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5月5日 復活後第2主日礼拝説教

  • ltnishinomiya
  • 2019年5月5日
  • 読了時間: 10分

「復活信仰の継承」

主日の祈り

み子の従順によって、この世界を死の絶望から救われた神。あなたに忠実な民に、絶えることのない喜びを与えてください。あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン


詩編唱 詩篇 30:2~6

  主よ、あなたをあがめます。あなたは敵を喜ばせることなく、わたしを引き上げてくださいました。

    ∥わたしの神、主よ。叫び求めるわたしをあなたは癒してくださいました。

主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ、墓穴に下ることを免れさせ、

∥わたしに命を得させてくださった。

主の慈しみに生きる人々よ、主に讃美の歌をうたい、聖なるみ名を唱え、感謝をささげよ。

    ∥主はひとときお怒りになっても、命を得させることをみ旨としてくださる。

泣きながら夜を過ごす人にも、

∥喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。


本日の聖書日課

第1日課:使徒言行録9章1‐20節(旧)229頁

9:1さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、2ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。3ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。4サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。5「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。6起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」7同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。8サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。9サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。

10ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。11すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。12アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」13しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。14ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」15すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。16わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」17そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」18すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、19食事をして元気を取り戻した。

サウロ、ダマスコで福音を告げ知らせる

サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、20すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えた。


第2日課:ヨハネの黙示録5章11‐14節(新)458頁

5:11また、わたしは見た。そして、玉座と生き物と長老たちとの周りに、多くの天使の声を聞いた。その数は万の数万倍、千の数千倍であった。12天使たちは大声でこう言った。「屠られた小羊は、/力、富、知恵、威力、/誉れ、栄光、そして賛美を/受けるにふさわしい方です。」13また、わたしは、天と地と地の下と海にいるすべての被造物、そして、そこにいるあらゆるものがこう言うのを聞いた。「玉座に座っておられる方と小羊とに、/賛美、誉れ、栄光、そして権力が、/世々限りなくありますように。」14四つの生き物は「アーメン」と言い、長老たちはひれ伏して礼拝した。


福音書:ルカによる福音書24章36‐43節(新)161頁

24:36こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。37彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。38そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。39わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」40こう言って、イエスは手と足をお見せになった。41彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。42そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、43イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。


【説教】

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

本日のみ言葉の出来事もまた主イエスの復活の時に起こった出来事から聴いています。「こういうことを話していると」と冒頭にありますが、これは二人の弟子が失意のうちにエルサレムから立ち去ろうとしている時に起こった事がらを示しています。それは、共に歩まれた方が実のところ復活の主イエスその人であり、それが最後の晩餐の場面を想い起させるような出来事を通じて、彼らの目が開け、復活のイエスに出会った場面の話です。


 弟子たちにとっては、この二人の話は奇妙な事でした。イエスは確かに十字架の上で死んだにもかかわらず、彼らは主イエスに出会ったなどというのは到底理解しがたいことです。主イエスの復活の後に、ルカ福音書によるならば初めその出来事は婦人たちに齎されましたが、弟子たちは「信じなかった」(24:11)とあります。おそらく、このエマオ途上における二人の経験した出来事も彼らは「信じなかった」のだろうと推察できます。


 以上のようにして復活のイエスに出会った者の話に対して、未だに出会っていない人々との間には、大きな隔たりがあります。だからこそ、イエスが彼らの真ん中に現れたとき、多くの弟子は「恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。」のではないでしょうか。自分の理解の範疇を超えた出来事を経験する時、人は頭や思考では処理できない事がらに対して非常な恐れを抱きます。これは誰にでも言えることです。ですから、イエスが突然目の前に現れたことに対して、弟子たちの心の内には、戸惑いと、迷い、疑い、驚きといった様々な感情が渦巻いていたのではないでしょうか。


 しかしながら、イエスは確かにそこに生きて、今在るのだということを弟子たちに伝えています。これこそ大きな喜びを齎す私たちにとっての福音なのです。イエスは驚き、戸惑い、恐れに取りつかれている私たちに対して復活のお姿を示し、「まさしくわたしだ」と宣言をしてくださっています。復活の確かさをご自身のお姿を現すことによって示されているのです。


 「わたしだ」というメッセージは、今日の第一日課におけるサウロの回心の場面でも与えられているメッセージです。彼は、キリスト教徒の迫害者でした。「主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで」いたと書かれているとおりです。殺そうと思っているほどに嫌っていたキリスト教徒に彼は回心する場面において、イエスと出会います。この時には既にイエスは天に帰られて、この世には生きておられません。そのイエスがサウロに対して「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」と語り掛けたのです。


 ここに記されている主イエスのみ言葉の内にも実は原典のギリシャ語聖書を読んでみますと「わたしだ」「わたしは在る」という言葉が出てくるのです。復活のイエスは、婦人たちに、次に二人の弟子たちに、そして今日それ以外の弟子たちにも現われました。これは、十字架の上で死なれたという出来事を目の前で目撃した人々には到底理解しがたい出来事でした。また、サウロに出会った場面は、今日の福音から数年後の出来事です。いない者が在るという不思議な事がらに私たちは出会うのです。


 しかしながら、これこそが私たちの信仰の基です。そのご降誕の時もそうであったように復活もまた天使がマリアに告げたように「神にできないことは何一つない。」(1:37)のです。そして、この不思議を信じる時あらゆる事柄から解放されます。現実には、私たちの思い患い、心に覚える病、悩み、苦しみ、悲しみ、不和、痛み、憎しみなどは確かに在ることに変わりありませんし、避けがたいのです。


 そこで神は、今日の福音を通してそのような私たちの元にイエスは在るのだと伝えているのです。復活のイエスは、愛する者を失い、悲しみと戸惑い、恐れにあった者たち一人ひとりの元においでになり、「わたしだ」と告げてくださり、決して一人ではないと語っています。私たちの理解を超えた御力をもって、心に覚えるありとあらゆる破れと暗闇の部分を切り裂く光として私たちの元に来られているという真実を伝えています。。


 そして、この出来事は、死という最大の私たちの命に落とす闇を超越して来られました。その壁は私たち人間にとってあまりにも高く、険しく、誰も越えたことがない壁でした。しかし、イエスは、その死の壁を打ち破り、この出来事を通して死はもはやないことを示してくださいました。私たちの常識からするならば信じがたい出来事です。どんなに頭で考え、世の中の事がらを当てはめてもあり得ない出来事です。


 しかし、その私たちでは推し量れない事がらをこれこそ真であると信じる時、驚き、戸惑い、疑いから解放され、本当の喜びが与えられていくのです。「わたしだ」と今も生きて働いて下さっている主イエスの御手の温もり、共に食事をする喜び、共に生きる幸いを覚えていくことができるのです。頭で理解することはできません。私のこの悩みを解決してくれたら信じるでもありません。私の病を癒してくれたら信じるでもないのです。


 「わたしだ」という方、「わたしは在る」というその一点にあらゆる自分を委ね、信じていくのです。復活の日、婦人たちは空の墓に戸惑い、エマオ途上においても復活のイエスに気が付くことができなかった弟子たち、そして今日「喜びのあまり信じられず」とあるように、私たちは本当に弱い信仰の持ち主です。いつでも転んでしまいます。迷い、疑いを覚えてしまいます。


 そのような中で私たちにできることは、先ほど申しましたように「わたしだ」と語り掛ける復活のイエスのみ言葉を信じることです。心もとない言葉に思えるかもしれません。しかし、この言葉は、神が私たちにご自身を顕す時に用いられる言葉です。旧約以来ずっと神は「わたしだ」「わたしは在る」と告げ知らせ、私たちと共に生きてくださいました。そして、それは今も続いています。今こうして私たちが生きている間にも神は在るのです。


 そこにこそ喜びがあります。そこにこそ私たちの平安があります。この世の何にも代えがたい恵みが復活の時語られた「わたしだ」というみ言葉に示されています。富や名声、人との麗しい関係は永遠ではありません。やがて失われますし、壊れることがあります。しかし、神と私たち一人ひとりとのつながりは決して破れることも、壊れることはありません。神は私と共に在るものとして初めから終わりまで永遠に存続します。


 「泣きながら夜を過ごす人にも、∥喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。」(詩編30:6)と聖書に記されているように、世にはたくさんの憂いがあります。不信仰に陥って喜びを見出せないこともあります。しかし神は、そのような私たちに喜びの朝を迎えさせてくださるのです。この復活の出来事はまさに喜びの朝です。喜びの朝を迎えた者は、それぞれに与えられた働きに出ていきました。ペトロ、パウロたちは困難な宣教の道を歩みました。パウロに至っては、180度その生きる道を変えられていきました。復活の主イエスとの出会いは、それほどまでに人を変え、朝の喜びの光の内に歩ませてくださるのです。


 「わたしだ」「わたしは在る」という方が皆さんと共に生きておられます。不思議で、信じがたく、理解しがたい復活の出来事です。しかし、この神の出来事を信じる恵みを私たちは今日覚えています。どうぞその喜びを多くの人と分かち合っていただきたいと思うのです。最初は馬鹿にされることでしょう。ペトロもパウロもそうでした。時に命すら危ぶまれました。しかし、その働きが復活の朝以来、連綿と続けられてきたからこそ、今、現代において生きる私たちにも恵みとして、喜びとして、平安として伝えられているのです。この歩みをこれからもご一緒に続け、復活の恵みに与る喜びに世が満たされるように働いてまいりましょう。


 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

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