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ltnishinomiya

5月12日 復活後第3主日礼拝説教

「神の義と信じる者」

主日の祈り

羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から引き上げられた全能の神。私たちを羊飼いとして送り出し、失われた人々、傷付いた人々に、み言葉をもって仕える者としてください。あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン


詩編唱 詩篇 23:1~6

  主はわたしの羊飼い、

    ∥わたしには何も欠けることがない。

  主はわたしを緑の野に休ませ、

    ∥憩いの水のほとりに伴い、わたしの魂を生き返らせてくださる。

  主はみ名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。

    ∥死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。

  あなたがわたしと共にいてくださる。

    ∥あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。

  わたしを苦しめる者を前にしても、

    ∥あなたはわたしに食卓を整えてくださる。

  わたしの頭に香油を注ぎ、

    ∥わたしの杯を溢れさせてくださる。

  命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。

    ∥主の家にわたしは帰り、いつまでも、そこにとどまる。


本日の聖書日課

第1日課:使徒言行録13章26‐39節(新)239頁

13:26兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られました。27エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエスを罪に定めることによって、その言葉を実現させたのです。28そして、死に当たる理由は何も見いだせなかったのに、イエスを死刑にするようにとピラトに求めました。29こうして、イエスについて書かれていることがすべて実現した後、人々はイエスを木から降ろし、墓に葬りました。30しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです。31このイエスは、御自分と一緒にガリラヤからエルサレムに上った人々に、幾日にもわたって姿を現されました。その人たちは、今、民に対してイエスの証人となっています。32わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせています。33つまり、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。それは詩編の第二編にも、

/『あなたはわたしの子、/わたしは今日あなたを産んだ』/

と書いてあるとおりです。34また、イエスを死者の中から復活させ、もはや朽ち果てることがないようになさったことについては、

/『わたしは、ダビデに約束した/聖なる、確かな祝福をあなたたちに与える』/

と言っておられます。35ですから、ほかの個所にも、

/『あなたは、あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしてはおかれない』/

と言われています。36ダビデは、彼の時代に神の計画に仕えた後、眠りについて、祖先の列に加えられ、朽ち果てました。37しかし、神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです。38だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、39信じる者は皆、この方によって義とされるのです。


第2日課:ヨハネの黙示録7章9‐17節(新)460頁

7:9この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、10大声でこう叫んだ。

「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、/小羊とのものである。」

11また、天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、12こう言った。

「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、/誉れ、力、威力が、/世々限りなくわたしたちの神にありますように、/アーメン。」

13すると、長老の一人がわたしに問いかけた。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」14そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。

15それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、/昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、/この者たちの上に幕屋を張る。

16彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、/太陽も、どのような暑さも、/彼らを襲うことはない。

17玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、/命の水の泉へ導き、/神が彼らの目から涙をことごとく/ぬぐわれるからである。」


福音書:ヨハネによる福音書10章22‐30節(新)187頁

10:22そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。23イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。24すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」25イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。26しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。27わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。28わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。29わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。30わたしと父とは一つである。」


【説教

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


 わたしたちは、復活の喜びに与る日々である復活節の教会暦を過ごしています。復活とは、単に主イエスが死者の中から復活されたという奇跡としか言いようがない出来事として心に留めるのではありません。復活とは、私たちキリスト者にとって最も大切な信仰の基であり、隠されていた神の真理が啓かにされたという出来事なのです。ですから、私たちにとってはなくてはならない福音であり、これなしに信仰は無意味となってしまうのです。


 それは、パウロが「わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」(ガラテヤ2:21)と証ししているとおりです。主イエスの復活とは、神の出来事であり、神からの一方的な恵みなのです。私たちは、この恵みを受け取ることしかできませんし、この恵みによって私たちは信仰による救い、すなわち神の義を受けるものとされていくのです。


 さて、今日の出来事の場面は神殿です。エルサレム神殿は、昔ソロモンが建てた壮麗な建物がバビロン捕囚によって打ち壊さ、その苦難から解放されたときに建て直された、いわゆる第二エルサレム神殿と云われている場所です。エルサレム神殿には、律法の納められている神の箱が内宮に安置されていますから、ユダヤ人たちにとって聖地であり、信仰の拠り所でした。聖書にも記していますが、過越祭というユダヤ教で最も大切な祝祭の時には、多くのユダヤ教徒がこの神殿に向かって巡礼をしてきます。

 

そのような場所でユダヤ人たちは、イエスに「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」と詰め寄ります。彼らは、バビロン捕囚という苦難を経験することによって、神が語られたメシア、救い主を願い求めるようになりました。祖国をバビロンに滅ぼされ、神殿を打ち壊され、遠い地へ捕囚の身として連れていかれ、約50年間、そこに留まざるを得ない状況に追い込まれました。その捕囚の中でも彼らは、信仰を受け継ぎ、その苦難の内に預言が語るメシアを切なる祈りとして待ち望むようになったのです。


 そして、200年ほど年代が進みイエスの時代、ユダヤ人たちは、ローマ帝国の圧制に苦しめられていました。捕囚の時代は終わりを告げましたが、祖国は相変わらず異邦の支配のもとにあり、未だにメシアが現れ、祖国回復が叶っていない現状に心を打っていたと思います。だからこそ、数々の奇跡と、誰も語ったことがないような教えを語られるイエスという人が現れたことは、彼らに一筋の希望をもたらしたのかもしれません。


 その期待の気持ちをイエスにぶつけたのが「「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」という言葉に現れているのです。しかしながら、そのユダヤ人たちの願いについて、イエスは「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。26しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。」(10:25,26)と突き放すような言葉で彼らに語っています。


 これはどういうことでしょうか。まず、このユダヤ人たちの願いが、信仰から来る願いではないことを主イエスは見破っていたということです。たしかに聖書にはメシアが現れて、人間を救い出すと預言されています。これは真ですが、ユダヤ人たちは、このメシアとは、自分たちの祖国を取り戻す王、ローマ帝国から解放する者だと考えていたのです。それは、信仰やみ言葉がいつの間にか、神の真理を求めることではなく、それを利用して自分たちの願いへとすり替わっている状態です。


 言い換えるならば、神はこうしてくれたから、自分の苦しみ、悩み、痛みといった事がらについて癒してくれるというように、神の出来事を自分に都合よく、厳しく言うならば自己中心的な考えに落とし込んでしまっているのです。これはユダヤ人たちだけに言えることではありません。私たちにも当てはまる事がらです。自分の苦しみ、悩み、痛みなど、それは本当に辛いことです。本人にしてみれば大きな傷を心身に及ぼします。そうして、イエスとの出会いが与えられる中で数々の奇跡の出来事を読みますと、自分もそうして欲しいと願うのです。


 しかしながら、キリスト教とは、ご利益宗教ではありません。大切なことは、私が癒されたこと、悩みが解決されたことではないのです。それでは、神の出来事をまさにパウロが言うように台無しにしてしまうことにほかなりません。あらゆる出来事の主導権は、神にあります。私たちは、神の出来事の中に在ることを忘れてはならないのです。ですから、与えられている出来事、苦しみ、悩み、逆に楽しみ、喜びなども含めて、神が示してくださっている御心が何か聴いていくことが、大切なのです。


 信仰とは、「あなたがこうしてくれたから本当だ、在るものだ」ではありません。信仰とは、神の側の出来事です。私が決断したからではありません。それは既にあって、私たち一人ひとりに豊かにいつも神から賜っている恵みです。しかしながら、私たちの心は、ここに登場するユダヤ人たちのように心が鈍く、自分の思いに支配されてしまっていますから、神が示されていることに気が付くことができません。


 そのような私たちのために神は、福音をイエスを通して語り掛け、私たちの内に宿るその御力に心を向けさせようと働きかけてくださっているのです。だからこそ、イエスは、今日の福音で示されているように「聞くこと」と「信じること」が密接に関わっていることを明らかにしてくださっているのです。

 私たち自身では、復活の恵みも、信仰に目覚めることも、そこに本当の喜びがあることも知ることはできません。しかし、主イエスのみ言葉を通して神と結ばれている命であることを知ることによってそれは世のあらゆるものに優る宝となります。


 この関わりの中に置かれている恵みを「27わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。28わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」というみ言葉をもって示してくださっています。神は私たち一人ひとりをみ言葉を養ってくださっている真実をお示しになり、そして、神の羊である私たちは、羊飼いである主イエスの御声を聴き分け、しかもこの羊に対して「永遠の命を与える」と語られているように豊かな神からの恵みの内に私たちの命が在るのだと仰っているのです。


 この関係性の中に生かされているからこそ私たちは生きることが適うのです。自分一人では、神の真の御心を知る術はありません。信仰は与えられていても自分の思いで覆いをして、それを隠し、自分の思いに耽ってしまいます。それを今日の福音においてユダヤ人たちの姿から見ています。そして、その姿は今このみ言葉を聴いている私たち自身の姿でもあります。


 そのような中でイエスは、み言葉に聴き、従うということを教えてくださいました。そして、神の羊は「だれも彼らを奪うことはできない」と語られているように、あらゆる罪の力から神が守ってくださっているという真実を示してくださっています。神の御声に聴く時、神の養いと守りの堅い約束が結ばれている喜びを見いだします。


 それでも尚、私たちは完全にみ言葉に聴いていくことはできない弱い存在です。日々、罪を犯し続ける罪人の一人です。しかし、神はその罪人にこうしてみ言葉を通して絶えず私たちに与えている信仰を呼び覚ましてくださっています。大切な羊が、迷い出ないように罪人の私のために働いて下さっています。この豊かなる神の御手の内に、働きの中に置かれている幸いを覚えて歩んで行きましょう。そして、自分の思いにではなく、神の御声に聴き従う信仰と喜びをもって、主イエスの十字架と復活により頼んで歩んでいき、この恵みを宣べ伝える群として歩み、神の福音がすべての人にもたらされるようにご一緒に働いていきたいと思うのです。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 



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