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ltnishinomiya

5月19日 復活後第4主日礼拝説教

「愛をもって待ち望む」

主日の祈り

み民の心をひとつにされる神。あなたの掟を愛する心、あなたの約束への切なる望みを私たちに興し、激しく変動するこの世界の中でも、動くことのない喜びを与えてください。あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン


詩編唱 詩篇145:1~12

  わたしの王、神よ、あなたをあがめ、∥世々限りなくみ名をたたえます。

  絶えることなくあなたをたたえ、∥世々限りなくみ名を讃美します。

  大いなる主、限りなく讃美される主、∥あなたの大きなみ業を究めることもできません。

  人々が代々にみ業をほめたたえ、∥力強いみ業を告げ知らせますように。

  あなたの輝き、栄光と威光、∥驚くべきみ業の数々をわたしは歌います。

  人々が恐るべきみ力について語りますように。∥大きなみ業をわたしは数え上げます。

人々が深いみ恵みを語り継いで記念とし、∥救いのみ業を喜び歌いますように。

主は恵みに富み、憐れみ深く、∥忍耐強く、慈しみに満ちている。

主はすべてのものに恵みを与え、∥造られたものを憐れんでくださいます。

  主よ、造られたものがすべて、あなたに感謝し、∥あなたの慈しみに生きる人があなたをたたえ、

  あなたのみ国の栄光を告げ、∥力強いみ業について語りますように、

  その力強いみ業と栄光を、∥み国の輝きを、人の子らに示しますように。


本日の聖書日課

第1日課:使徒言行録13章44‐52節(新)240頁

13:44次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。45しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。46そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。47主はわたしたちにこう命じておられるからです。『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、/あなたが、地の果てにまでも/救いをもたらすために。』」48異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。49こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。50ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。51それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。52他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。


第2日課:ヨハネの黙示録21章1‐5節(新)477頁

21:1わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。2更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。3そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、4彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」5すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。


福音書:ヨハネによる福音書13章31‐35節(新)195頁

13:31さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。32神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。33子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。34あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」


【説教】

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


 私たちの働きには、宣教という使命が与えられています。宣教は、牧師のみに与えられた働きではありません。牧師は、説教と司式、牧会などの職務を神から召されていますが、教会は、コリントの信徒への手紙でパウロが語っているように、キリストを頭として、その体の部分である一人ひとりによって形成され、キリストを宣べ伝える群、すなわち教会として一つの有機体として存在しているのです。説教を語る者、オルガニスト、様々な奉仕者、祈る者、本当に多くの方々の関りの中で教会は世に仕えているのです。


 よく私は色々な場面でこんな声を聴きます。「もう年を取ってしまって何もできない」「まだ若いから」「病気だから」「家族のことがあって」「仕事が」など様々なご事情をお一人おひとりが抱えられていることをヒシヒシと感じます。それは仕様がないことのように一見すると思わされます。また、そういう事情が重荷となって、思い通りにいかない自分にも苛立ちや、落胆を覚えることもあります。私自身ももっとあぁしたい、こうしたい、こうできればと思うことがどんどん湧いてきます。そうして人は、様々な事がらを理由にして、色々なことを諦めてしまうというのが、人の性とも言えます。


 本日の第一日課で登場するパウロとバルナバは、異邦人伝道にその命を燃やした使徒たちです。彼らの行く先々では、様々な出来事が起こりました。当時キリスト教徒は、大変な迫害に遭っていました。パウロがかつてそうだったようにキリスト教徒と分かれば、捕らえられ、処刑されてしまうのが彼らの現実だったのです。そのような中であっても彼らは、キリストの福音によって力づけられ、この福音をすべての人に伝えるために恐れを抱えながらも宣教の道を歩みました。


 アンティオキアにおいても、彼らはその宣教の業を妨害する者に遭遇します。しかしその中で彼らは「勇敢に語った」と記されています。この言葉の元の意味は「自由に語る」という意味があります。この言葉は、次の14章でも登場し、そこでは「主を頼みとして勇敢に語った」(14:3)とあります。彼らが勇敢だったのは、彼らの意志が強かったから、彼らの力が強かったからでないことが明らかです。「主を頼みとして」とあるように、私たちを勇敢に、そして恐れずに自由に語らせてくださる力の源がある、真実があるということを教えられます。


 では、それは何かというならば、キリストの愛なのです。彼らが勇敢に語ることができるのは、「キリストの愛」が自分自身を包み込み、この愛こそがすべての恐れを乗り越え、克服する力そのものであると信じているのです。先ほども申し上げましたし、使徒言行録を読んでいただくと分かりますが、彼らは本当に多くの苦難を味わいます。妨害にあい、悪意、敵意を向けられます。普通であれば、そのような状況では諦めてしまっても仕様がないと思わされることに度々遭遇します。


 しかしながら、彼らは主の福音を語り続けました。「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」と黙示録で語られるように私たちの人生の歩みは、この連続です。私の今、生きている地平は、そうかもしれない。労苦がある。悲しみがある。痛みがある。しかし、その私を主はとらえ、愛してくださり、この私が味わってきた労苦、悲しみ、痛みによって流した涙を神ご自身が拭い取ってくださるという福音が示されています。この地平にありながら、私たちは来るべき新しい天と地の世界を望み、仰ぎ見る信仰と希望が与えられているのです。


 私たちは、本来であればそのような神の愛と慈しみと慰めを受けるに相応しくない者でしかありません。なぜならば神のみ前に立たされた時、「お前は律法を守り、義しい者として相応しく生きたか」と問われたならば、「はい、私は一言一句律法を守り、義しい者です」などと決して言うことができません。もし裁判が行われたならば、私たちは誰一人として無罪放免になることはできません。すなわち、私たちは罪人であるという真実だけが、私たちの本質です。


 その真実を覚えながら、今日のみ言葉において、イエスが「あなたがたを愛した」と語り掛けてくださることの驚きと喜びはなおのこと大きな恵みでしかないことに気が付かされます。そして、その愛を「頼みとして」生きていくことの強さと平安を覚えずにはいられないのです。パウロとバルナバは、まさにこのキリストの愛を命の根幹として宣教の道を歩んだのです。このイエスに愛され、キリストを愛するように、互いに愛し合いなさいとイエスは教えられています。これはただ単にそのように生きなさいという指針ではありません。キリストの愛が働くからこそ適う「掟」なのです。キリストの愛が無ければ、この掟は決して守ることはできません。この愛が私たちのすべてを満たすのです。

 

 パウロは、コリントの信徒への手紙の有名な「愛」についての証しで「愛がなければ、無に等しい」(Ⅰコリ13:2)「愛がなければ、わたしに何の益もない。」(Ⅰコリ13:3)と語ります。この「愛」という言葉は「キリスト」という言葉に置き換えると「キリストがなければ、無に等しい」「キリストがなければ、わたしに何の益もない」となります。

「互いにキリスト(愛)し合う」とは何とも変な言葉ですが、しかし、互いにキリストが罪人の私のために生きて、働いて下さっているように、互いに本当に生かし合う関係性の中に生きる時、人は真に喜びと希望、そして勇敢さ、力をもって歩むことができるのです。パウロとバルナバは、迫害による敵意と悪意のゆえにそこを去らねばなりませんでした。しかしながら、そこで語られた福音の証しを通して、弟子となった人々は「互いにキリスト(愛)し合い」、イエスの福音に生き「喜びと聖霊に満たされ」、この信仰の内に歩んでいったのです。


 私たちの人生には多くの苦難があります。涙を流すことが数えきれないほどあります。しかし、その涙をことごとく主イエスご自身が拭ってくださっています。このキリストの愛によって私たちも互いに、隣人の頬を伝う涙を拭っていく神の子とされています。この神の愛の交換の姿に、世の人々は私たちの姿を通してキリストと出会い、そしてキリストの愛が世に満たされている真実に気が付き、希望を与えられ「喜びと聖霊に満たされ」ていくのです。

 キリストの愛を命の喜びとして歩んでまいりましょう。キリストの愛をもってこの苦難と、悲しみと落胆の多い時代に勇敢に歩み、キリストの福音を宣べ伝えてまいりましょう。


 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

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