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ltnishinomiya

4月21日 イースター主日説教

「わたしの救い、復活の主」


本日の聖書日課

第1日課:出エジプト記15章1‐11節(旧)117頁

15:1モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。主に向かってわたしは歌おう。主は大いなる威光を現し/馬と乗り手を海に投げ込まれた。

2主はわたしの力、わたしの歌/主はわたしの救いとなってくださった。この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。

3主こそいくさびと、その名は主。

4主はファラオの戦車と軍勢を海に投げ込み/えり抜きの戦士は葦の海に沈んだ。

5深淵が彼らを覆い/彼らは深い底に石のように沈んだ。

6主よ、あなたの右の手は力によって輝く。主よ、あなたの右の手は敵を打ち砕く。

7あなたは大いなる威光をもって敵を滅ぼし/怒りを放って、彼らをわらのように焼き尽くす。

8憤りの風によって、水はせき止められ/流れはあたかも壁のように立ち上がり/大水は海の中で固まった。

9敵は言った。「彼らの後を追い/捕らえて分捕り品を分けよう。剣を抜いて、ほしいままに奪い取ろう。」

10あなたが息を吹きかけると/海は彼らを覆い/彼らは恐るべき水の中に鉛のように沈んだ。

11主よ、神々の中に/あなたのような方が誰かあるでしょうか。誰か、あなたのように聖において輝き/ほむべき御業によって畏れられ/くすしき御業を行う方があるでしょうか。


第2日課:コリントの信徒への手紙一15章21‐28節(新)321頁

15:21死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。22つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。23ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、24次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。25キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。26最後の敵として、死が滅ぼされます。27「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。28すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。


福音書:ヨハネによる福音書20章1‐18節(新)209頁

20:1週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。2そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」3そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。4二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。5身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。6続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。7イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。8それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。9イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。10それから、この弟子たちは家に帰って行った。

11マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、12イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。13天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」14こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。15イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」16イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。17イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」18マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。



【説教】

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


 四旬節の時、また聖週間においては、主イエスの十字架のご受難を覚え、神の御前に悔い改めの日々を共に過ごしてまいりました。今日は、イエスの十字架の死から三日目に起こった驚くべき出来事であり、私たちの信仰の基、源泉である主イエスの復活の恵みを覚える喜びを共にしております。真に嬉しい日であると心から思いますし、こうして皆さんとその喜びをみ言葉を通して分かち合う時が与えられていることは、素晴らしいことだとつくづく実感いたします。


 パウロは主の復活の出来事について「最後の敵として、死が滅ぼされます。」と証しをしています。私たちにとって「死」は、難攻不落の要塞であり、まさに敵として立ちはだかっています。しかしながら、どんなに医療技術が発展してもそれを克服することはできていません。IPS細胞といった医療技術が取り沙汰されて、生命倫理の問題などに足を踏み入れていますが、いくら医療技術によっても生まれたままの元の肉体は、そのままでは生き永らえることは適いません。ですから、私たちは本当に死を克服することはできないのです。


 しかしながら、パウロはキリストの復活を思い起こしながら「最後の敵として、死が滅ぼされます。」と証ししているのです。驚くべき神の御業が証しされていると同時に、私たちは今日このイースターの日をもってその出来事の目撃者とされている恵みの内にあります。

そのような中で本日は、マリアと復活のイエスの出会いの出来事から聴いていきたいと思います。


 彼女は、空になった墓を前にして狼狽え、悲しみに暮れています。み使いのなぜ泣いているのかという問いかけに対し「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」と途方に暮れている様子がその言質から察することができます。しかしながら、主イエスは、十字架に架かる前、その宣教の歩みの中で三度ご自身の死と復活について告げ知らせてくださっていたはずです。それでも尚、ペトロ、ヨハネなど弟子を含め、この女性もまたそのみ言葉の真理については、盲目で、信じ切れずにいたのです。


 復活の朝、私たちには当然喜ばしい日として覚えているのですが、その初めの時にあって、そこには悲しみ、絶望、嘆き、悩み、また遺体を掘り起こされて盗られてしまったという怒りもあったかもしれません。人が経験しうるあらゆる負の感情がそこには渦巻いていて、暗澹たる気分が蔓延していたのです。なぜそのような思いが蔓延していたのでしょうか。また、先ほども述べましたようにイエスは、三度ご自身の死と復活を予告していたにもかかわらず、彼らはこの朝を喜びの内に迎えることが適わなかったのは何故なのでしょうか。


 それは、み言葉に対する信仰よりも、人間の持っている常識や、慣習に囚われているからです。初めに申し上げましたように、私たちは、私たち自身の力では死を克服することはできません。そして、聖書における死には、私たちの罪という事がらが重くのしかかっています。レビ記には「彼は流血の罪を犯したのであるから、民の中から断たれる。」(17:4)と書かれているように、罪の結果は、肉体的な死、共同体からの死、存在の死が齎されると律法には記されています。


 そして、まさに私たちは「流血の罪」を犯しました。十字架の場面を思い起こしてください。私たちは、イエスに向かって「殺せ、殺せ。十字架につけろ。」と叫び、イエスを傷つけ、血まみれにし、殺しました。また、同じ場面では「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と言い、十戒の「わたしの他に何者をも神としてはならない」という大切な戒めまでも簡単に破り捨てたのです。

私たちの罪の極みが十字架の場面には露わにされています。その私たちの罪を負い、そのしるしである十字架をもって贖ってくださったのが、イエスでした。そして、その罪の力にイエスは力なく、屈し、敗北したかのように人々の目には映ったに違いありません。祭司長や律法学者、ファリサイ派にしてみれば勝利したかのように映ったに違いありません。いずれにしてもイエスは誰の目にも死の闇、罪の深淵に呑みこまれたと思われていました。


 しかしながら、マリアの前に復活のイエスは現れました。墓の中の暗闇の中にではなく、死の扉は開け放たれ、閉ざされた死の門は開かれ、しっかりとそこに居られたのです。「朝早く、まだ暗いうちに、」とありますから、まだ夜の暗闇があたりを包んでいたでしょう。マリアにしてみれば、イエスの死から不安な二日間を過ごし、安息日が終わったのでやっと墓へ行って、弔いができる、その胸の内は悲しみと嘆きと、大切な人を失った苦しみに満たされ、まさに心はまだ暗いままでした。


 しかし、イエスの「マリア」という呼びかけによって目が開かれ、心が開かれたとき、園丁と思っていた男がイエスだと分かり、喜びに満ち溢れたその心は、明るく、希望が満たしていたに違いありません。きっと夜のとばりを裂くような朝日が心に昇っていたに違いないのです。復活のイエスに出会う時、私たちの心はまさにこのマリアに照らされた光に包まれ、平安と希望、喜びに満ち溢れるのです。そのような美しい情景が、この朝には広がっているのです。


 闇は闇のままに終わりません。夜が来て、必ず朝が来るように、私たちの罪の深淵に、復活の主イエスが来られ、闇を裂き、罪に勝利される方として、私たちを曙、栄光で照らし出してくださるのです。イースターとは、この神の御業が示された時です。罪の力、死の力さえも、神に服従し、滅ぼされるのです。私たちは、このまったく清く、力強く、消えることのない光、驚くべき御手の業の内にあるのです。


 この福音が顕かにされて、私たちはどうすべきでしょうか。それは、世の理、常識、慣習に囚われている自分を解放し、真に自由にしてくださる方を信じることのみです。私たちは、自分自身では決して罪の力、死の力、あらゆる闇や暗闇に打ち勝つことはできません。しかしながら、神はその私たちを深く憐れみ、愛してくださり、御子イエスを遣わし、神がそれらの力に勝利してくださることを示してくださっています。


 この朝、私たちは、イスラエルの民が、エジプト脱出の際にエジプトの軍勢の追手から救われ、賛美した「2主はわたしの力、わたしの歌/主はわたしの救いとなってくださった。この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。」というイスラエルの民の喜びが、復活の主の出来事に際して再びもたらされ、この讃美が私たち自身の讃美の言葉であることを思い起こしてまいりましょう。


 「主はわたしの力、わたしの歌/主はわたしの救いとなってくださった。この方こそわたしの神。」この神への信仰をもって歩むことの幸いを覚えてまいりましょう。世の権威、富や財、地位、煌びやかな衣服ではなく、神の栄光こそが何にも優る恵みであることを覚え、雄々しく主イエスの救いのしるし十字架と復活信仰を旗印にして歩んでまいりましょう。また、それ自身に囚われてしまっている多くの方々が世にはまだたくさんいらっしゃいますし、私たち自身も救いの出来事を目撃して尚、それらのものに囚われ罪を犯してしまいます。


 だからこそ、私たちは「週の初めの日」共々に毎週集い、集えなくとも共に祈りを合わせ復活の主イエスを通して罪の告白と赦しの恵みを受け取るのです。

パウロがローマの信徒への手紙に「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」(6:8)と信仰告白していますが、この言葉は私たち自身の信仰告白でもあり、今申し上げましたように、礼拝ごとに罪を告白し、キリストの死と復活の恵みに与っているのです。今日のイースターが、その出来事の極みですが、この恵みにこれからも生かされ、歩む喜びを味わい、イエスこそが主であり、すべてを満たしてくださる方であるという信仰をもって歩んでまいりましょう。復活の喜び、永遠のいのちの恵みが皆さんの上に豊かにありますように。


 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

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