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4月7日 四旬節第5主日の説教

「罪の告白と赦し」

本日の聖書日課

第1日課:イザヤ書43章16‐28節(旧)1131頁

43:16主はこう言われる。海の中に道を通し/恐るべき水の中に通路を開かれた方

17戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し/彼らを倒して再び立つことを許さず/灯心のように消え去らせた方。

18初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。

19見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き/砂漠に大河を流れさせる。

20野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ/わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。

21わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。

22しかし、ヤコブよ、あなたはわたしを呼ばず/イスラエルよ、あなたはわたしを重荷とした。

23あなたは羊をわたしへの焼き尽くす献げ物とせず/いけにえをもってわたしを敬おうとしなかった。わたしは穀物の献げ物のために/あなたを苦しめたことはない。乳香のために重荷を負わせたこともない。

24あなたは香水萱をわたしのために買おうと/銀を量ることもせず/いけにえの脂肪をもって/わたしを飽き足らせようともしなかった。むしろ、あなたの罪のためにわたしを苦しめ/あなたの悪のために、わたしに重荷を負わせた。

25わたし、このわたしは、わたし自身のために/あなたの背きの罪をぬぐい/あなたの罪を思い出さないことにする。

26わたしに思い出させるならば/共に裁きに臨まなければならない。申し立てて、自分の正しさを立証してみよ。

27あなたの始祖は罪を犯し/あなたを導く者らもわたしに背いた。

28それゆえ、わたしは聖所の司らを汚し/ヤコブを絶滅に、イスラエルを汚辱にまかせた。


第2日課:フィリピの信徒への手紙3章5‐11節(新)364頁

3:5わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、6熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。7しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。8そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、9キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。10わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、11何とかして死者の中からの復活に達したいのです。


福音書:ルカによる福音書20章9‐19節(新)149頁

20:9イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。10収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。11そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。12更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。13そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』14農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』15そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。16戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。17イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』18その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」19そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。


【説教】

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


 四旬節第5の主日を迎えています。主イエスが、私たちの罪を贖うために十字架へと歩みを進めているこの時にあって、与えられている福音は「ぶどう園と農夫のたとえ」という譬え話からです。イエスが語られたこの譬え話から私たちは四旬節にあって何を語り掛けられているのでしょうか。この時、ご一緒に福音に聴き、神の御心に触れてまいりましょう。


 さて、今日の譬えが何を語っているかまず見ていきたいと思うのですが、ぶどう園の主人とは、神のことです。すなわち、神は相応しい収穫を納めることをお望みでした。相応しい収穫とは、何かと結論から言いますと、それは神のみ言葉への信仰です。神の福音を信じる信仰こそが最上の収穫であり、神は私たち人間にその時が訪れたので、それをお求めになっているのです。


 神は、そのことを告げ知らせるために預言者を私たち人間のただ中にお遣わしになりました。モーセから始まり、何人もの預言者が私たちの世界で神のみ言葉を取り次ぎ、神の御心を示してくださいました。しかしながら、旧約聖書を読んでみますと、モーセによって導かれた民は、神の御心をに反して、神を試し、神に反逆し、ある者は打たれ、死にました。また、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルといった三大預言書に目を通して見ましても、彼らは神のみ言葉を取り次ぎ、イスラエルの民に語り掛けましたが、誰も彼らの言葉に耳を傾ける者は無く、神に対して背きの罪を繰り返していったのです。


 エレミヤなどを見てみますと、彼が神から賜り、語った言葉に対してイスラエルの民は、怒り、腹を立ててエレミヤを殺そうとし、彼を迫害したのです。まさに、今日の譬え話にあるように、「この僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。11そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。12更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。」というみ言葉が、イスラエルの歴史に起こった人の罪を炙り出すのです。


 しかしながら、これはイスラエルに語られていることでもありますが、現代に生きる私たちにも言える事柄です。私たちは、毎週の礼拝でこうして福音に触れて、神の御心を悟る機会が与えられます。大変にありがたいことです。そうして、心新たにされて、その週を生きていきたい、ある人は人生をも変えられる福音を聴くこともあります。しかし、それでも尚、私たちは神の福音の通りに生きられない現実があります。


 普段の生活の中で、いつも神の御心に思い巡らし、今与えられている事がらを通して、神は何を語り掛けているのかということよりも、自分の思いや、都合を優先させて生きてしまいます。それがもたらす事がらとは「収穫」を神に納めようとしない農夫たちと同様であるということです。私たちは、そのようにして日々の暮らしの中でも神に対して背き、神の御心を悟ろうとも、神のみ声に聴こうともしない頑なな者であることを覚えていきたいと思うのです。そして、それはすなわち、私たちは神の御心に沿って生きることができない現実を見つめなければならないのです。


 それは聖書では罪と呼びます。神を見上げ、神の御声に聴けない状態です。そのような私たちに対して神は、何度も働きかけ、僕を遣わし、神のみ言葉を何度も、何度も語り掛けてくださったのです。そして、最後に神は「愛する息子」である主イエスをこの世に遣わしてくださいました。主人は、息子を遣わす時に「どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。」と語られています。


 ここに福音があります。主人は、もはや収穫を期待するのではなく、その遣わされた者を敬うことに主眼が移っているのです。そして、この「敬ってくれるだろう」という言葉について見ていきますならば、この言葉は「敬う」「畏敬」という意味の他に「回れ右」「振り向く」という意味があります。このことから、神が真にお望みなことは、私たちが神の方へと振り向くことです。それを、私たちは回心と言います。神から離れ、御心を悟ろうとしない頑なさ、御声を聴こうとしない頑なさ、見ようとしない頑なさを捨てて、神の方へと向き直り、御心を悟ろうと御声に聴き、神を見る者となるようにと神は主イエスをお遣わしになったのです。


 しかしながら、私たちは、その神の愛する子である主イエスを十字架に架けて殺しました。私たちは、主イエスの十字架について、イエスが私たちの罪の贖いのために十字架に架かってくださったありがたい出来事であると考えています。しかし真実は、「イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった」(ルカ23:23)とあるように、私たちが主イエスを殺したのです。神をも殺そうとする、そういう奥深く、暗い罪を私たちは抱えているということにも目を向けなければならないのです。


 そして、そのようにして迫害し、自分たちの心から追いやった者たちこそが、神の真実を顕す者たちであり、反ってその者たちのみ言葉が、私という存在を打ち壊し、あらゆるプライド、考え方などを破壊するのです。その極みが十字架なのです。十字架は、普通であれば痛み、悲しみ、嘆き、暗闇といった負のイメージです。誰もそれに架かりたいとは望みません。しかしキリスト教は、その十字架をシンボルとし、大切にしています。何故でしょうか。それは、その痛み、悲しみ、嘆き、暗闇の中に、主の癒し、喜び、福音、栄光が隠されているからです。


 私たちは、普段の生活の中で神を殺し、自分の思いや、計画、都合でどうしても生きて、神の御心にすべてを聴いて、生きることができません。そのことを深く自覚させ、私たち自身を打ち壊す存在が十字架であり、「隅の親石」なのです。先ほども述べましたように十字架は、普通であれば無価値な存在です。しかし、それこそが私たちを打ち壊し、罪を自覚させ、神の方へと振り向かせる、最も重要な出来事として、しるしとして与えられているのです。


 四旬節にあって、私たちはこの隅の親石、すなわち十字架のイエスの方へと振り向き、そこに在る自分自身の罪を見つめていきたいと思うのです。そこには、あらゆる私たち自身の神に対する敵意、悪意、背きが示されています。と同時に、それを赦し、贖ってくださっている神の愛、栄光が隠されています。主イエスは、今まさに私たちの罪を贖うためにその十字架に向かって歩まれているのです。ですから主イエスは「私の罪の赦しのために来られた方」なのです。


 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

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