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  • ltnishinomiya

4月4日(イースター主日)の式文と説教

主の御名を讃美いたします。

すっかり気候は春らしくなってきました。連日、平日、休日にかかわらず西宮教会の前の夙川遊歩道は沢山の人が行きかい、桜を楽しんでいるようでした。

夜遅くまで若者は集まって騒いでいます。なかなか迷惑と思いますし、ご時世的にどうかと思うのですが、、、という苦虫を噛み潰したような面もちで連日連夜牧師室で仕事をしています。

たしかに一年以上にわたって我慢を強いられ、政を司っている人々の裏切りにも思えるような行動に怒りを覚えているのもたしかであり、裏を返せば楽しんでいるようで、諦めと怒りの現れの行動のように思えてきます。

新型コロナウイルスによる第四波が懸念されています。兵庫県にも「まん延防止等重点措置」が5日から一カ月適応されますが、明日は10時30分から礼拝堂に集う形での礼拝をいたします。明日はイースター礼拝です。

どうぞ皆様感染防止対策を万全にして気をつけてお越しください。 健康や、移動に不安をお覚えの方はどうぞご無理をなさらないでください。 礼拝は引き続き短縮式文での礼拝となります。 ご来会の際には、受付の前に手洗いうがい、手指の消毒、検温、また着席時には席の間隔を空けての着席にご協力ください。 どうぞお気をつけてお越しください。 明日もライブ配信と合わせて礼拝の録画を礼拝後速やかにYouTubeに掲載いたします。 出席適わない方はどうぞそれぞれのところで神様の恵みに与かってまいりましょう。 以下の「日本福音ルーテル西宮教会 - YouTube」という文字を10時20分頃にクリック(選択)していただければご覧になれます。 それぞれ置かれた所で神様の御ことばの恵みに与かってまいりましょう。



牧師


主の復活(イースター)主日礼拝


1. 前奏 (神様への思いを向ける準備をいたしましょう)


2. 讃美歌 146番




3. 祝福の挨拶

司式)父と子と聖霊のみ名によって  会衆)アーメン


4. キリエ 

司式)主よ、憐れんでください。      会衆)主よ、憐れんでください。

司式)キリストよ、憐れんでください。  会衆)キリストよ、憐れんでください。

司式)主よ、憐れんでください。      会衆)主よ、憐れんでください。


5. 主日の祈り

全員)憐れみ深い神様。主イエスは生きておられます。私たちはもはや主イエスを死者の中に捜しません。主イエスは生きて、私たちの命の主となられました。復活のキリストと共に生きる私たちを強め、永遠のいのちに至るまで神の民として成長させてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン


6. 聖書朗読 

第一日課 イザヤ書 25章6節‐9節 (旧)1098頁(牧師)

25:6万軍の主はこの山で祝宴を開き/すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。

7主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし

8死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。

9その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。


第二日課 使徒言行録 10章34節‐43節 (新)233頁(礼拝当番)

ペトロ、コルネリウスの家で福音を告げる

10:34そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。35どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。36神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、37あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。38つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。39わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、40神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。41しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。42そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。43また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」


福音書 マルコによる福音書 16章1節‐8節 (新)97頁(起立)

16:1安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。2そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。3彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。4ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。5墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。6若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。7さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」8婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。


7. 讃美歌 91番(教会讃美歌)




8. 説教 「救いは現在進行形」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


本日のために与えられている詩編の一節には「主はわたしの救いとなってくださった。」という讃歌を歌っています。四旬節の間に私たちが御ことばから教えられて来たことは、人間はすべからく罪人であるということです。マザーテレサも、ローマ教皇でも、どんな聖人君主であろうとその真実は変わりません。そのような真実を見つめた上で先ほど引用した詩編を聴いていくとき、この御ことばが本当に大きな恵みであることに気が付かされます。


この恵みについて墓にいた若者の言葉から教えられるのです。「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。」という言葉がそのことを示します。

私たちは先週の受難主日において確かにキリストが十字架に架けられて死んだ姿を目にしました。そして、このキリストの十字架は私たちの罪を贖うためであることをも御ことばを通してお示しいただきました。


最初に述べたように罪人のために罪のない方が死なれること、贖いの仔羊としてご自身を献げることにより救いを成し遂げてくださいました。私たち罪人のために神ご自身がお働きくださるという驚くべき出来事に際したのです。しかしながら、それでも愛する者、慕う者、尊敬する者を死に送ることは悲しみを伴います。イエスの弟子たちや今日の場面に登場する女性たちにとっては尚更のことでありましょう。


ましてや、イエスが死んだという出来事によって彼らは彼ら自身の後ろ盾を失ってしまいました。このことによって彼らはちょうど総督官邸でのペトロのようにイエスの弟子というだけで生命の危機に瀕してしまうのです。自分も捕らえられて、あの人の弟子だというだけで同じように殺されるのではないかという危機です。


さらに事を悪い方へと誘う事態として、墓からイエスの遺体が取り去られているという事件が起きてしまいました。若者は、キリストが復活されたことを告げ知らせましたが、彼女たちは「墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」とあるようにこの出来事に対して恐れを抱いたのです。


ここで不思議なことが起こっていることに気がつきます。彼女たちは誰にも告げることができませんでした。主の復活という喜ばしい出来事にも関わらず、彼女たちは押し黙ってしまいました。なぜこのような記事でマルコ福音書は閉じたのでしょうか。後の結びは後年の加筆であると言われていますから、本来であればマルコ福音書はここで唐突に終わっています。


誰にも告げることなく終わった出来事が、後年になって確かに復活の出来事として語られているということは、この出来事が真実であったからです。あの時は、誰にも告げることが出来ず、恐れのあまり、すなわち人間の常識の範疇を超えた出来事を理解できずにいました。人の限界を超えた出来事に際して、人は恐れを抱き、ことの真実を見つめる正気を失ってしまいます。


しかしながら、人間がそのような限界を抱えながらも真実として「7主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし8死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。」方なのです。

死という限界を私たちは抱えています。それが打ち破られるなどとは誰も考えません。しかし、神は救いの完成としてお示しくださったことは「死を永久に滅してくださる」ということです。


私たちの限界の先にある命、死が死ではなくなるという大いなる希望と喜びを私たちに与えて下さるのです。キリストは確かに死なれました。しかしもはやキリストは死の中にはおられない、死が滅ぼされたからです。復活を通して、死は滅ぼされているのですから、主は生きておられるのです。


ですから、この復活の出来事を理性では理解できなくとも信仰によって信じるとき、キリストは生きて、今も私たちに働いてくださっているという真実に気がつかされます。イエスは、私たちの罪を赦すために贖いの仔羊として献げられた十字架の出来事も、今日私たちにお示し下さった復活の出来事も、遠い昔の出来事ではなく、今を生きる罪人の私のために出来事なのです。


あの時は、恐れを抱き、正気を失い、誰にもこの出来事を話すことができなかった。けれども、この出来事を信仰によって見つめる時、死は滅ぼされ、私たちがキリストの永遠の命、死に打ち勝つ力の恵みを豊かに受ける者とされている。この恵みを証する者とされているのです。

だからこそ、後の世に生きる私たちに伝えられ続けているのです。


復活の出来事は、理性によるならば理解することは出来ません。しかし、信仰によって、復活の出来事を信じる時、あの出来事は大いなる恵みと喜びの源となり、あの出来事において起こった救いの出来事があの当時の事としてではなく、今を生きる私たちに生きて働いている現在進行形の救いの出来事であるという喜びをもたらすのです。


「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」というパウロの証しが迫ってきます。人間の理性によるならば、福音はまさに恥そのものであります。何をそんなことをと思わざるを得ないような出来事です。しかし、復活を信じる時、神の力によって、この私に神の救いがもたらされているという喜びをもたらします。


信仰の目を開き、死の内にではなく、命の内にキリストが居られることを見つめ、その命の恵みを私は豊かに受けている。信仰の歩みをこれからもたゆみなく続けながら、罪の赦しと永遠の命の新しい神との約束の内にあることを覚えてまいりましょう。今もあなたに神の力、神の救いが豊かに働いて、神と共に生かされている励ましと慰め、慈しみというあらゆる善いもので満たされている命に感謝しつつこれからも復活の主を信じ、仰ぎながら歩んでまいりましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。


9. 信仰告白 (起立)

司式)使徒信条によって、信仰の告白を共にしましょう。

全員)天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。

そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。

聖霊を私は信じます。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。(アーメン)


10. 献金


11. 教会の祈り


12. 主の祈り (起立)

司式)祈りましょう

全員)天の父よ。

み名があがめられますように。

み国が来ますように。

み心が天で行なわれるように、地上でも行なわれますように。

私たちに今日もこの日の糧をお与えください。

私たちに罪を犯した者を赦しましたから、

私たちの犯した罪をお赦しください。

私たちを誘惑から導き出して、悪からお救いください。

(み国も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです。)

(アーメン)


13. 祝福 (起立)

司式)主があなたを祝福し、あなたを守られます。

主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたに恵みを与えられます。

主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わります。

父と子と聖霊のみ名によって。

会衆)アーメン。アーメン。アーメン。


14. 後奏

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