、罪を犯し続けました。キリストの時代においても祭司長やファリサイ派、民衆たちだけでなく弟子の姿にも同様の姿が見られます。


 しかし苦難、困難、疎外、妨害をされながらキリストはご自身に与えられた働きのためにそのご生涯を貫き通されました。「人の子には枕する所もない」(ルカ9:58)とあるように一と所に滞在するのでなく旅をされながら悔い改めの宣教を貫かれました。そして、まさに自己保存とは対極をなす十字架の死によって、悔い改めを迫り、信じるように導かれました。キリストの十字架に留まりなさいと十字架の御姿を通して示されています。


 しかし始めに申し上げた詩編作者の言葉に戻り、人間の内実を見つめ、詩編の祈りの言葉に耳を傾けますと「それにもまさる喜びを/わたしの心にお与えください。」と祈り求めています。私たちは、いろいろなところに安住を求めて、この世のどこかにそれを求めます。「麦とぶどう」の収穫を喜び祝ってしまいます。そうではなく「それにもまさる喜び」を求めて生きたいと思うのです。


 形あるモノに囚われるのではなく、見えない恵みである福音に立ち、キリストを信じ歩む。そこにこそ「それにもまさる喜び」があるこを心に刻み歩み、この福音を大胆に宣べ伝えていきたいと思うのです。苦難の時代、宣教の難しい時代、縮こまってしまう時代、理性の時代にあって、見えない、どこにも属していない方、むしろ私たちの拠り所、それ自身になってくださり、この世にまさる恵みの源の許に宿り、信仰という見えない絆で結ばれた共同体として、形に囚われることなく主の福音の証人として、御子の名によって悔い改めるように世に声を上げてまいりましょう。この困難なチャレンジに共に福音に聴きながら、キリストの召しに服してまいりましょう。


 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。


8. 信仰告白 (起立)

司式)使徒信条によって、信仰の告白を共にしましょう。

全員)天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。

そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊 によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。

聖霊を私は信じます。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。(アーメン)


9. 献金


10. 教会の祈り


11. 主の祈り (起立)

司式)祈りましょう

全員)天の父よ。

み名があがめられますように。

み国が来ますように。

み心が天で行なわれるように、地上でも行なわれますように。

私たちに今日もこの日の糧をお与えください。

私たちに罪を犯した者を赦しましたから、

私たちの犯した罪をお赦しください。

私たちを誘惑から導き出して、悪からお救いください。

(み国も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです。)

(アーメン)


12. 祝福 (起立)

司式)主があなたを祝福し、あなたを守られます。

主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたに恵みを与えられます。

主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わります。

父と子と聖霊のみ名によって。


 会衆)アーメン。アーメン。アーメン。


13. 後奏

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