4月26日 復活節第3主日 式文と説教
- ltnishinomiya
- 2020年4月26日
- 読了時間: 9分
26日もFacebookを用いて、礼拝の様子を10時30分ころから配信いたします。
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礼拝式文 復活節第3主日
1. 沈黙 (神様への思いを向ける準備をいたしましょう)
2. 祝福の挨拶
司式)父と子と聖霊のみ名によって
会衆)アーメン
3. キリエ ※ご家族と交唱してくださっても良いですし、お一人の場合は
司式)主よ、憐れんでください。 会衆)主よ、憐れんでください。
司式)キリストよ、憐れんでください。 会衆)キリストよ、憐れんでください。
司式)主よ、憐れんでください。 会衆)主よ、憐れんでください。
4. 讃美唱 詩編116編1節-4節、12節‐19節
116:1わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き
2わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。
3死の綱がわたしにからみつき/陰府の脅威にさらされ/苦しみと嘆きを前にして
4主の御名をわたしは呼ぶ。「どうか主よ、わたしの魂をお救いください。」
12主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか。
13救いの杯を上げて主の御名を呼び
14満願の献げ物を主にささげよう/主の民すべての見守る前で。
15主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い。
16どうか主よ、わたしの縄目を解いてください。わたしはあなたの僕。わたしはあなたの僕、母もあなたに仕える者。
17あなたに感謝のいけにえをささげよう/主の御名を呼び
18主に満願の献げ物をささげよう/主の民すべての見守る前で
19主の家の庭で、エルサレムのただ中で。ハレルヤ。
5. 主日の祈り
神様。御子はパンを裂くことによってあらゆる弟子たちにご自身を知らせてくださいます。贖いの働きをされる主イエスを見ることができるように、私たちの信仰の目を開いてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
6. 聖書朗読
第一日課 使徒言行録 2章14節a、36節‐41節 (新)216頁
第二日課 ペトロの手紙一 1章17節‐23節 (新)429頁
福音書 ルカによる福音書 24章13節‐35節 (新)160頁
7. 説教 「御ことばに燃える」 竹田大地牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
二人の弟子たちは、イエスが近づいてきたにもかかわらず、その男がイエスだと分からなかったとあります。その理由は、「遮られていて」とあります。この言葉について直訳すると「強くない」という意味があります。また、この言葉は「rule」という意味もあります。こちらの意味を取るならば「支配が無い」「規則がない」というような意味ともとることができます。
今日は、この言葉について「支配」「統治」という意味から捉えてみたいと思うのです。彼らは、師であり、心から慕っていたイエスを失いました。この方が亡くなった十字架の出来事についてその道すがら論じ合っていたのです。あの出来事が何であったのか、あのイエスというお方がどのようなお方だったのか。その議論は尽きることがないでしょう。
しかしながら、その道中でどんなに論じ合ってもイエスという方が十字架の上で死んでしまったということによって暗い気持ちが心を満たしていたことでしょう。ですから、この議論はいつまでたっても結論の出るものではなく、ただただこの出来事を受け入れるのに何か話していないと、心が騒いで、哀しみや不安、恐れに取りつかれそうになっていたのではないかと思うのです。
私たちもそうです。今、新型コロナウイルスが私たちの心を騒がせています。そして、私たちの共同体は、毎週の主日礼拝に共に集い礼拝を行うこともできないでいます。教会と云う共同体が何だかバラバラになってしまっているような気持ちさえいたします。
私たちは、目に見えるものにどうしても意識を引っ張られます。会堂に共に集い、オルガンの音を聴きながら讃美歌を歌い、御ことばに耳を傾ける、そういう可視的な事がらで繋がりを実感することができます。それが適わない状況にあるということは、この繋がりを実感しにくいということです。
私自身もこうしてインターネットを使って礼拝を皆さんに配信をしていますが、何か実感が伴わない気持ちがどこかにあります。それは、いわばこのエマオ途上の二人の弟子たちのような思いなのです。それは、統治者、支配する者が居ないような錯覚を抱かせ、失意にも似た気持ちを起こさせるのです。
ですから、支配者の無いような状況というのは、私たちを不安に陥らせ、そして、その思いはどんどん増幅していくのです。何か自分が孤独にどんどん陥らせるのです。神が共に居てくださるという約束を知りながらも、その私を支配し、共に居てくださる方の姿が見えなくなるような思いを感じる時があります。
この「遮られていて」という言葉には、もう一つの意味は「弱くされて」という意味があります。孤独が人の心を弱くし、神を見させないように働くのです。それは悪魔が「神など居ない、神ならば今この状況から助け出してくれるのにお前は捨てられている。」と囁いてきて私たちを神から離れさせようとしているような力が働くのです。
復活を信じられずに、あぁでもない、こうでもないと論じ合っている弟子たちも、復活という出来事そのものではなく、イエスが十字架で死んでしまったことによって支配者の無い状況に陥り、二人で歩きながらもその心は孤独であったのです。そのような思いに囚われ、弱められ、支配者の無い私たちのもとにキリストは、フッと現れて、その孤独な私の同伴者として歩まれるのです。
そのことに弟子たちも気が付いていないように、私たちも気づくことができない時があります。しかしながら、そのような時にあってもキリストは今も同伴者として歩んでいます。そして、そのキリストが「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。」とあるように御ことばの説き明かしをして下さるのです。
このキリストの語り掛けについて弟子たちは「わたしたちの心は燃えていたではないか」という言葉で応答します。孤独の中で御ことばが私たちの心のうちに燃える火のように光輝き、力づけるのです。弱さや、孤独の中から引き上げ力づけ、同伴者であるキリストを見出す目を与えてくださるのは、御ことばなのです。
御ことばが私たちを導き、力づけ、希望に溢れさせるのです。キリストの居ないと思われるような状況の中で、また実際に私たちはキリストが既に天に上げられ、キリストの姿を目で見ることも、キリストの声を耳で聞くこともできない。どうしてキリストが居ると言えるのかと思われるような現代にあっても、御ことばがキリストの死と復活を確信に至らせ、そして、今もキリストがわたしと共に居てくださるという希望に溢れさせるのです。
ですから、私たちは御ことばに立ち、御ことばに聴き従うことによって信仰を与えられると証しし、宣教をしてきたのです。使徒たちも、その後のキリスト者も、ルターもこの御ことばを宣べ伝えることによって多くの人々を、弱さや、孤独から希望に溢れさせる命の営みへと人々を導いてきました。この働きは、そうやって御ことばによって力づけられた人々によって連綿と紡がれてきたのです。
そして、この御ことばによって、バラバラであった共同体は、一つとされていきました。二人の弟子たちも急ぎエルサレムに戻り、他の弟子たちと合流し、主の復活の喜びを兄弟姉妹たちと分かち合い、彼らもまた主の証し人として今も語り伝えられ、その働きが遺されています。
私たちの働きが後世にこのようにして遺るわけではないかもしれません。しかしながら、圧倒的に多くのキリスト者の働きは、誰の目にも、誰の耳にも、誰の心にも遺されていません。しかしながら、キリストの御ことばは、遺され続けてきました。多くのキリスト者が、御ことばを通して復活のキリストに出会ったからです。その喜びを隣人に伝え続けたからです。
遺るのは、私の働きではなく、キリストの御ことばです。これさえあればいいのです。この御ことばがその時代、時代の人々を力と希望に溢れさせればそれでいいのです。御ことばが共に今も私たち一人ひとりに生きて働くキリストの息遣いを伝えています。
私たちは孤独でありません。私たちを今も支配するキリストが共に居ます。新型コロナウイルスの猛威の中であってもキリストはわたしと共に在って、私たちの共同体を一つに結んでくださっています。その絆が御ことばであることをエマオ途上の二人の弟子たちの出来事から教えられました。
今は、こうして離れています。しかしながら、御ことばがこれまでも、今も、そしてこれからも私たちを繋ぎ、離れていながらも共に在ることを覚えさせてくださっています。この絆の基であるキリストの御ことばに立って歩み、この困難な時にもキリストが同伴してくださって、私たちに語り掛け、導いて下さっていることを覚えて過ごしてまいりましょう。また、共に会堂に集い、讃美の声をあわせ、御ことばに聴く時が与えられることを願い求めてまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
8. 信仰告白
司式)使徒信条によって、信仰の告白を共にしましょう。
全員)天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。
そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊によってやどり、お とめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。
聖霊を私は信じます。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。(アーメン)
9. 教会の祈り
・みことばへの応答
・新型コロナウイルスの中でライフラインを守るために働いてくださっている方々を覚えて。
・子どもたち、保護者、支える方々を覚えて
・西宮教会に集う方々を覚えて
10. 主の祈り
司式)祈りましょう
全員)天の父よ。
み名があがめられますように。
み国が来ますように。
み心が天で行なわれるように、地上でも行なわれますように。
私たちに今日もこの日の糧をお与えください。
私たちに罪を犯した者を赦しましたから、
私たちの犯した罪をお赦しください。
私たちを誘惑から導き出して、悪からお救いください。
(み国も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです。)
(アーメン)
11. 祝福
司式)主があなたを祝福し、あなたを守られます。
主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたに恵みを与えられます。
主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わります。
父と子と聖霊のみ名によって。
会衆)アーメン
12. 讃美歌 教団讃美歌150番
1.あくまのしばし ほこりし勝利(かち)は、 今しももろく ついえけるかな、 ハレルヤ。
2.かがやきのぼる あさ日のごとく、 陰府(よみ)にうちかち 主は活きたもう、 ハレルヤ。
3.めぐみとさかえ みつにみてる イエスの御顔ぞ げにうるわしき、 ハレルヤ。
4.ひとやのなかに つながれおりし アダムの子らは 解きはなたれぬ、 ハレルヤ。
5.世界のたみよ、 あまつつかいに こえをあわせて よろこびうたえ、 ハレルヤ。
アーメン
13. 沈黙

『エマオの晩餐』 カラバッジョ作 1601年
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