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ltnishinomiya

5月2日(復活節第5主日)の式文と説教

主の御名を讃美いたします。


お知らせが遅くなって申し訳ありません。

一向に減らない新規感染者の数に心配になります。

皆さんはいかがお過ごしでしょうか。

私は、1月からダイエットに励んでいます。適度な食事と運動をしています。

おかげさまで今日の朝の体重測定で7kg痩せることができました。

まだまだ続けないといけませんが、よく続いているなぁと我ながら感心しています。

また、この間にルターの著作物を読んでいます。

発言について危ういところもありますが、気づきも多く勉強になります。


引き続いて無会衆の礼拝です。皆さんと一つのところに集えないことは悲しいですが、これ以上の感染拡大を防ぐうえでも微力ながら教会として協力していきましょう。


本日も10時20分からライブ配信をいたします。 以下の「日本福音ルーテル西宮教会 - YouTube」という文字を10時20分頃にクリック(選択)していただければご覧になれます。 それぞれ置かれた所で神様の御ことばの恵みに与かってまいりましょう。 日本福音ルーテル西宮教会 - YouTube

皆さんの命が守られますようにお祈りしています。 在主


礼拝式文 復活節第5主日

1. 前奏 (神様への思いを向ける準備をいたしましょう)


2. 祝福の挨拶

司式)父と子と聖霊のみ名によって

 会衆)アーメン


3. キリエ

司式)主よ、憐れんでください。

会衆)主よ、憐れんでください。

司式)キリストよ、憐れんでください。

会衆)キリストよ、憐れんでください。

司式)主よ、憐れんでください。

会衆)主よ、憐れんでください。


4. 主日の祈り

全員)神様。あなたは御子をぶどうの木とし、私たちをつなげて生かしてくださいます。御子の復活に生き、愛の実を結び、喜びに満たされるよう養ってください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン


5. 聖書朗読

第一日課 使徒言行録 8章26節‐40節 (新)228頁

フィリポとエチオピアの高官

8:26さて、主の天使はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。そこは寂しい道である。27フィリポはすぐ出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、28帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。29すると、“霊”がフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言った。30フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、「読んでいることがお分かりになりますか」と言った。31宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。32彼が朗読していた聖書の個所はこれである。

「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、/口を開かない。

33卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。」

34宦官はフィリポに言った。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。」35そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。36道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」†38そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。39彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。40フィリポはアゾトに姿を現した。そして、すべての町を巡りながら福音を告げ知らせ、カイサリアまで行った。


第二日課 ヨハネの手紙一 4章7節‐21節 (新)445頁

神は愛

4:7愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。8愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。9神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。10わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。11愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。12いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。

13神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。14わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。15イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。16わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。

神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。17こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。18愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。19わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。20「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。21神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。


福音書 ヨハネによる福音書 15章1節‐8節 (新)198頁

イエスはまことのぶどうの木

15:1「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。2わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。3わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。4わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。5わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。6わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。7あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。8あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。


6. 讃美歌 525番


7. 説教

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


フィリポと出会ったエチオピアの宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」(8:31)とフィリポに言います。聖書を読みながらも、その本当の意味を見出せずにいた一人の求道者の姿を映し出しています。そして、それは御ことばの真理について全てを知り得ない全てのキリスト者の姿でもあります。


さて、ここに示される「手引き」という言葉はギリシャ語から直訳するならば「導き」という意味があります。この意味からこの出来事を見つめるとき、私たちには導き手がなければ、本当に神の福音を理解することができないという現実を映し出しています。それは、人間の知恵によっては、それを知ることができないという人間の限界をも示しています。この宦官は、エチオピアの女王の財産を管理していた高官であったと記されていますから、恐らく知識階級に属していた人であったことでしょう。そのような知識に富んだ人をしてでも神の福音の真理に到達ことができないでいるのです。


それにもかかわらず私たちは、神の福音について何か知ったような口ぶりで語ることもありますし、理解しているとも思ってしまいます。非常に傲慢な態度です。本来であれば使徒言行録の出来事で示されているように私たちは神の御ことばについて理解することはできません。

それはキリストの十字架の場面でも示されていることです。あの弱々しく、痛めつけられ、罪に問われ、十字架の上で死んだキリストの姿に誰が神の栄光を見出したでしょうか。誰もそのことを知ること、理解することはできませんでした。


では、このエチオピアの宦官が洗礼へと導かれたのは何故なのでしょうか。それはフィリポとの出会いでした。その時、宦官にとってフィリポが素晴らしく、人格的に尊敬出来て、知らない知恵を知っているという驚きから洗礼に導かれたのでしょうか。そうではありませんでした。聖書にはフィリポに「霊」の力、聖霊の力づけ、すなわち神からの力によってイザヤ書の預言を解き明かし、キリストについて宣べ伝えたのです。


ここに私たちのキリスト者の本質があります。一見すると自分自身の決断によって洗礼を受けて、キリスト者としての歩みを始めたと人は思います。なぜクリスチャンになったのかという問いを持っている方にとって、そこに至る決断の内実を知りたいという思いがあることでしょう。しかし、その決断の裏にあるのは全てに神が居られるのです。私たちは、私たち自身だけでは導く者のない者です。


あえて言うならば、罪の力が死へと導き続けている。そういう危機的な状況に常に置かれているのが人間の命の現実です。

しかしながら、この死へと導かれる者に神は御子キリストを遣わし、世のすべての罪のために供え物として、罪に対する怒りをなだめてくださいました。神御自身が私たちを死の道から、命の道へと導いてくださったのです。


罪を犯し、神の怒りの下にあり、死ぬことが当然の私たちがなぜ神の働きによって命の道に導かれるのでしょうか。それは、福音に「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」と示されているようにキリストに繋がっていなければ命の道を歩むことは出来ないのです。しかも、これは私がキリストに繋がるという自発的な行動によるのではありません。「わたしはぶどうの木」と語られているように木であるぶどうに農夫である父なる神が接ぎ木してくださることによってのみそれは可能なのです。


徹頭徹尾神の働きによって私たちは命を得るということです。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」と第二日課で証されている通り、神の愛が私たちを永遠の死から、永遠の命に至らすのです。この愛が無ければ私たちは愛することも、奉仕することも、また時には人の先頭に立って導くことも、福音を証しすることはできないのです。


何故ならば愛を知らないということは、神を知らないということだからです。神を知らないのですから神を証しすることも、エチオピアの宦官をキリスト者へと導くこともできないのです。神の力、神の導きが私たちをキリスト者として立てるのです。そして、この神の愛からたとえ強大な力であっても、人間を魅了するモノであっても、罪の力であっても私たちの命を引き剥がすことは出来ません。


ルターはこの神の愛の力について「なぜなら彼の愛がわれわれをして、神の愛により勝利せしめるからである。私は確かである。彼は、思うとは言わない。完全な信仰をもって確信しているからである。死も、(中略)いのちも、(中略)支配する者も(中略)力も(中略)現在のものも(中略)将来のものも、強さも(中略)高さも(中略)低さも(中略)その他の被造物も(中略)われわれの主イエス・キリストにおいてある、神の愛からわれわれを離すことはできないであろう。」(ルター著作集第二集『ローマ書講義・上』pp118‐119)と語っています。


あらゆるものに勝って神の愛がある。そして、その愛が私の命を捉えて、肉的な命ではなく、永遠の命を与え、最も価値ある賜物を受ける者としてくださっているのです。私たちは、いろいろなモノに魅了され、目、鼻、口、耳、心を奪われます。しかし、信仰はそれらの一切を無価値と見なすのです。エチオピアの宦官はフィリポが見えなくなって、不安に覆われるのではなく、キリストの愛に繋がれているしるしを受け、「喜びにあふれて旅を続けた。」とあります。


私たちは、キリストの愛からもたらされる喜びによって「旅を続け」る者です。喜びながら生きる者とされている。たとえ姿が見えなくとも、もう恐れはない、死も、いのちも、支配する者も、力も、現在のものも、将来のものも、強さも、高さも、低さも、その他の被造物も、何人も私を傷つけることがないという平安に満たされるのです。


私たちはキリストの愛によってもはや導き手の居ない迷える命、何もできない者ではありません。私たちは、キリストとつながっており、豊かな実を結ぶ者とされ、喜びに溢れています。

今、私たちを取り巻く状況はもう一年以上にわたって大きな不安と恐れがあるように見えます。しかし、恐れることはありません。私たちは神の愛に、キリストの愛によってそれらに勝利しています。


キリストによって繋がれている、キリストの愛が私を離さない。この平安を覚えてこの今の時を生きていきましょう。そして、この真理を知らずに、恐れや不安に囚われている人々に、真の平安、喜びをもって生きる道を共に証してまいりましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。


8. 信仰告白 (起立) 司式)使徒信条によって、信仰の告白を共にしましょう。 全員)天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。 そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊 によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。 聖霊を私は信じます。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。(アーメン) 9. 献金 10. 教会の祈り 11. 主の祈り (起立) 司式)祈りましょう 全員)天の父よ。    み名があがめられますように。    み国が来ますように。    み心が天で行なわれるように、地上でも行なわれますように。    私たちに今日もこの日の糧をお与えください。    私たちに罪を犯した者を赦しましたから、    私たちの犯した罪をお赦しください。    私たちを誘惑から導き出して、悪からお救いください。    (み国も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです。)    (アーメン) 12. 祝福 (起立) 司式)主があなたを祝福し、あなたを守られます。 主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたに恵みを与えられます。 主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わります。 父と子と聖霊のみ名によって。 会衆)アーメン。アーメン。アーメン。 13. 後奏


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