主のみ名を讃美いたします。
おはようございます。
雨の主日となりました。礼拝の自粛期間も長期に及び、霊的にも肉的にも充足を得られない日々が続きます。また、本当に長いこのコロナとの生活にも疲れを覚えます。
G.フォン・ラートという神学者の本の中に「神を真摯に受け取ることは、神の恵みの約束を真剣に受け取るということを意味するからです。この恵みがなくなることはありません。そして、神が始められた生の共同体にとっても、死はありえないのです。(中略)神にとって、死は神の力の限界ではありえないのです。」という言葉と出会い、希望を与えられ力づけられました。
このコロナ禍の苦難の中にあっても主が在り、(肉体的、霊的)に勝る方の導きがあることを覚えながら共に歩んでまいりましょう。
パソコンが一時的に復旧しましたので、今週から再びユーチューブから礼拝の模様を配信いたします。
10時20分からライブ配信をいたします。
以下の「日本福音ルーテル西宮教会 - YouTube」という文字を10時20分頃にクリック(選択)していただければご覧になれます。
それぞれ置かれた所で神様の御ことばの恵みに与かってまいりましょう。
日本福音ルーテル西宮教会 - YouTube
新しい一週間が守られますようにお祈りしています。 在主
牧師
聖霊降臨後第3主日
1. 前奏 (神様への思いを向ける準備をいたしましょう)
2. 祝福の挨拶
司式)父と子と聖霊のみ名によって 会衆)アーメン
3. キリエ
司式)主よ、憐れんでください。 会衆)主よ、憐れんでください。
司式)キリストよ、憐れんでください。 会衆)キリストよ、憐れんでください。
司式)主よ、憐れんでください。 会衆)主よ、憐れんでください。
4. 主日の祈り
全員)神様。あなたは全世界を守る いのち の木です。私たちをあなたご自身に接ぎ木して、実を結び、あなたのまことと愛を必要とする人びとに届ける者にしてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
5. 聖書朗読
第一日課 エゼキエル書 17章22節‐24節 (旧)1320頁
17:22主なる神はこう言われる。わたしは高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上に移し植える。23イスラエルの高い山にそれを移し植えると、それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる。24そのとき、野のすべての木々は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、また生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせることを知るようになる。」主であるわたしがこれを語り、実行する。
第二日課 コリントの信徒への手紙二 5章6節‐17節 (新)330頁
5:6それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。7目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。8わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。9だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。10なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。
和解させる任務
11主に対する畏れを知っているわたしたちは、人々の説得に努めます。わたしたちは、神にはありのままに知られています。わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います。12わたしたちは、あなたがたにもう一度自己推薦をしようというのではありません。ただ、内面ではなく、外面を誇っている人々に応じられるように、わたしたちのことを誇る機会をあなたがたに提供しているのです。13わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。14なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。15その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。16それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。17だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。
福音書 マルコによる福音書 4章26節‐34節 (新)68頁
「成長する種」のたとえ
4:26また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、27夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。28土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。29実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
「からし種」のたとえ
30更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。31それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、32蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
たとえを用いて語る
33イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。 34たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。
6. 讃美歌
7. 説教
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
本日の福音の御ことばは天の国についてキリストが明らかにされたたとえ話です。今日の箇所では、「種」を用いて弟子たちに語られています。この与えられた御ことばを通してキリストが私たちに伝えようとしている福音、真理は何かご一緒に聞いてまいりたいと思います。
さて、二つの種についての譬えですが、どちらもその種が大きくなり、実がなることや、大きな枝葉を茂らせるということが語られています。キリストは天の国について話されたわけですが、天の国とはそのようにして成長し、大きくなり、実りをもたらし、憩うところとして語られています。
今日は、まず二つ目の「からし種のたとえ」の譬えに目を向けてみたいと思います。キリストは、からし種が「地上のどんな種よりも小さい」と語られます。キリストの福音宣教は、まさに小さな一歩にすぎませんでした。キリストの働きについて「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。」(マルコ6:3、4)とあるように多くの弟子たちが従いましたが、それでもナザレの片田舎の大工の息子という地位も権威もない者であり、この世的には決して大きな者、強い者ではないと考えられていました。
ほかにも「「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(ヨハネ1:45)とあるようにキリストの生い立ちは、決して大きなインパクトを人にもたらすような出自ではありませんでした。同胞のものですら、ナザレから偉大なことが起こるとは誰も想像していない様がこのヨハネ福音書のナタナエルからの言葉にもにじみ出ています。
しかしながら、このいと小さき者の御業が大いなる神の御業を示されました。キリストが死ぬことによってすべての人の罪が贖われ、復活によってすべての人が滅びる命ではなく、永遠の命を得て、キリストと共にいつまでも生きる者とされるという福音を示します。私たち罪人のために、キリストが救いを成し遂げるために生きて働いてくださったことを福音から示されます。
このようにして救いとは、キリストの働きです。私たちが何かを成し遂げたことによるのではなく、キリストご自身がお働きくださったことにより恵みとして私たちは受け取り、新しい創造の御業に与っているのです。この一方的な神の働きにより救われているということは、神の国についても同様に言えるのです。
今日の一つ目の譬えにおいて、「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」とあるように、神の国についても私たち人間の力や働きが介入する余地は無いことを示しています。救いと神の国の到来は同義語です。そうであるならば、神の国の実現は、完全なる神ご自身の働きであり、それはハッキリ言ってしまうならば人間の知るところではないし、知る由もないのです。
それは、エゼキエル書で「高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上に移し植える。」と語られている通りでもあります。神が私たちの救いのために、私たちの平安のために御手をもってお働きくださっているということを伝えています。私たちは、その成長した木陰で憩わしてもらう者でしかありません。また、その実りをいただく者でしかないのです。
私が何かをしたからその実りとして救いに至ったのでも、私がレバノン杉のように大きくなったのでもありません。大きくなったのは、主の御業であり、キリストの十字架の死と復活の恵みです。ガリラヤのナザレという田舎者、いと小さき者の働きが今や全世界に行き渡り多くの人々を救い、平安を与え、平和をもたらしたのです。
この小さいようで大きな神の恵みに私たちは与っています。独りの命が死ぬことによって、私たちの罪にまみれた命も死に、独りの復活によって私たちもこの復活の命に与っているのです。罪人の時も、救われても徹底的な神の御業、御手のうちに私たちの命があるのです。すなわち、それは私たちはこのたった独りの方といつも共にあるのです。
神の国も初めは誰も目にとめない事がらでした。しかしながら、それが波紋のように広がり、私たちの内に現在し、私たちを喜びと平安に導いています。だから私たちは、このコロナ禍にあって、普段の生活においても、信仰生活においても大きな苦難を伴ってなお、希望の内に歩むことができるのです。弱くされているようで力強いのです。
この福音の恵みは「15白髪になってもなお実を結び/命に溢れ、いきいきとし」(詩編92:15)続けます。たとえ年老いて、命が弱まっているように見えても、この福音に与っているのですから、命は輝き、生き生きとしている。実など生らさないと思われていても、豊かに実を結び続ける者とされるのです。永遠の命に与った者は、誰もが向かうと思われている死、枯れ枝になるのではなく、益々豊かに実りを齎し、いつも喜びに溢れさせてもらうのです。
今、この喜びが失われているような社会、世の中にあります。コロナによって多くの人の命が蔑ろにされている現状を垣間見ます。多くを持っていると思われている人が永らえると考えられています。強い者が生き残る。そんな世の中になっています。しかし、神の福音は、そうではありません。「主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、また生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせることを知るようになる。」(エゼキエル17:24)のです。
この神の力付けを待っている方々がたくさんおられます。弱くされ、小さくされ、命の危機に瀕し、不安を覚え、焦燥している方々がたくさん居ることを私たちは様々な出来事で見聞きしています。特にこのコロナ禍によってそれがあらゆるところで露呈し、多くの人がこのような思いに囚われています。今こそ、死の闇は取り払われ、神の栄光、神の支配が世に満ちている。神の国にあなたの命があると宣べ伝える時が与えられています。
神の平安がこの世に豊かに実現しており、この主の御許にこそ命が溢れている、希望が溢れていることを隣人に分かち合ってまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
8. 信仰告白 (起立)
司式)使徒信条によって、信仰の告白を共にしましょう。
全員)天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。
そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊 によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。
聖霊を私は信じます。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。(アーメン)
9. 献金
10. 教会の祈り
11. 主の祈り (起立)
司式)祈りましょう
全員)天の父よ。
み名があがめられますように。
み国が来ますように。
み心が天で行なわれるように、地上でも行なわれますように。
私たちに今日もこの日の糧をお与えください。
私たちに罪を犯した者を赦しましたから、
私たちの犯した罪をお赦しください。
私たちを誘惑から導き出して、悪からお救いください。
(み国も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです。)
(アーメン)
12. 祝福 (起立)
司式)主があなたを祝福し、あなたを守られます。
主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたに恵みを与えられます。
主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わります。
父と子と聖霊のみ名によって。
会衆)アーメン、アーメン、アーメン。
13. 後奏
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